■鮨の握りを『情熱大陸』で学んだ男
ほぼ独学で鮨(すし)を学び、ミシュランの星を獲得した職人がいる。その名は、木村泉美。
地元富山の回転寿司店で3年働いた後、いきなり独立して失敗。再起をかけた彼が参考にしたのは、名店として名高い「あら輝」を率いる荒木水都弘氏だった……。と言っても、荒木氏のもとで修業したわけではない。荒木氏が登場する『情熱大陸』(2004年12月放送)を録画したビデオを「何万回も」観て、目に入るすべてを自身に刷り込んだ。
もちろん、ビデオだけでは限界がある。修業経験がないからこそたどり着いた「鮨の数値化」によって独自の進化を遂げた男が、富山市内で開いていた「鮨し人(すしじん)」(移転後:鮨人)でミシュラン一つ星を獲得したのは2021年。そして今、移転先の石川県金沢市で新たな挑戦を始めている。
「かっこよさ」に強くこだわり、長髪を束ね、出かける時は革ジャン。鮨業界の異端児は、想像よりもはるかにストイックだった。
「誰よりも幸せ感じたいから、誰よりも苦しいことをやるんですよ」
木村さんは1968年、都内で生まれた。しばらくして両親が離婚し、3歳の時、富山に住む父方の祖母のもとで暮らすようになった。奔放だった父親は家に寄りつかず、厳しく怖い祖母とのふたり暮らし。生活は苦しく、小学校1年生の時から新聞配達をした。自分で稼いだお金で、「アディダスの靴下」を買ったのを今でも覚えているという。
中高時代には、道を踏み外しかけた。それでもなんとか踏み止まったのは、「社長になって、金持ちになってやる」という燃え滾(たぎ)るような思いがあったからだ。
■月給10万円で「久兵衛」に通う
土木系の高校を出た後、2年ほど地元の建設現場で働いたが、「このままじゃ、金持ちになれない」と、20歳で上京。職を転々としながら、どうにかして成り上がろうと機会をうかがっていた。
何度目かの転職で特に思い入れもなく回転寿司店で働き始めた木村さんは、29歳の時、銀座の高級店「久兵衛」に足を運んだ。
あの人はどんな仕事をしているんだろう? あの人が着ている服のブランドはなんだろう? お客さんの会話に、耳をそばだてた。鮨にはまったく興味を持たず、ひたすら周囲を観察した。
そうして何度か久兵衛に通っていたら、ある日、お客さんに話しかけられた。ひとりでカウンターに座る若者が珍しかったのだろう。
「君、月に1回ぐらい見かけるけど、仕事はなにしてるの?」
「普通に働いてます」
「給料、いくらもらってるの?」
「10万ぐらいです」
「ここで食べてたら、給料なくなるでしょ」
「なくなります。でも僕、本気なんで」
このやり取りをきっかけに、「久兵衛」で居合わせたお客さんと話をするようになった。なかには、かわいがってくれる経営者もいた。日常とは別世界の刺激に、心が湧きたった。
■誰にも負けたくないから、誰の弟子にもならない
ある日、いつものように「久兵衛」のカウンターでお客さんと話しながら、なんの気なしに目の前にいた職人を見た。
その瞬間、ハッとした。
「この場の主役は、この職人なんだ……」
それまで鮨は二の次で、お客さんのことしか意識していなかった木村さんは、初めて気が付いた。ビジネスはひとりじゃできないし、結果を出すのに時間がかかる。鮨ならひとりで、一貫、一秒でその場を支配できる。
同年代の職人の仕事ぶりを見て生来の負けず嫌いに火が付いた木村さんは、奮い立った。
「俺も鮨職人になる!」
しかし、有名な職人のもとで修業をしようとは思わなかった。
「だって、悔しいじゃないですか」
誰にも負けたくない。だから、誰の弟子にもなりたくない。鮨業界の常識を知らない男は、回転寿司店で黙々と寿司を握りながら、独立の機会をうかがった。
■「こんなことをやりたかったわけじゃない」
1999年、31歳の時に故郷の富山市で鮨店を開いた。
「お客さんは地元の不良仲間ばっかりだったから、飲んで食べても3000円以上取らなかった。そりゃ、長居しますよね。満席になっても、ぜんぜん儲からない。そのうち、なにやってんだろ、こんなことをやりたかったわけじゃないってイヤになって、逃げました」
それでも、鮨職人の道を諦めようとは思わなかった。脳裏には、「久兵衛」にいた同世代の職人の姿が焼き付いている。いつしか、「金持ちになりたい」という野望よりも、鮨職人として勝負したいという思いが勝っていた。
