NHK「豊臣兄弟!」では、桶狭間の戦いの後に、信長(小栗旬)が褒賞を与えるシーンが描かれた。実際の信長や秀吉は、どのような人事戦略をとっていたのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に史実に迫る――。
■実績のみで評価する“信長の先進性”
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。桶狭間の戦いから美濃攻めへと小一郎(仲野太賀)と藤吉郎(池松壮亮)兄弟が活躍する舞台が整いつつある。
これまでの放送回で筆者が注目したのは、第4回。桶狭間の戦いの後の信長(小栗旬)から褒賞を受けるシーン。ここで小一郎が地位よりも銭が欲しいと求めたシーンは話題になった。
でも、それよりも注目したいのは信長の判断だ。なにしろ、単なる足軽に過ぎなかった小一郎にいきなり近習にしてやると命じているのだ。なんとも素早い人事の決定。身分にとらわれることなどなく、実績のみで評価しようとする信長の先進性が垣間見える部分である。
信長の人事政策は実に現代的だ。常に旧弊を打ち破り、年功序列や家格などに関係なく成果のみで評価しようと試みている。
この成果主義の特徴は、武功一辺倒ではなく総合評価になっていたことだ。
歴史研究者の小和田哲男は、桶狭間の戦いの後にもっとも褒賞されたのが、一番槍の服部小平太でも、首を獲った毛利新助でもなく簗田政綱に与えられたことを指摘し、こう語っている。
「柳田(註:原文のまま)」は、桶狭間の戦いの日に、今川軍がどのような動きをするかということを逐一信長に報告したのです。義元の本隊は約5000人で、桶狭間で休憩をとること、さらにこの日義元は馬ではなく輿に乗って出陣していること。これらから、信長としては、桶狭間で昼頃に奇襲攻撃を行えばよいと判断したのです。この判断を支えた情報が重要である、という価値基準を示したことで、戦国時代が大きく変わりました」
(「戦国の論理と武将の心理(準備委員会企画特別講演,I 日本教育心理学会第51回総会概要)」『教育心理学年報』第49集、2010年)

■信長が背負っていた「旧秩序との共存」
この信長の評価軸は、藤吉郎(秀吉)の出世にも表れている。
当時、武将として評価されるのは「槍働き」つまり戦場での華々しい武功だった。前田利家は「槍の又左」と呼ばれ、堂々とした体格で敵を次々と倒す典型的な戦国武将だった。一方の秀吉は、背も低く体格にも恵まれていない。
ところが信長は、前田利家よりも秀吉を先に出世させた。信長は、目立たない地道な工作を、槍働きよりも高く評価したのである。こうした信長の多角的な人事考課制度を、もっとも理解して発展させたのが秀吉であった。

いくら革新的な評価軸を持っていても、織田家には代々仕えてきた譜代の重臣たちがいる。柴田勝家、丹羽長秀といった宿老たちは、信長の父・信秀の代から織田家を支えてきた功臣だ。彼らを無視して新参者ばかりを抜擢すれば、組織は分裂する。
信長は革新的であると同時に、現実主義者でもあった。足利義昭を奉じて上洛したのも、朝廷との関係を慎重に保ったのも、「旧秩序を完全に破壊すれば足元をすくわれる」という計算があったからだろう。実際、義昭を追放した後も、信長は朝廷から官位を受け、形式上は既存の権威に従う姿勢を崩さなかった。
信長は、パイオニアであるがゆえに、革新性を持ちながらも慎重にならざるを得なかった。
■農民出身の秀吉は「しがらみがない」
しかし、そんな信長の下についている秀吉は、もっと自由だった。
秀吉には守るべき家格もなければ、配慮すべき譜代の家臣団もない。農民出身という出自は、しがらみのなさを意味していた。信長が切り開いた「実力主義」という道を、秀吉は何の遠慮もなく全速力で走ることができたのである。
信長が「旧秩序との共存」という重荷を背負っていた一方で、秀吉は身軽だった。
だからこそ、信長のシステムをさらに徹底し、拡大することができたのだ。
秀吉が、そう突っ走れたのは、そもそも人がいなかったこともある。
いくら信長に評価されてスピード出世しているとはいえ、秀吉は「ポッと出」である。織田家の譜代でもなければ、代々仕えてきた家臣団もいない。この先どうなるかわからない成り上がり者。周囲からはそう見られていただろう。
しかし、出世すれば家来を確保しなければならない。足軽時代の子分たちを重臣にするわけにもいかない。中にはデキる者もいるだろうが、検地や外交、城郭設計といった高度な仕事ができるとは限らない。そもそも数が足りない。
■“徹底した成果主義”を貫くしかなかった秀吉
では、どうやって人材を集めるのか?
秀吉の置かれた状況は、いわば「資金調達に成功して急成長しているベンチャー企業」のようなものだった。実績もブランドもない。
来るのは、「裏付けはないが野心だけはたっぷりのヤツ」か、「他に行き場のないパッとしないやつ」ばかりである。名門の家臣が「秀吉様に仕えたい」などと言ってくるはずがない。
だからこそ、秀吉は徹底的に成果主義を貫くしかなかった。
野心家には「お前の実力を証明する場を用意する」と言い、他に行き場のない者には「ここでなら活躍できる」と希望を見せる。そして実際に仕事を与え、成果を上げさせ、それを派手に評価する。
「秀吉のところに行けば、無名でも出世できる」
この評判を作り出すことが、秀吉にとっては死活問題だったのである。信長は「革新的な評価軸」を持っていたが、それは選択肢の一つだった。しかし秀吉にとっては、それしか選択肢がなかった。人材不足という制約が、逆に秀吉を「究極の実力主義者」にしたのである。
■「ここで働けば評価される」という期待を売った
最も有名なのが、墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)のエピソードだろう。
あくまで伝承に過ぎないが、この築城において、秀吉は水運に長けていた蜂須賀小六ら(正勝)を利用。資材調達は川上から流し、組み立ても事前準備しておくという方法で、わずか数日で敵地の目の前に城を築くことに成功したとされる。

