※本記事に登場する事例については個人情報保護のために一部を改変しています。
■庭にミニチュアホースがいるクリニック
愛知県大府(おおぶ)市にある、「楓の丘 こどもと女性のクリニック」。畑に囲まれた丘に建つ、平屋の一軒家が児童精神科、心療内科、精神科を専門とする治療機関だ。
クリニックでは診察による治療だけでなく、思春期児童を対象としたデイケアや、作業療法が行えるリハビリテーション施設を併設、心の傷や発達障害の生きにくさにも幅広く対応できる仕組みを作っている。
開院は2018年。院長の新井康祥(やすあき)医師(52歳)が、成人の精神科や児童精神科の臨床現場を経て開業した。
院内の雰囲気は、家庭的であたたかい。あくまで患者主体で、患者に寄り添って治療を進めることが、新井医師の基本的な考えだからだ。訪れた患者が緊張することなく気持ちを話すことができるようにという配慮が、随所に込められている。
丘の上に建つ平屋。やさしい色合いのグリーンの外壁の一戸建ては、とてもここが病院だとは思えない。芝生の庭ではミニチュアホースの「もこちゃん」がお出迎えしてくれる。
■医師が直面する女性が生きづらい社会
クリニックに冠した名の通り、ここは「こどもと女性」のための治療機関だ。診療対象を子どもと女性に限定したのは、力の強い男性により、女性が虐げられているという構図が歴然とあるからだ。精神疾患の女性は往々に、男性を見ただけでパニックになってしまう。安心した環境で治療を行うためにも、診療対象から男性を外すことにしたのだ。
開院以来、新井医師が否応なく直面しているのは、女性が生きづらい社会そのものだった。
「患者さんは、母子家庭の割合が割と高いと思います。受診のきっかけは発達障害や不登校など、子どもの問題も多いですが、虐待やDVなどの被害を受けた方、産後うつの方も来られています。よくよく話を聞くと、子どもを連れて来られたお母さん自身も、抱えているものが多すぎる。そう感じざるを得ません」
母子家庭と父子家庭の年収の違いは、いつも痛感させられることだ。母子家庭の母として、経済的に恵まれない中で子どもを育てていると、きちんと育てようと思えば思うほど、母親の孤立感が増してくる。夫がいる場合でも、母親になった以上、育児のためにキャリアを諦めないといけない現状も、幾度となく目の当たりにしてきた。
「そういうことを考えると、女性ってものすごく、たくさんのものを抱えさせられている。核家族が増え、女性の負担がより増えている。誰にも頼れず、一人で頑張るしかない。男性が、家庭生活にもっと関わるようにしなければいけないと思います。そのためには、教育が大事だと思いますね」
■「貧乏でよかった」と言ったシングルマザー
たとえ、子どもの問題で来院しても、ここでは親子双方が治療対象となることが多い。この「親子並行治療」は、かつての勤務先である「あいち小児保健医療総合センター」の心療科で行われていたことだ。
「親子並行治療の方に限らず、すべての方に家族関係の詳細を確認することがすごく大事なので、予診が1時間、診察と合わせると最低2時間はかかるんです。めちゃくちゃ、事細かに聞くんですよ。みなさん、『いろんな病院を回ったけど、ここまで話を聞いてもらったのは初めてです』とか、『これは、ここで初めて話しました』などと言われますね」
そんな中、新井医師はある女性の話を始めた。
その母子家庭の母は、「あいち小児」の頃から、かれこれ15年にもわたり支え続けてきた患者だった。その女性が先日、「先生、私は貧乏でよかったと思っています」とはっきりと言った。意外な言葉だったが、頷けることでもあった。
「生活が苦しいと、どうしてもただ生きることに必死にならざるを得なくて、悩んでばかりなんていられなくなります。そうやって一生懸命に生きることで生活の困難に立ち向かっていく中、困難を乗り越える経験を積むことができる。それが自分の自信となり、トラウマを乗り越える力になる。PTSDの根っこには自己評価を下げるというものがあり、その根底が盛り上がってくる感じです。自己評価が上がっていきますね。本人は必死で気づいていないことが多いので、診察で伝えてあげる必要はありますが」
新井医師は続ける。
「とはいえ、貧しさゆえに、実際の生活は大変で、何とかしてあげたいって、話を聞けば聞くほど思いますね。もうちょっと、行政が支援してほしいです。せめて、シングルマザーで、子どもが小さいうちは、働く時間が半日ぐらいで済むように」
■患者に仕事を勧めた医師の意図
女性の診断名は、解離性同一性障害。複数の人格があったり、記憶が飛んだり、遁走(とんそう)したりと、虐待の後遺症で最も重く、治療が難しいとされるものだ。