ほかの仕事をしながら二度目の開業に向けて資金を貯めていた木村さんは、2004年12月、テレビ画面にくぎ付けになっていた。その日放送された『情熱大陸』に登場していたのが、「あら輝」の荒木水都弘氏。
■擦り切れたビデオテープ
画面越しにでも、回転寿司で働いた経験しかない自分が握る鮨とは別物だとわかり、「すごい……」と言葉を失った。その日から、録画していた『情熱大陸』を毎日のように、何度も何度も繰り返し観た。荒木氏の言葉、目線、身体、指先、画面に映るあらゆる思考と動作を取り込もうとした。
「何万回観たかわかりません。とにかく、死ぬほど観ました。うちの子どもたちも、覚えていると思いますよ。最後は、ビデオテープが擦り切れました」
荒木氏の『情熱大陸』放送からおよそ半年後の2005年4月、自己資金と銀行からの借金で富山市内の住宅街に建つ古い一軒家を借りて、「鮨し人」をオープン。1軒目と同じ轍は踏まないと、コース価格を7000円に設定した。すると、地元の不良仲間たちは顔を出さなくなったが、ほかのお客さんもまったく来なかった。
標高3000メートルの立山連峰から水深1000メートルの富山湾に栄養豊富な水が流れ込む富山は、魚がおいしいことで知られる。もともとその魚を使う鮨店が充実している環境で、鮨職人として無名の木村さんの存在感は薄かった。
■「かっこわる」人生を変えた妻の一言
ここで木村さんは、意外な手を打つ。さらに借金を重ねて、もう一店舗、まったく別の飲食店を開いたのだ。自分は鮨し人を見なければいけなかったから、新店は従業員に任せた。その店が、当たる。すぐに利益を出すようになり、ひと息つくことができた。
ここが、分かれ道。ある日、木村さんは妻に「鮨し人を閉めようと思う」と話した。2店舗分の借金が残っている状況で、お客さんがたくさん来る新店と、二度目のチャレンジにもかかわらず赤字続きの鮨し人、どちらを残すのか、考えるまでもない。鮨し人での苦労を知っている妻も同意してくれるだろうと思ったら、想像もしない言葉が返ってきた。
「かっこわる」
「……かっこ悪いけど、生活しなきゃいけないだろ」
「うん。でもそれって、パパの生き方とは違うでしょ。難しい道をとるほうが、自分の人生なんじゃない?」
この時、再び生来の負けず嫌いが頭をもたげた。それまでずっと、「男として、かっこいいかどうか」を判断基準にして生きてきた。外見もそうだ。だから、鮨職人になっても長髪をやめなかったし、プライベートでは高校時代から好きな革ジャンを着続けてきた。
他人の評価というより、自分で自分のことを「ダサい」と思いたくない。妻の一言で、目先のお金に囚われて、自分がかっこう悪い道を選ぼうとしていることに気づいた木村さんは、十分な利益を出していた新店を畳む。
■自己破産寸前、父の言葉ですべてを懸けた
さあ、これから心機一転、というわけにはいかない。事情があり、新店の営業を止めたにもかかわらず、数カ月にわたって家賃を払い続けなくてはいけなかったのだ。その苦境にあっても、鮨し人で挽回するという気持ちは変わらなかった。当時、末期ガンで病床に臥せっていた父親と話をした時、こう言われた。
「お前は鮨の道を極めるんだな」
当時、自己破産寸前まで追い詰められていた木村さんは、この時、腹をくくった。
「親父はもうその時、自分でも先が長くないとわかっていたんだと思うんですよ。親父とはいろいろあったけど、その言葉を聞いて、俺はやっぱ鮨屋だって再確認しました」
鮨にすべてを懸ける。覚悟を決めた木村さんは、それまで以上に鮨の世界にのめり込んだ。お米、魚介、お酢、わさび、煮切りなど使用する素材に徹底的にこだわるのは当然のこと、誰からも教わっていないからこそ、「疑問に思うことすべてに答えを出す」という姿勢でネタやシャリと向き合った。
■当たり前を疑い、おいしいを数値化する
例えば、イカは食べやすくするために薄く切るのが常識だが、もっとおいしく食べる方法はないのか? 何度も実験を繰り返してたどり着いた答えは、マイナス60度で冷凍すること。そうすると細胞膜が壊れ、生の状態より柔らかくなる。
ただし、冷凍すると水分が入る。水には「自由水」と「結合水」の2種類あり、たんぱく質や糖質と強く結合するのが結合水。この結合水だけを残すために、浸透圧脱水シートで自由水だけを抜くと、旨みが凝縮する。提供する際、表と裏に包丁を入れれば、結合水が残ったイカが、口のなかで溶ける。この方法なら、噛めば噛むほど甘みを感じる分厚いイカを出すことができる。
