戦国から江戸時代の男色花盛りはよく知られるが、かの天下人、豊臣秀吉に限っては好色絶倫をもって伝えられている。有識故実家の髙山宗東さんは「男色家は風雅な人という意味で『数寄者』などとも呼ばれ、高級な趣味として尊敬すらされていた。
低い身分から天下人となった秀吉はそれゆえ男色を嗜まないのだ」という――。
■男性同士の恋愛は「良きもの」な戦国~江戸時代
男性同士の同性愛は、近年だいぶ市民権を認められつつある。
明治維新から太平洋戦争までの近代日本国家は、総力をあげて「強兵」政策を押しすすめた。だから男の子は、いざという時に立派な兵として戦えるように、「男らしく」育てられなければならなかったのだ。
そうした風潮は、戦後にも多分に残っていた。今でこそ、ニューハーフや女装家、ホモセクシュアルを公表した人たちがテレビ画面をにぎわせているけれど、1980年代頃までは差別や偏見も根強く、彼らの嗜好が市民権を得ることは、なかなか難しかったのである。
してみれば明治より以前の封建時代は、さらに厳しかっただろうナ……などと、合点するのはいささか早計である。むしろ、戦国時代から江戸にかけての「武士の時代」の方が男性同士の恋愛は大っぴらにおこなわれ、社会的にもむしろ「良きもの」として認知されていたのだから……
武田信玄、上杉謙信、織田信長、伊達政宗などなど、名だたる戦国武将はみな男性同士の肉体関係を楽しんでいた。女好きの徳川家康でさえ、井伊直政とそういう関係であったという。
ホモセクシュアルな関係は「男色」とか「衆道」と呼ばれ、現在のように「そのケがある」人のみならず、男性にとって女性と関係を持つのと同じく、ごく当たり前の嗜好であった。ほとんどの人間が、バイセクシュアルだった――と言い換えてもよいだろう。
むしろコチラの趣味が無い人の方が少数派で、『老人雑話』という史料の中には、「豊臣秀吉はめずらしく男色を好まない」という意味のことが特筆されている。

■甲斐の虎のラブレター
「俺の、君への思いを次のように誓う!
一、君というものがありながら、君の同僚の弥七郎を口説いたことは事実です。しかしそのたびに弥七郎から「今、お腹が痛いので……」と拒否され、結局、思いを遂げることはできなかったんだ。口説いたことは認めているのだから、このことにウソはないよ。
一、弥七郎を夜伽に召し出し、俺の床に寝かせたことは一度もありません。弥七郎は家来のひとりだから、あるいは昼間に仕事の態を装って召し出し、行為に及んだこともあるのでは? と君は勘ぐるかもしれないけれど、そんなことをしたこともない! 特に、君が来てくれなくて、独りさびしい今夜なんか、人恋しくてたまらないけれど、こんなにさびしい時でさえ、もう俺には、弥七郎を口説こうなどという気持ちはさらさらないんだよ。
一、俺の思いは、ただ君と親しく枕を交わしたいというだけなんだ! だけどそのために俺が何かフォローすると、君はそれを疑って、浮気の証拠隠しのように悪く取ってしまうから、俺はとても困惑している。
もし、ここに書いたことにウソいつわりがあったら、俺はどんな罰を受けてもいい。俺たちの地元である甲斐の国のあらゆる神様に誓うよ! 一の宮だろ、二の宮だろ、三の宮の大明神だろ、富士に白山、それに、俺たちは武士だから、武人の守り神でもある八幡大菩薩と、上諏訪・下諏訪の大明神にも誓おうね。だから、機嫌をなおしておくれよ。
PS
普通「起請文」は、サ、神社の印を押した特別な誓紙に書くものだよね? でもこの手紙は普通の紙にしたためている。このことを君は、不実だと疑うかもしれない。だけど、誓紙に書かなかったからといって、俺はいい加減な約束をしているわけじゃないんだ。

俺にも立場があるだろ?
起請文を書くということは、武将が命をかけることだ。誓紙をとりよせ、俺がそこに何かしたためたりしたら、瞬く間に館中に噂が広がって、重臣たちが「何を書いているのですか?」なんて、ツマラナイ気をまわす。
トップである俺が、重臣たちを差し置いて、君にこんなに真剣な手紙を書いているなんて知れたら、ヒガんだ上役が、君をいじめるかもしれない。だから、普通の紙に書いたのサ。
明日、人目を盗んで、あらためて誓紙に書くからね。
七月五日 晴信
春日源助どの」

■本物か偽文書か?
これは、天文十五(1546)年に書かれたと推定される、『武田晴信誓詞』の現代語訳である。書いたのは、武田信玄として後世まで知られる甲斐の虎。「誓紙」などというともっともらしいけれど、平たくいえば、武田信玄が自らの浮気で拗ねたホモセクシュアルの相手に書いた詫び状だ。
お相手の春日源助(源五郎)こと後の高坂弾正昌信は、武田四天王に数えられた猛将で、武田騎馬軍団の一翼を担う重臣であった。
武田信玄率いる甲州騎馬軍団といえば、三段撃ちの登場で鉄砲に敗れはしたものの、それまでは戦国時代最強を誇る大師団であった。その強さの秘密は、大将である信玄みずから「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」(『甲陽軍艦』)とのフィロソフィーをもって家臣を大切にし、家中の結束をかためたゆえ……と、これは現代でも社長挨拶などで、しばしば使われるエピソードである。
もちろん、武田軍団全員が男色関係で繋がっていたというわけでもないが、強さの一端は、こうした結束の固さにもあったに違いない。