しかし、いくらアイデアが優れていても、それだけでは実現しない。
金だけでも、人情だけでも、人は動かない。金があっても「危険すぎる」と尻込みされれば終わりだし、人情に訴えても「無謀だ」と判断されれば誰もついてこない。どんなに優れた計画も、実行されなければアイデア倒れに終わる。
秀吉がすごかったのは、このアイデアを「やる気にさせた」ことである。蜂須賀小六のような「野心はあるが行き場のない人材」に対して、秀吉はこう言ったはずだ。
「これを成功させれば、お前の名は織田家中に轟く。信長様も必ず評価する」
つまり「リスクに見合うリターンがある」と明確に示したのである。金でも人情でもなく、「ここで働けば評価される」という期待を売ったのだ。
■“直感”でスカウトし、適材適所に配置
そして秀吉の眼力は、「こいつだ!」と見抜いた瞬間に即スカウトし、適材適所に配置することにも表れている。
加藤清正は、秀吉の妻・ねねの親戚の子で、幼い頃から小姓として仕えていた。秀吉は清正の武勇と度胸を見抜くと、賤ヶ岳の戦いで最前線に投入した。
清正は期待に応え、「賤ヶ岳の七本槍」の一人として名を上げる。秀吉はこれを大々的に喧伝し、清正を一気に武将として取り立てた。
清正はその後も朝鮮出兵で武功を重ね、最終的には熊本54万石の大名にまで出世する。武勇一本で成り上がった典型例である。
一方、石田三成は全く違うタイプだった。
三成は近江の地侍の次男坊に過ぎなかった。後世、秀吉が鷹狩りの際に立ち寄った寺で茶を出した時、三成が最初はぬるめで量を多く、二杯目は少し熱くと気配りしたことに「使える」と判断し、すぐに家臣としたという逸話がある。
話の真偽は別として、秀吉が別に武功をあげたわけでもない三成を見いだし、すぐに実務・計数管理に配置したのは確かだ。三成が秀吉に仕えたのは、加藤清正や福島正則よりも先である(いずれも秀吉の遠縁とされている)。偶然の出会いと、それを見いだす秀吉の眼力とが一致した結果といえるだろう。三成は期待通り、検地や兵站管理で才能を発揮する。朝鮮出兵では現地での補給を一手に引き受け、秀吉の代理として奉行職を務めた。
■秀吉の気分次第で決まる“危うさ”
清正や正則には武勇の場を、三成には実務の場を与える。
秀吉は、人材を見抜いた瞬間に「こいつをどこに配置すれば最大限の成果が出るか」を即座に判断し、実際にその通りに配置した。そして成果を上げれば、徹底的に評価した。
清正のような「武功派」も、三成のような「実務派」も「秀吉のもとなら自分の実力が認められる」と確信できたからこそ、全力で働いたのである。
しかし、ここに致命的な問題があった。秀吉は、これらすべてをフィーリングでやっていた。「こいつは!」と思ったら気に入って使いまくるが、何かちょっとカチンとくることがあれば、すぐにクビにする。しかも、その基準が一貫していない。
古くから仕えてきた尾藤知宣、神子田正治、仙石秀久……いずれも秀吉に重用されていた武将たちだが、一度の戦でやらかしただけで容赦なく追放された。仙石秀久だけは後に徳川家康の縁を頼って大名復帰を果たしたが、尾藤知宣と神子田正治は何度詫びても許されず、最終的には処刑されている。
信長の成果主義は冷徹だった。成果が出なければクビ。しかしその基準は明確で「何をすれば評価されるか」は分かっていた。
一方、秀吉は違う。普段は失敗しても許される。「まあ、次頑張れ」と笑って済ませることもある。しかし、秀吉の機嫌が悪いときにやらかすと、すべてが終わる。これは組織にとって極めて危険な状態である。
■「夢」を語った秀吉、「現実」を管理した秀長
家臣たちは、「何をすれば評価されるか」ではなく、「秀吉の機嫌をどう読むか」に神経を使わなければならない。成果を出しても、秀吉の虫の居所が悪ければ意味がない。逆に、失敗しても秀吉のご機嫌が良ければ許される。気分屋すぎるのである。
信長の成果主義は冷徹だったが、少なくとも予測可能だった。秀吉の人事は温情的に見えたが、実際には予測不可能だった。これは、長期的には組織を疲弊させる。
そして、この秀吉の「気分屋」ぶりを止める役割を果たしていたのが、弟の秀長だったというわけだ。
秀吉が「夢」を語る一方で、秀長は「現実」を管理した。秀吉が家臣を焚きつけて無理な計画を立てれば、秀長が「兄上、これは予算が足りません」と止める。秀吉が感情的に誰かをクビにしようとすれば、秀長が「もう一度、話を聞きましょう」となだめる。
秀長のブレーキがいかに重要だったかは、彼の死後の秀吉の暴走や、極めつけには後継者の秀次を切腹に追い込んだことからも明らかだろう。
フィーリングの天才にはストッパーが欠かせない。これをしくじってコケてる会社というのは現代でも多い。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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