マグロはどうか? シャリの温度を高くすると、マグロの脂が溶けだしていい香りが出る。ただ、マグロの鮨はシャリが冷たい状態で食べるとおいしい。温か過ぎず、冷た過ぎず、マグロの香りが感じられるシャリの温度を探るために、マグロの融点を調べる。
シャリやほかのネタも同じように、鮨業界の「当たり前」の発想を疑い、科学的なアプローチでイチから仕込み方を探求した。
「おいしさにはすべて理由があるんです。だから、ひとつひとつ地道にその答えを探し当てて、数値化していきました」
■「お鮨の神様は僕を見捨てない」
木村さんは、発見した「おいしさの理由」を包み隠さずお客さんに話した。データ化すると、再現性が高くなる。常識に囚われない鮨は、グルメを喜ばせる。木村さんの鮨の評判がさざ波のように広まり、お客さんがお客さんを連れてきてくれるようになった。
「金沢の古い料亭の旦那さんや、奈良の有名な料理屋の旦那さんも来てくれました。ふたりは、地元で富山に「鮨し人」というおいしい店があると広めてくれました。そういう出会いが続いて、どんどん忙しくなって。そうしたら、銀行とは借金の返済期限を延ばしてくれると話もつきました。それまでもうダメだって何度も思ったけど、自分では想像もつかないことが起きることってあるんですよ」
木村さんは、この頃から「お鮨の神様」の存在を信じるようになったという。
「僕、鮨し人を続けることを決めてから、ほんとに鮨のことだけ考えてきました。もちろん、誰もそんなの見てくれてないし、見てもらおうとも思ってません。でも、お鮨の神様は僕のことを絶対に見てるんですよ。だから、真剣にお鮨を握り続けている限り、お鮨の神様は僕を見捨てないって信じてるんです」
■ボロボロの店がミシュランを獲った
鮨の神様は、味だけを見ているわけではない。どんなに味が良くても、職人が「どや!」と出す鮨は興ざめする。目指したのは、『情熱大陸』で観た荒木水都弘氏のような洗練された所作と、押しつけがましくない振る舞い。例えば、湯呑みを出す時に、ただお客さんの前に置くのか、少し手前に置いて、ゆっくり押し出すようにするのかで印象が変わる。鮨のデータ化と同じように、所作や会話もひとつひとつ検証して、磨いていった。
「うまい鮨屋」は全国にある。「あそこは良かった」と思い出に残る鮨屋になるために、試行錯誤を重ねた。気づけば日本各地からお客さんが訪ねてくるようになった。その口コミは海を渡り、海外からのお客さんも増えていた。
2014年、「食べログ」で4.03の評価を得て、「富山ベストレストラン」のナンバーワンを獲得。2019年には、フランス発祥で、海外ではミシュランと並ぶ影響力を持つと称されるレストランガイド『ゴ・エ・ミヨ』で、イノベーション賞を受賞した。そうして迎えた2021年5月、『ミシュランガイド北陸2021特別版』で一つ星を獲得する。
「メールで報せがありました。それはやっぱり嬉しかったですよ。調査員もよくうちに来てくれたなと思いましたね。150万円でDIYしたボロボロの内装だったし、壁にロックのシールを貼りまくっていたし、その時も器にお金を使う余裕はなかったんで、100円ショップで買った器でお鮨を出していたんで(笑)」
■ようやく手にした安定だったが…
知る人ぞ知る存在だった鮨し人は、ミシュラン受賞を機に予約が殺到。独学で学んだ異色の鮨職人として、木村さんも脚光を浴びる。
最初の店を開いてから22年、ようやく手に入れた安定を大切にする道もあった。しかし、50歳を超えてもロッカーのようなファッションを貫く鮨職人は、受賞前からすでに真逆のコースを歩んでいた。
ミシュラン発表の2カ月前、鮨し人とスシローのコラボが発表された。これは、スシローが回転寿司の常識を変える“新定番”を創るために名店の料理人とコラボする「匠の一皿プロジェクト」で、2019年に始まった第1章では和洋中の名だたるシェフが参加していた。
しかし、鮨職人はいなかった。回転寿司と鮨は別物だというプライド。考案した鮨が売れなかったら、という不安。自店の顧客から疑問を抱かれるかもしれないという恐れ。オファーを受けたら、恐らく、大半の鮨職人が躊躇するだろう。
木村さんは、どう考えてもリスクの高いこのコラボを受け入れた。2021年3月に公表された第2章の先陣を切る3人の料理人のなかに、このプロジェクトに参加する初めての鮨職人として、木村さんの名前があった。