ところで、東京大学史料編纂に所蔵されたこの文書には、近代以後、「花押が違う」とか「紙が新しい」など、偽文書説がたびたび出ている。近現代の価値観では、「あの武田信玄が男色好みだったわけがない」と、名将ホモセクシュアル説を認めたくないのだろう。
しかし、近世中期以前の感覚では、この文書は、主従が固い絆で結ばれていた証にほかならなかった。なるほどこの文書は、武田信玄の直筆ではないかもしれない。しかし、その家にとって大切な古文書は、紙が古くなったり、分家が独立したりする際には、そっくりに書き写し、分け与えて先祖の誇りを伝えたもの。この誓詞も、そうしたもののひとつであった可能性は、充分にあり得るのである。
■男色の背景
武士の時代に男色が盛んにおこなわれた背景には、しきたりや主従関係、戦場における連帯感の想起など、武家の習俗が深くかかわっている。
例外を除いて、ふつう戦場には女性は連れて行かない。武士たちは、明日の命もわからない極限状態の緊張感を慰めるため、また共に闘う連帯感を深めるため、あるいは主君に命を捧げる証として、戦陣において男同士の契りを交わしたのであった。
また武家は、嫡子相続制が基本であった。能力が低くとも、身体が弱くても、先に生まれた長男が家を継ぎ、次男以下はそのサポートにまわる仕組みである。
そうしたしきたりのなか、結婚前の家長が正妻でない女性に子供を産ませてしまうと、正妻の子が次男以下になる可能性がおこり、御家騒動のもとになる。

だから「結婚する前は、女の尻を追いかけるより、男と関係していた方が良い」と、男色が公認されたのである。
ゆえにこそ、男の友情を深め、「あはれ」の心を育む男色は、高尚な趣味とされた。男色家はまた、風雅な人という意味で「数寄者」などとも呼ばれ、尊敬すらされたのである。
■文学にも描かれたホモセクシュアル
江戸時代の文学作品にもホモセクシュアルの要素は数多く登場する。『好色一代男』の主人公世之介は、3742人という途轍もない数の女性遍歴を重ねたが、さらに725人の少年とも情を交わしたという。
東海道中膝栗毛』の弥次さんと喜多さんも、もともとは男色の関係であったことが本文に明記されている。これらの記述に、恥じたり、憚ったりする気配は微塵もない。ホモセクシュアルの関係はそのくらいごく当たり前のこと……否、むしろカッコいいことだったのである。
江戸中期、上田秋成によって書かれた怪奇小説集『雨月物語』には、現代人もびっくりしてしまうほど開放的な性意識が底流している。
たとえば「菊花の約」はホモセクシュアルな香りただよう男同士の友情物語。「浅茅が宿」は長らく放置された妻が幽霊となって夫を待ち続け、ようやく戻った夫と同衾する放置プレイ&幽霊姦話。「青頭巾」は小児性愛、ネクロフィリアおよびカニバリズムが話の主題である。

これらの欲望を、しかし秋成は、人間という存在がなかなかに切り離すことのできない、切ない「愛執」として描いている。欲望もまた、人間の性である……と。
こうした姿勢は、前近代に四民の手本とされた武家の風習に端を発し、敷衍したものだ。
男同士の約束は大切に守られねばならない。放置され、死してなお夫の帰りを待つ妻など、女子の鑑であった。また、僧が女性と性交することを厳しく禁じた仏教界では、しかし男性として身体から湧き起る性欲のはけ口を稚児に向ける慣習があった。その切なさを描いた作品は、同じく厳しい制度的現実を生きる前近代の読者にとっては、浅ましくとも憐憫を禁じ得ない物語であった。
女房にむかしの若衆引あわせ

誹諧武玉川
これは、「妻となった女性に、昔のホモセクシュアルの相手を紹介している」場面を詠んだ古川柳である。
開明的性意識を持っていると自認する現代人でも、ちょっと引くほどの闊達さではあるまいか。
■秀吉と男色
さて『老人雑話』に見られる、豊臣秀吉とホモセクシュアルのエピソードである。
秀吉の小姓に羽柴長吉(池田藤三郎長吉)という美少年がいた。ある時秀吉が、人気のないところにこの長吉を呼び出して、耳元でなにか囁いた。
この噂を聞いた人びとは「日ごろ男に興味のない秀吉でさえ、長吉の美貌にはよろめくのか」……と驚いた。
しかし秀吉は、こっそり長吉にこう訊いたのである。
「お前に姉か妹はいないのか?」
羽柴長吉は太閤の小姓、無比類美少年(むるゐなきびせうねん)也。太閤或時人なき所にて近く召す。日比(ひごろ)男色を好み給はぬ故に、人皆奇特の思ひをなす。太閤とひ給ふは、汝が姉か妹ありやと。長吉顔色好き故也。

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髙山 宗東(たかやま・むねはる)

近世史研究家、有職故実家

歴史考証家、ワインコラムニスト、イラストレーター、有職点前(中世風茶礼)家元。不肖庵 髙山式部源宗東。1973年、群馬県生まれ。東京大学先端科学技術研究センター協力研究員、大阪市ワインミュージアム顧問、昭和女子大学非常勤講師(日本服飾史)などを務める。専門は江戸時代における戦国大名家関係者の事跡研究、葡萄酒伝来史、有職故実、系譜、江戸文芸、食文化、妖怪。

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(近世史研究家、有職故実家 髙山 宗東)
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