NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では秀吉と後に正室となる寧々の関係が描かれている。2人はどういった経緯で結婚したのか。
歴史評論家の香原斗志さんは「親戚関係にあり、早くから知り合いだった可能性も高い。だが、それが婚姻の大きな理由だったとは考えにくい」という――。
■史実における若かりし頃の秀吉と寧々の関係
永禄3年(1560)5月19日。桶狭間での戦勝後、藤吉郎(池松壮亮、のちの羽柴秀吉)と小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)は無事に清須(愛知県清須市)に戻った。安堵したのは、男たちの帰りを待つしかなかった女たちで、小一郎の想い人の直(白石聖)は「よう無事じゃったな」といって、人目もはばからず小一郎に抱き着いた。
その姿を眺めて藤吉郎が、しみじみと「ええのお」というと、直が侍女として仕える寧々(浜辺美波)が「お帰りなさいませ」といった。想い人の寧々から自分への心遣いかと、藤吉郎は思いがけぬよろこびに浸りそうになるが、その声がけは、むしろ父の浅野長勝(宮川一朗太)に向けられたものだったようだ。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第4回「桶狭間!」(1月25日放送)。
第5回「嘘から出た実(まこと)」(2月1日放送)では、藤吉郎と小一郎は信長の馬廻衆(大名の近くに付き添い、護衛や伝令、兵力として貢献した武士たち)に出世し、それなりの家が宛がわれる。そして藤吉郎は、もっと出世して、寧々に早く思いを伝えたいと願うようだ。具体的には、早く侍大将になりたい、と。
周知のとおり、寧々は藤吉郎の妻になる女性で、「豊臣兄弟!」でも、2人はもうすぐ祝言を挙げることになるが、では、寧々はどういう生まれで、秀吉とはどういう関係で、史実においてはどんな経緯で結婚したのだろうか。

■結婚時の評価は「1000万円超」
最初に、藤吉郎が結婚するまでの出世について記しておきたい。『明智軍記』の「秀吉立身之事」には、それまで小者(雑用を務める奉公人)にすぎなかった藤吉郎が、足軽とはいえ士分に取り立てられたきっかけが記されている。桶狭間合戦の翌年の永禄4年(1561)8月に清須城の塀が崩れた際、修理奉行を買って出てしっかり成し遂げたのが、信長に評価されたのだという。
それを機に出身地にあやかって中村藤吉郎と名乗り、信長の馬廻衆だった木下雅楽助の寄子(寄親の配下または庇護下の武士)になる。翌年には、雅楽助の苗字をもらって木下藤吉郎と名乗るようになったという。
その後、信長が居城を清須から小牧山(愛知県小牧山市)に移すと、美濃(岐阜県南部)の斎藤家との争いのなかで軍功を挙げ、まずは100貫(現代の価値に置き換えると1000万~2000万円程度か)の所領をあたえられ、侍大将に出世した、と記されている。
実際、信長が尾張(愛知県西部)を平定した永禄8年(1565)には、秀吉が信長の指示に従って、美濃の武士に所領をあたえる仲介をしたという記録が史料に見られる。寧々と結婚したのも、この年の可能性が高いとされている。
■秀吉と寧々は親戚関係にあった
寧々の父は「豊臣兄弟!」でも一緒に暮らす浅野長勝だが、正確には養父である。実父の杉原定利は杉原家利の婿で、家利の娘の朝日殿の婿として杉原家に入ったとされる。この朝日殿が寧々の実母で、浅野長勝の妻の姉妹にあたるという。すると、長勝は妻方の姪を養女にしたことになる。