■「鮨職人でよかった」と思えるように
「いくらユニークな鮨を考えても、特許を取れない。そこがもどかしいと思っていたところに、このオファーがありました。だから、打ち合わせの時、どれだけ売れてもインセンティブはいらないから、キャンペーンが終わった後も僕のメニューを使い続けてくれるなら、そのメニューの権利を買い取ってほしいと伝えました。僕が人気メニューを作ればスシローに残り、人気がなければ残らない。それなら僕も本気になれるでしょう」
考案したのは、富山の鱒寿司をイメージした「富山鮨し人流 鱒の介寿司」。これが、売れに売れて、早くも同年9月には第二弾の「新物うに 鮨し人流3種盛り」が公表された。ミシュラン一つ星の獲得後だったこともあり、このメニューも人気になり、最終的に2024年までコラボが続く。スシローは、木村さん考案のメニューを2つ買い取った。そのメニューを使い続ける限り、毎月一定額が鮨し人に振り込まれる仕組みだという。
「料理人は身体を壊したら終わりなんです。でも、このやり方なら働けない状態でも定期収入になる。若者が鮨職人をやっててよかったと思える仕組みを作りたいんです」
■「缶コーヒーを買いに行くノリ」で海外進出
鮨職人として、これまでにない道を切り拓く。その視線は、海外にも向けられていた。2018年、台湾の台北にある鮨二七とコラボして現地で鮨を握ったのを皮切りに、積極的に海外に出るようになった。きっかけは、ONE OK ROCKの楽曲「Be the light」だ。
「一時期、ONE OK ROCKが好きで、『Be the light』のライブ映像を観たんです。そのなかでボーカルのTakaが、海外に缶コーヒーを買いに行くようなもんだよねって言ってたんですよ。そのセリフがすごく響いて、俺が戦うステージは狭すぎる、もっと広げなきゃダメだなって思ったんです。それまでも海外で鮨を握ったことはあったけど、もっと気軽に、缶コーヒーを買いに行くみたいに海外に出ていこうと決めました」
ミシュラン一つ星の称号は、世界進出の追い風となった。台湾に行った後、ドバイ、上海、バンコク、ジャカルタ、ストックホルムなど世界各地の一流レストランで鮨を振る舞った。もともと、英語は話せなかったが、そんなことは関係ないという。
「英語を話せるようになってから海外に行きますって言ったら、いつになるかわからないでしょう。もちろん、最初の頃は悔しさしかないですよ。その悔しさがあるから、勉強するわけで。とりあえず行ってみて、なにが足りなくて、なにが必要か、自分の肌で感じることが大切なんじゃないですか」
■大切なのは「男としてかっこう良いか」
海外では言葉に不自由したものの、自分の技術は世界で通用すると実感できた。それまで鮨をデータ化してきたことが役に立つとわかったのだ。日本なら、自分が望むお米、魚介類、調味料、調理器具もなんでも揃う。しかし、海外は水ひとつとっても条件が違う。日本で培った感覚だけでは、頼りにならない。頭のなかに叩き込んだデータを応用することで、日本と同等のクオリティで鮨を握ることができた。
海外での仕事は、ギャラの桁が違う。その理由も納得できた。例えば、ドバイには木村さんの鮨ディナーに数百万円を支払う富裕層がいる。日本から自分を呼び寄せてギャラを払っても、補って余りある収益があるのだ。
それなら、ドバイで店を開こうと思うかといえば、答えはノー。木村さんのなかで、かつて抱いた「金持ちになりたい」という欲はすでに遥か彼方に追いやられ、今は「男として、かっこう良いかどうか」がすべてに優先する。
「海外で大成功するのも、かっこいいかもしれない。でも、パリで店を開いてフランス人の大行列ができるより、僕が好きな日本の町で店を開いて、フランス人で満席にした方がかっこう良くないですか?」
いま、かっこう良さの最上位にあるのは、「世界で戦える鮨職人になること」。そのためには、家族を含めて鮨し人を知るすべての人を仰天させるような決断をするのも厭わない。
■クレイジーと笑われてもやり続ける
2023年6月、国内外からお客さんが絶えない繁盛店になった鮨し人を閉めて、別の場所で立ち食い鮨店「立ち喰い鮨 人人(じんじん)」を開いた。やっと借金を返し終えたタイミングで、また新しく借金をすることになった。
そこまでして、なぜ?
