NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では兄を支えた弟の姿が描かれるが、織田信長と弟の関係はその真逆だった。なぜ信長は「非情なカリスマ」になれたのか。
江戸文化風俗研究家の小林明さんが読み解く――。
■豊臣兄弟とは真逆の「織田兄弟」
「信長は病気のふりをして、いっさい外へ出なかった。『御兄弟の間なのですから、信行(信勝)殿は見舞いに行った方がよいでしょう』と、母(土田御前)と柴田勝家が勧めたので、信行は清洲へ見舞いに出かけた。(弘治3年/1557)十一月二日、信長は清洲城北櫓天守次の間で、(家臣に)信行を殺害させた」
織田信長の伝記『信長公記』が記した、信長が弟・信行(信勝)を粛清する場面だ。『信長公記』では「信行(のぶゆき)」と表記されているが、他の史料では「信勝(のぶかつ)」と書かれていることが多く、また『豊臣兄弟!』の役名も「織田信勝」となっているため、ここでは以下「信勝」で統一する。
『豊臣兄弟!』1月25日放送回では、信勝に背後から斬りかかって殺害したのは柴田勝家だった。これは『信長公記』に載っている話をベースに脚色したものだ。『信長公記』では、男色に耽り始めた信勝が宿老の勝家を遠ざけたため、居場所を失った勝家が信長と結託して暗殺に走ったとある。また、信勝に直接手をかけたのは河尻秀隆と青貝某(詳細不明)」の家臣2人となっていた。
信長と信勝は同じ母(土田御前)を持つ兄弟でありながら、兄と織田家重鎮の勝家が共謀して闇討ちせざるを得ないほど、険悪な関係にあった。実際、兄弟には史料に残るだけで何度も諍(いさか)いがあり、あまつさえ軍事衝突まで起こしている。
弟が兄を支えた豊臣兄弟と真逆。
兄にとってつねに弟が不安の種だったのが、織田兄弟なのである。
■「うつけ者」の兄より弟を推す声が高まる
なぜ信長は弟を信じられなかったのか。若き日の信長は素行に問題があり、「うつけ者」と評判だった。派手で奇抜なファッションという異様な風体で供の者と練り歩き、人目も憚らず路上で栗や柿を貪る。折り目正しいことが良いとされる時代、人々は眉をひそめ、陰口を叩いた(『信長公記』)。
これでは家臣たちから、なかなか信頼を得られない。家中に信長を廃して弟を担ぐ勢力が台頭するのも、止むを得なかっただろう。信長は造反者になりかねない信勝を信用せず、警戒していた。
そこで、ドラマでは描かれなかった兄弟の確執と闘争を、一歩踏み込んで解説しよう。
まず織田家の系図では、信長の父・信秀には12人の息子がいた。これはあくまで残された系図上であり、実際の人数や長幼順は今ひとつはっきりしない。その12人のうち、今回の記事の主要人物は長男・信広(推定20)、次男・信長(16)、三男・信勝(推定13~14)の3人。
信広と信長の間に、実は系図上では六男の信時(安房守秀俊)がおり信長は三男だったともいわれるか、ここではその説は省略して系図に則った。なお( )の数字は、父の信秀が死去した天文21(1552)年当時の年齢である。
長男の信広は側室の子で、信長・信勝は正室・土田御前が産んだ。家督継承順位は、1信長、2信勝、3信広だったろうと、信長研究に詳しい歴史家の谷口克広はいう。嫡出長子(正室が最初に産んだ男子)が相続するのがあくまで基本だった戦国期において、この順位は当然だった。
「うつけ者」といわれた信長だが、父の信秀は後継者と定めていた。
しかし一抹の不安もあったのだろうか、領内の一部の権限を弟の信勝に与えていたようなのである。
■兄への憎悪・弟への敵意が悲劇へ
例えば信秀存命中の天文20(1551)年、熱田社(熱田神宮)の統治権の一部が、信長から信勝に移行したことを読み取れる文書が残っているという。当時、信秀と信勝は末森城(または末盛城/名古屋市千種区にあった)に一緒に住んでおり、意思疎通も円滑だったと考えられ、この権限移行は信秀の意向が働いていた可能性はある。
それでも天文21年3月に信秀が死去すると、既定通り信長が家督を相続した。19歳だった。
だが、父の葬儀でひと悶着起きる。