その長勝は『信長公記』によれば、信長馬廻の弓衆3人のうちの1人だったという。ただ、夫婦には子どもが生まれなかったので、妻の姉妹の子を養子に迎えたのだろう。
これについて、駿河台大学教授の黒田基樹氏は次のように書く。「長勝は、『寛永諸家系図伝』所収浅野系図(『寛永諸家系図伝第二』二五九頁)には、『男子なき故、二人のむすめを養いて、一女は秀吉に嫁し、一女は長政に嫁す』と記されている。もう一人の養女とされているのが、養嗣子・長吉(のち長政)を迎えた、寧々の妹とみなされる屋々(長生院殿)にあたる」(『羽柴秀吉とその一族』角川選書)。
また、寧々は藤吉郎の親戚筋でもあった。藤吉郎の実母(のちの大政所)の妹婿は杉原家次といって、寧々の実母である朝日殿の弟だった(朝日殿が婿をもらったのちに生まれたと思われる)。しかし、当時の武士の結婚は親戚内で行われることが多かったので、まったく不自然ではない。
■早くから知り合いだった可能性
では、どうして藤吉郎は寧々と結婚することになったのだろうか。寧々が「想い人」だったからだろうか。
2人の結婚に際しては、寧々に読み書きや学問などを指導していた女性がからんでいるといわれる。その女性とは、藤吉郎が寄子として仕えた木下雅楽助の妹である。
先の黒田氏によれば、岡山県史第25巻所収の『森家先代実録』には、その女性が藤吉郎を見込み、女性の夫であった那古屋(なごや)敦順をとおして、浅野長勝に養女の寧々と藤吉郎の結婚を勧め、信長への執り成しまでしたと書かれているという。
2人が結婚したのが永禄8年(1565)8月であったなら、すでに藤吉郎は100貫の所領をあたえられた侍大将になっていた。その立場であれば、結婚するのに主君たる織田信長の承認が必要だった。
すでに記したように、藤吉郎と寧々は親戚関係にあり、しかも、自分の寄親である木下雅楽助の妹が寧々に学問を教えていた。ということは、2人は比較的早い時期から知り合いだった可能性が高く、たがいに、あるいはどちらか一方が、相手に恋心をいだいたこともあったかもしれない。
■前田利家が媒酌人という記載
しかし、戦国時代の武士のあいだで、恋愛が結婚の動機になることは基本的になかった。結婚は主君の承認が必要なだけでなく、相手の家との関係強化の必要性など、周囲の状況によって決まるものだった。
2人の婚姻は、浅野家に伝わる史料や『森家先代実録』など、史料によって内容が若干異なる。後者によれば、信長に結婚を承認してくれるように働きかけたのは、前述のように那古屋敦順夫妻ということになる。一方、浅野家の史料では、浅野長勝の兄(または父)の浅野長季、大橋重賢のほか、柴田勝家や前田利家という名前も挙げられている(前田利家が媒酌人を務めた、という記載も見られる)。
前出の黒田氏はこう書く。「当日の婚礼を、浅野長季・柴田勝家・大橋重賢・前田利家らが取り仕切り、河野善左衛門尉・高間小左衛門尉が世話をし、信長から使者が派遣されて祝儀が贈られた、というのは確かなことであったと思われる」(前掲書)。

こうした記録を見ても、2人の結婚が信長の家臣団のなかにおける、家と家との結婚であったことがよくわかる。加えるなら、秀吉との関係性が終始悪かったようにもいわれる柴田勝家や、この時点では「豊臣兄弟!」でも藤吉郎の目の上のたんこぶのように描かれる前田利家の名もあるのがおもしろい。
■NHK大河では描きづらい戦国武将の結婚事情
戦国大名にとっては、まず家臣団を結束させ、さらには、かつての敵国を含む周辺諸国と同盟を組んだり、関係を強化させたりする必要があった。こうした関係の構築こそ戦国大名の生命線であり、そのために活用すべきものが結婚だった。
だから、大名みずから実子や養子を周辺諸国に送り出し、縁戚関係を結んで国境に対する脅威を軽減した。同時に足元の家臣団においても、結婚という手段を通じて結束を強めさせた。藤吉郎と寧々の結婚も、その一環であったことはいうまでもない。もちろん、結婚相手を押しつけられ、だれかに対する恋情を必死に断ったという例は、いくらでもあっただろう。しかし、当時は恋情を優先するという発想は皆無であったから、どんなに苦しかろうと、原則として家の決定に従うものだった。
だからといって、「豊臣兄弟!」のような歴史ドラマでも、恋愛の描写を廃除してしまったら無味乾燥な展開になってしまう。藤吉郎も小一郎も「想い人」への思いを貫くという描き方になるのは仕方ないと思う。だが、生き馬の目を抜く戦国時代において恋愛という発想は生ぬるく、そんな思いを優先していたら到底生き抜けなかった、ということは頭に入れておいてもいい。

ただ、藤吉郎でも寧々でも相手に思いを寄せていたところが、その意中の相手を宛がわれたという幸福な偶然は、当時もきっとあったとは思われるが。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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