■赤の広場で焼身を図った企業トップ
2024年7月26日、モスクワの赤の広場。一人の老人が体にガソリンを浴び、自ら火をつけた。ロシア政府と目と鼻の先、ソ連建国の父レーニンの廟のすぐそばでの焼身自殺未遂だった。
男性の名はウラジーミル・アルセニエフ、75歳。モスクワの軍需企業ボルナを率いる科学者だ。戦車兵用の通信機器の部品を製造している。重度のやけどを負いながらも一命を取り留めた同氏は昨年12月、入院先からロイターの取材に応じ、自らを追い詰めたロシア経済の実態を初めて公に語った。
2022年、ロシアがウクライナへの全面侵攻に踏み切ると、アルセニエフ氏の会社には国防省から注文が殺到したという。一見すれば願ってもない商機だ。しかしそれは「毒の杯」だったと同氏は振り返る。求められたのは猛烈なペースでの増産と、極めて短い納期の厳守。
無理な要求に耐えきれなかった。2023年春ごろになると、同社の生産スケジュールに遅れが出始めた。同年9月、追い打ちをかけるように国防省から通告が届く。部品の購入額をほぼ半分に減らすという内容だった。生産工程の自動化が進んでコストが下がったはずだ、というのが理由だが、戦費の圧縮を目論んでの通達だったことは明白だ。会社の口座は税金の滞納を理由に凍結され、従業員への給与も払えなくなった。
焼身自殺未遂の後も、同氏はやけどの治療を受けながら会社の問題解決に奔走した。だが、成果はほとんど得られなかった。会社は今も何とか存続しているものの、規模の縮小を余儀なくされ、受注も大幅に減った。アルセニエフ氏は職場に復帰したが、その時間の多くは裁判所への出廷に費やされている。給料の未払いに加え、無許可のデモ行為に罰を下されたためだ。
■生産が追いつかなければ「犯罪」とみなされる
アルセニエフ氏の悲劇は、現在のロシア軍需産業が抱える構造的な危機を象徴している。
米フォーリン・アフェアーズ誌によると、ドローン生産を除けば、ロシア軍需産業の生産能力は2024年までにほぼ頭打ちとなった。工員の人材はすでに枯渇しており、前線に送られる装備の大半は新品ではなく、NATO製に見劣りする改修品だという。
同誌はこうした構造を「使い捨て経済」と呼ぶ。工場はフル稼働し、労働者は喜んで賃金を受け取り、原材料への需要も急増する。しかし、戦車もドローンも砲弾も、戦場に出れば即座に破壊されてしまう。道路や発電所、学校といった長く残る資産は何も生まれない。戦争が続くほど経済が回る一方で、国は貧しくなっていく。
価値ある資産の生産が後回しになる中、それでも当局はスターリン式と呼ばれる厳しい発注要件を工場経営者らに押しつけ、生産量を確保しようと躍起だ。
ロイター通信がモスクワの裁判記録を調べたところ、ウクライナ侵攻開始以降、防衛契約をめぐって少なくとも34人が刑事訴追されていたという。うち企業トップが11人、幹部が2人を占める。訴追の根拠とされたのが、腹を肥やす目的で防衛契約を妨げれば、最大10年の懲役が科されるという法律だ。
風向きが変わったのは2022年9月の法改正からだ。処罰の対象が大幅に広がり、契約への署名を拒んだり、履行できなかったりした場合も、状況によっては罪に問えるようになった。さらに翌2023年1月、プーチン大統領は検察当局に対し、軍需分野の発注が期限通りに履行されているか「監視を強化せよ」と号令をかけた。
無理な押し付けは、結果として労働者である国民を疲弊させている。独立系メディア「メドゥーザ」がロシア国家統計局のデータを基に伝えたところによると、昨年9月末時点でロシア全土で賃金未払いの被害を受けた労働者は1万300人に達した。未払い総額は19億5000万ルーブル(約39.5億円)と、前年の4倍に膨らんでいる。統計には小規模事業者が含まれておらず、実態はさらに深刻とみられる。
■ついに墜落事故に発展した
財政難から安全面にも深刻な影響が出始めた。
ウクライナの軍事・防衛専門メディアのディフェンス・エクスプレスによると、ロシアの第308航空機修理工場は債務が膨らんで破産の瀬戸際にあり、電気代すら払えない状態だという。労働者らは昨年9月から給料を受け取れていない。
この工場で修理されたAn-22輸送機が昨年12月9日、試験飛行中にイワノヴォ北方で墜落し、乗員8名全員が死亡した。
給料を払わなければ修理工らは当然、相応の仕事しかしない。戦争経済の綻びにより、ついに国民の命が奪われた形だ。
工場の財務状況は壊滅的だ。同メディアによると、負債総額は376万ドル(約5.95億円)。給与の未払いが72万ドル(約1.1億円)、電気代25万ドル(約4000万円)に上る。加えて、2020年の契約でロシア国防省に過剰請求していたと咎められ、230万ドル(約3.6億円)の賠償を命じられている。近く電力供給が停止される見通しで、破産は避けられない情勢だ。
■ロシア空軍の修理体制に打撃
ロシアにとって、この工場の閉鎖は痛手だ。An-22、An-30、An-32を修理できる施設は国内でここしかなく、An-7整備拠点の役割も担っている。ロシア航空宇宙軍が保有するこうした輸送機は、An-22が2~5機、An-26は110機以上、An-72は約25機。工場が機能停止に陥れば、これらの機体の維持は格段に厳しくなる。