「知り合いのシェフたちに『お前はクレイジーか』と笑われましたし、妻からも『なんでそんな生き方するの?』と言われました。でも、このままだと成長できなくなると思ったんですよ。立ち食いってめちゃくちゃ回転させて、量をこなすじゃないですか。量は質を生むと思ってるんですよ。僕は一回の素振りでホームランを打てる天才じゃないから、100回でも1000回でも素振りをしなきゃいけない。僕のとりえは、感覚をつかむまで同じことをやり続けられることなんで」
修業経験のない木村さんにとって、立ち喰い鮨は自分に課した修業の場。だから、自分が納得さえすれば、お店が賑わうようになっても、手放すのは惜しくなかった。
■満を持しての挑戦…お客さん来ず
2025年6月、「立ち喰い鮨 人人」閉店。その1カ月後、過去2回とは桁が異なるお金を借りて、別の場所に「鮨人(すしじん)」を開いた。
現在、58歳。食べログで何度も富山トップに立ち、ゴ・エ・ミヨにもミシュランにも掲載された。「あら輝」の荒木水都弘氏と交流を持ち、「おいしくなった」と褒められた。海外でも高く評価されるようになり、世界的なシェフと顔見知りになった。満を持しての船出の場が、石川県金沢市。世界を見据えて、近年、外国人観光客が急増している町を選んだ。
1階では木村さんの弟子たちが予約不要で立ち食い鮨を提供し、2階の「離れ」は完全予約制で、有名店で働いていたベテランの職人が本格的な鮨を握る。こちらは1万7600円のコースで、木村さんを指名すると3万8500円になるという、ひとつの店で3段階の鮨を提供するユニークかつ野心的な業態だ。
「絶対にお客さんが来ると思いました」
このお店が話題になり、一気に人気店に……とはならなかった。
■自分にはなにが足りなかったのか
「僕、びっくりしたんですよ。富山でキャリア積んできて、この店オープンしたんです。でも、お客さんが来てくれないんですよ」
鳴り物入りでの金沢進出だと思ったら、お店は静かだった。お客さんがいないつけ場に立つのは、いつ以来だろうか。いま、木村さんの負けず嫌いの炎がメラメラと燃えている。
「俺、けっこういけてるんじゃないかなって思ってた自分がいました。それがいま、死ぬ気で貯めてきたお金がどんどんなくなっていくわけです。でも次のステージに行くためには絶対リスクも必要だし、そこで僕はまたひとつ成長できる。今、お鮨の神様に試されているんですよ。諦めるか、諦めないか」
天狗になっていた鼻を見事にへし折られた木村さんは、じっくり考えた。
自分にはなにが足りなかったのか?
人生80歳までと考えたら、だいたい3万日。食事を3度食べたら、9万回。そのうち、大人になって、自分や家族、パートナーの誕生日、記念日に特別な食事をする機会は、恐らく100回あるか、ないか。
9万分の100。その希少な1回を投じてもらう職人にならなくてはならない。そのためには、鮨を売るのではなく、時間を買っていただくこと。それは、「木村の鮨を食べたい」ではなく、「木村に会いたい」と思ってもらうことにつながっていく。
■誰よりも幸せを感じたいから、誰よりも苦しいことを
ここで、木村さんは原点に返った。
「広辞苑でレストランを調べてもらうと、元気を取り戻す料理がある場所って書かれているんです。僕は、元気が出て、さらに幸せを感じられる料理を作りたい」
元気と幸せ。その源は、人によって違う。おいしさを追求するより、難解。僕が「それは答えがない、果てしない道のりですね」と感想を漏らすと、鋭い目線を緩めた。
「誰よりも寝ないで、遊ばず、贅沢もしないで、自分の時間をすべてつぎ込んで握ったお鮨を出した時、最高の笑顔で『おいしかったよ』って言われたらどうですか? 誰よりも幸せ感じるのは自分なんですよ。僕は、誰よりも幸せ感じたいから、誰よりも苦しいことをやるんですよ」
取材の日、ランチで立ち食い鮨をつまみ、夜は「離れ」で1万7600円のコースを頼んだ。もちろんどちらも自腹で、それだけに木村さんを指名する余裕がなく情けなく感じていたら、木村さんが一貫だけ握ってくれた。そのマグロのお鮨の味が、いまだに忘れられない。
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川内 イオ(かわうち・いお)
フリーライター
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。
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(フリーライター 川内 イオ)

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