「彼女は最初、まさに生きるか死ぬかの状態でした。診察室にわーっと泣き叫んで入ってきて、つらさを訴えるのですが、記憶が混乱していて、本人もよくわからない部分もありました。
離婚して子どもと離れ、混乱の渦中にあるその女性に、あいち小児での最初の主治医は「あなたは、働きなさい」と言ったという。その後、新井医師も働くことを支えるという方針を継続して、仕事をすることを勧め続けた。
「母子ともにすごく大変で、死にそうなところに『働け』なんて、ひどいことを言う人だと、彼女は当時思ったそうです。でも今、彼女はこう言ってきます。『私、その先生にすごく感謝しています。働いていなかったら、私、乗り越えられなかった』と」
■病を抱えて働き続けた15年の月日
事実、彼女は15年前から今に至るまで、ずっと働いている。それもひとえに、診察室での新井医師の支えがあってのことだった。
「彼女は、すぐ仕事を変わっていました。
そもそもそういう力はある人だった、と医師は続けた。
「でも、頑張りすぎちゃうので、結果として、身体を壊して辞めるということのくり返しでした。働きすぎて、手足とかがもうボロボロでした。それに加えて、もともと病気もあるわけですから。それこそ、不幸をいっぱい抱えているのに、彼女は頑張って、働くことだけはやめなかったですね」
■親子関係の調整も大事な課題
彼女の危うさを、新井医師はとことん見てきたし、その危うさに寄り添い続けた。
「最初の頃は、『職場でいじめられている。どうしよう』と、目の前のことしか、見えていませんでした。安定した生活を送るにはどうしたらいいかって、切実な思いをひしひしと訴えてきました。僕としては彼女が突発的に仕事を辞めないよう、つらい気持ちを受けとめて、とにかく支えようというのが診察室でのやりとりでした。
彼女は働き続けることで、自分で力をつけた。それが、診察室での15年の歩みだった。今の彼女は以前の彼女ではない。新井医師はそう、はっきりと思う。自分を苦しめていたトラウマを、確かに乗り越えたのだ、と。
彼女の診察では、親子関係の調整も大事な課題となった。子どもを母親から切り離すという児相の判断は正しかったにしても、子どもには母親への圧倒的な不信しか残らない。
「彼女は解離が起きてばかりという、本当に大変な時期に子育てをしていたので、子どもからは『虐待親だ』という強い非難を受け続けました。子どもが施設を退所してからのことですが、母子で揉めた時はいつも、診察室で一生懸命に話し合いながら、整理整頓していきました。とにかく、大荒れになるんです。その渦中は、とても母子関係を改善させる介入なんて不可能な状態でした」
■喋りながら自分で答えを出していく
新井医師は彼女が一度も経験したことがない、一般的な母親像、あるいは祖母像を手取り足取り教えていった。くり返し、何度も、何かの教科書を読むかのように。
「一般的な母親像というものを、彼女は経験として全く知らないわけです。虐待を受け、粗末にされて育ったわけですから。それは、彼女の娘も同じでした。僕が母親像というものを話すと、彼女はそれを実践するんです。学んだことを、実践する。娘に愛情を注ぐということをやってみると、娘からのフィードバックがある。愛情を受けたことへの反応ですね。だから僕は精一杯、彼女が母親として、その後は祖母として、子どもと孫に関われる道を支援したという形です」
その実践という過程を通し、彼女は変わっていった。
「彼女は次第に自分で喋りながら、自分で答えを出していくようになったんです。いつの間にか、診察室はそのような場になっていきました。振り返るだけで、自分のことが客観的にわかるようになりましたね。『こういうことか』、『ああいうことか』と達観できてくるので、『無理もないわね、あの子も。私も大変だったから、人の言葉が耳に入らなかった。私を責めるしか、ないわよね』と言えるようになって、子どもからの非難を受けとめられるようになったのです。時間はだいぶ、かかりましたけどね」
■「優しいおばあちゃん」になった今
子どもは結婚して、彼女には孫ができた。親子間ではいろいろあったけれども、今、彼女は娘や孫と「会える」関係だ。
「彼女は優しい親にはなれなかったけれども、今、優しいおばあちゃんになっている。その過程をすべて、僕は見させてもらいました。おばあちゃんとして、娘たち家族を助けることができる、そういう関わりを持ち得ているんです」
ということは、虐待の連鎖はここで断ち切られるのだろうか。その問いに、新井医師は確かに頷いた。