苦境に陥っているのは修理工場だけではない。ロシア有数のドローンメーカー、クロンシュタット社も破産の淵に立たされていると、ユナイテッド24が報じている。
同社が手がける「オリオン」や「イノホージェッツ」は、アメリカのMQ-9リーパーに対抗する国産機として注目を集めてきた。だが同社の経営は今、破綻の瀬戸際にある。株主だったAFKシステマが撤退し、資金繰りが悪化した。また、アメリカとEUの制裁で西側部品の調達が途絶える中、政府は逼迫したサプライチェーンでは到底さばききれない大型契約を次々と押し付けてきた。
2024年夏以降、しびれを切らした債権者からの訴訟請求総額は6億ルーブルを超え、5月時点で負債は10億ルーブル(約20億円)を突破している。
■民間航空はすでに崩壊寸前
ロシアの民間航空産業は、長らく西側の航空機や技術に頼ってきた。そう指摘するのは、米シンクタンクの大西洋評議会だ。
ウクライナ全面侵攻の前からすでに、名目上はロシア製とされる航空機ですら、実際には外国製部品なしには成り立たない状況であり、制裁をかいくぐってアメリカから部品を密輸するありさまだった。
侵攻が始まると、ロシア国外の各航空会社は、リースしていた機体を急いで回収した。そこでロシア各社は、古い機体を部品取り用に解体して何とかしのごうとした。
記事によると2024年には、民間航空の事故件数が過去最高を記録。2030年までに1000機以上の民間機を製造するという計画は、もはや絵空事と化している。トランプ政権との協議でロシア側は、航空産業を自国の急所であると自ら認め、凍結された国家資産でボーイング機を買わせてほしいと懇願したという。
■3カ月無給の企業も
財政難のしわ寄せは、労働者の暮らしに重くのしかかっている。
ロシア海軍や国家親衛隊向けの契約を担う軍需企業、キンギセップ機械製造工場(KMZ)。ここでは3カ月もの間、賃金が支払われていない。鋳造部門の職長は、「状況は深刻だ。いつ給料が出るのか、誰にも分からない。ローンも払えない。みな家族がいるのに」と訴える。
メデューザが引用したロシア独立系メディアのiStoriesの報道によると、未払い総額は少なくとも3億ルーブル(約6.1億円)に達する可能性があるという。工場では大量解雇も進んでいるが、退職する従業員ですら、最後の給料を受け取れずにいる。
賃金の遅れは軍需産業だけの問題ではない。ロシア連邦統計局によると、未払い賃金の44.1%は建設セクターに集中している。バシコルトスタン共和国を通るM-12高速道路、オリョールの大学キャンパス、クラスノヤルスクの地下鉄などなど。今年に入り、主要インフラの建設現場から支払い遅延の訴えが相次いでいる。
ウリヤノフスク地域では昨年11月、原子炉建設現場の作業員約300人が未払い賃金に抗議してストライキに踏み切った。「もう先が見えない。会社が潰れるんじゃないかと怖くなって、辞表を出した仲間もいる」。現場の従業員はそう打ち明ける。
鉱業部門も深刻だ。未払い全体の17.5%を占め、建設に次いで多い。今年最も注目を集めたのはケメロヴォ地域の事例で、炭鉱から500人以上が解雇された。
影響は石油労働者、ホッケー選手、教師、医療従事者など、あらゆる業種に広がっている。イルクーツク地域では、何カ月も給料をもらえなかったボイラー工場の作業員が、病気の子どもを病院に連れて行く金を工面するため、飼っていた馬を手放した。
■限界に達したロシアの軍需産業
ウクライナ侵攻は、軍需工場に大量の注文をもたらした。だが経営者たちにとって、それは朗報ではなかった。人手が足りない。部品の調達も滞る。資金繰りは綱渡り。そんな三重苦のなかで、ウクライナ戦線を維持するための増産を迫られている。
人材不足も問題だ。動員によって熟練工が次々と現場から消え、生産ラインを維持することさえ難しくなっている。プーチン大統領が始めた戦争は、皮肉にも、ロシア自身の産業基盤を内側から蝕み続けている。
生産力が落ちれば、大規模な侵攻を続けること自体が難しくなる事態も起こりうる。だがその一方で、追い詰められたロシア政府が、より危険な行為に出る可能性も否定できない。イランや北朝鮮、中国との結びつきをさらに強める事態すら想定される。
日本にとっても、他人事ではない。欧州の安全保障をどう見立て、長い目で見た防衛手段をいかに確保するか。いずれ避けて通れない課題となる。ロシア情勢の影響が、世界全体の安全保障を揺るがしている。
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青葉 やまと(あおば・やまと)
フリーライター・翻訳者
1982年生まれ。関西学院大学を卒業後、都内IT企業でエンジニアとして活動。6年間の業界経験ののち、2010年から文筆業に転身。技術知識を生かした技術翻訳ほか、IT・国際情勢などニュース記事の執筆を手がける。ウェブサイト『ニューズウィーク日本版』などで執筆中。
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(フリーライター・翻訳者 青葉 やまと)

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