「信長が焼香に立った。出で立ちは大刀と脇差を藁縄(わらなわ)で巻き、袴もはかず、抹香をかっとつかんで仏前へ投げつけた。弟信行(信勝)は肩衣(かたぎぬ)・袴を着用し礼にかなった作法であった」(『信長公記』)
有名な逸話だが、事実だったかは何ともいえない。ともあれ父の死去の時点で悪評ぷんぷんの兄、高評価の弟という対立構図が、すでにあったことを否定できないと思われる。
また、実はこの葬儀の喪主は信長と信勝の2人だったという説もある。そうだとしたら家督継承者としての信長の立場は、実はとても脆弱(ぜいじゃく)だったといえるかもしれない。
片や自由奔放、片や常識的――現代の兄弟にもよくありそうだが、こうした場合、のちに大成するのは奔放なタイプ。織田兄弟も豊臣兄弟も、その典型だ。
問題は常識的な方が奔放さを憎み、敵視してしまう場合だ。織田兄弟は弟が「俺の方が後継者にふさわしい」という自負のもと兄を憎み、兄もその憎悪に敵意で応え、悲劇へと向かっていった。
■エスカレートする反逆
父の葬儀以降、信勝は信長に対し、露骨に楯突く姿勢をとった。
天文23(1554)年12月/信勝「弾正忠(だんじょうのちゅう)」を称す
信長の家系は「弾正忠家」と呼ばれる尾張国守護代の有力一族である。
「弾正忠」を名乗る人物は、一族のトップを意味していた。
弘治元(1555)年6月/信長・信勝の弟、織田秀隆が誤射で死ぬ
織田秀隆が、叔父にあたる守山城主・織田信次の家臣に弓矢で誤射されて死亡するという事件が起きた。信次が川で漁に興じていたところを、たまたま秀隆が供も連れずに単騎で乗馬し通り過ぎたため、どこの誰ともわからぬ者が城主の前を下馬せずに通り過ぎるのは無礼であると、誤解されてのことだったという。
信長の気性を知る信次は、恐れ慄いて出奔。しかし、信長は単騎で行動していた秀隆にも落ち度があったとして、信次を赦した。だが信勝は勝手に軍勢を差し向け、守山城下に火を放ってしまう。明らかに信長の意を無視した行動だった。
弘治2(1556)年 時期不明/那古野城で信長の暗殺未遂が起きる
織田の筆頭家老・林秀貞と、その弟・林美作守の兄弟は、信長と不和だった。そこに目をつけた信勝は、2人を反信長陣営に引き込む。信長が那古野城を訪れたのを好機と見て、美作守が暗殺を計画した。だが、兄の秀貞が「織田家には3代にわたって恩を受けた。騙し討ちは天に背く」と、弟を説得して断念させたという。

弘治2(1556)年 時期不明/長兄・信広に謀反の動き
信長の異母兄・信広が、美濃の斎藤義龍と連携して清洲城を乗っ取る謀反を企てたが、計画が露見して失敗。義龍は信勝とも連絡を取り合っていたことが書状によってわかっており、義龍―信勝―信広が反信長でつながっていた可能性を疑わせる。
■2倍の兵数を誇った弟の軍勢に勝つ
天文23~弘治2年前半の信勝は、兄の追い落としに必死だ。これは叔父の織田信光(弘治元年11月26日死去)や、美濃の斎藤道三(弘治2年4月20日死去)ら、信長の有力な支援者が相次いでこの世を去ったのを受けてのことだろう。つまり信長の力が弱体化した隙を突こうとしたと考えられる。なかなか狡猾だった。
しかし、一筋縄ではいかないのが信長である。
弘治2年8月24日、ついに兄弟は決戦に挑む。稲生(いのう)の戦いである。
信勝の軍勢は柴田勝家1000、林美濃守700。ただし、信勝本人は出陣せず、末森城に止まった。対する信長勢は森可成・佐久間信盛・前田利家・丹羽長秀ら、信長の親衛隊といえる精鋭が中心の700。

敵の半数にも満たない信長勢は苦戦を強いられたが、信長自らが先頭に立って戦う、気力に満ちた軍勢だった。一方の信勝勢はそもそも大将が戦線に不在のうえ、もとは主君である信長を攻めるということもあり、士気は低かった。
勢いに押され始めると柴田勝家の兵たちが逃走をはじめ、林美濃守は信長自身の手によって討ち取られた。信勝軍は敗れた。
敗将の信勝は末森城に籠城したが、信長は母・土田御前の助命嘆願を聞き入れ、追い討ちをかけなかった。
その後、信勝は信長と対面し許された。林秀貞・柴田勝家らも信長に忠誠を誓った。敵対した者は容赦しないといわれる信長だが、肉親への情を持ち、また、役に立つ忠臣には寛容な態度を示す人物だったとわかる。
半面、信勝は堕ちていった。『信長公記』には戦後、津々木蔵人という者と男色に耽り始めた信勝が、周囲を蔵人の配下ばかりで固め出したと記す。側近だった柴田勝家も遠ざけられた。居場所を失った勝家は、信勝がまた謀反を企んでいると、密かに信長に報告した。
そして、この記事の冒頭の「信勝粛清場面」に、話は戻るのである。
■弟との対立が“信長”を生んだ
信長・信勝は、尾張統一を悲願とする有力一族・弾正忠家に生まれるという、重い荷を背負った兄弟だった。百姓出身で失うものはなく、強い上昇志向で出世を考えていた秀吉・秀長とは、担うべき責任も違っていた。
また、弾正忠家の家督継承も決してスムーズに行われたとはいい難く、信長・信勝兄弟それぞれを担ぐ家臣によって家中が二分する、複雑な事態に陥っていた。
“信長”という人間を考えたとき、天文21年の父の死去から弘治3年の信勝暗殺までの6年間は肉親・一族が血で血を洗う抗争を繰り広げた時期にあたり、しかも信長は10代後半~20代前半で経験した。それも戦国のならいといえばその通りだが、あまりに苛烈な青年期だったはずだ。
そして弟との戦いの教訓が、その後の信長の生き方――徹底したワンマンで専制的かつ合理的、家臣に対して酷薄という、独特の組織マネジメントにつながっていったと考えられる。
そうしたスタイルを信長が築く原点こそ、弟・信勝との対立にあったのではないだろうか。

参考文献

・太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(KADOKAWA、2013年)

・日本史史料研究会監修、渡邊大門編『信長研究の最前線2』「スムーズではなかった、信長の「家督相続」の現実/千葉篤志」(洋泉社、2017年)

・谷口克広『天下人の父・織田信秀 信長は何を学び、受け継いだのか』(祥伝社、2017年)

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小林 明(こばやし・あきら)

江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表

編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。

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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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