「母子ともに解離があったのは、夫の暴力だけではなく、まさに虐待の連鎖でした。彼女自身、親から虐待を受け、そして子どもに虐待行為をしていた。今は自分の親を、『あの時は貧しかったから、仕方がない。許せる』と話しています」
間違いなく診察室での新井医師の伴走がなければ、連鎖を断つことは不可能だったと思うし、彼女自身が「達観」に辿り着けたかどうかはわからない。だが、そのリスクは減っていると新井医師は感じている。子どもと引き離されて、たった一人。孤独の海に溺れ、自暴自棄になってしまう道と隣り合わせの15年でもあったのだ。
「今、彼女は『いざとなったら相談できる相手はいるし、その話を聞いていけば大丈夫だと思う』という自信を手にしています。そうやって、ちょうど良い距離感で、子どもや孫と関われているんです。彼女を見ていると、トラウマの治療だけに限らず、家族との繋がりを再構築していくことができたと思います。彼女は今、生きていてよかったという自己肯定感の中で生きています」
■性被害がある子どもの問題の難しさ
新井医師の診察室は、子育て支援の場にもなっている。くり返すが、患者には母子家庭の割合がかなり高い。
「生活保護の手続きやアパートを借りること、人生全般の相談まで、けっこういろんな相談に乗っています。母子家庭の年収が非常に低いのは、母親がたいてい、非正規労働者だからです。だから生活のためには、長時間働かないといけない。そうすると、子どもが家に一人ぼっちでいるという環境になる。そんな生活をせざるを得ない母子を支援していくわけですが、いい方法があるかといえば、それほどありません。地道にやっていくしかなくて、そこが苦労しているところです」
診察室から見えてくるのは、女性ばかりがすべてを抱え込まざるを得ない状況だ。
「子どもの問題で苦労していると訴えている人たちも、話を聞いていくと、そこには性被害の問題が隠れていることがありますし、そういう問題意識を持って見ています。よくあるのは虐待から逃れるために親戚とか知り合いを頼って家を出て、そこで性被害にあって、妊娠してしまうという流れです。子どもを誰が育てるかとなると、女性ですよね。そこに、男性もいるはずなのに。子育ても仕事も、女性が一人で行う。そういう状況を見ていると、悲しくなりますね。変えていかないと、と思います」
■「ほどよい親でいい」育児の大切さ
彼女たちが、新井医師に気持ちを吐き出すことができる――それは、どれだけ救いとなることか。ここでも大事なのは、主観的な視点から、いかに客観的な視点を持てるようになるかということだ。
そのために、新井医師は“対話”を重視する。念頭にあるのは、「いい親であらねばならない」という、思い込みを変えていくことだ。
「いい親でありすぎるのが、よくないんです。『ほどよい親(Good Enough Mother)』でいいんです。ある程度、適当にしてあげないと」
「グッド・イナフ・マザー」とは、イギリスの小児科医ドナルド・ウィニコットが提唱しているもので、完璧な母親による完璧な育児ではなく、ほどよい母親によるほどほどの育児こそ、乳児にとって大事だという考えだ。赤ちゃんの成長の過程に欠かせない「万能感」を手放すためには、完璧な育児ではなく、時に失敗する「ほどよい母親」の育児が母子共にきっと、ほどよいものなのだ。
新井医師の人柄で紡がれる、「楓の丘 こどもと女性のクリニック」の診察室。そこには、劇的な奇跡はない。けれども、時間をかけて積み重ねていく希望が、確かにある。トラウマに打ちひしがれ、自分なんか生きていても意味がないと思っていた人たちが、人生に価値を見いだし、自分自身を生きていく。人は変われるものなのだ。それこそ、大きな希望ではないか。
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黒川 祥子(くろかわ・しょうこ)
ノンフィクション作家
福島県生まれ。ノンフィクション作家。東京女子大卒。2013年、『誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』(集英社)で、第11 回開高健ノンフィクション賞を受賞。このほか『8050問題 中高年ひきこもり、7つの家族の再生物語』(集英社)、『県立!再チャレンジ高校』(講談社現代新書)、『シングルマザー、その後』(集英社新書)、『母と娘。それでも生きることにした』(集英社インターナショナル)などがある。
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(ノンフィクション作家 黒川 祥子)

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