■“美濃攻略の第一歩”となった鵜沼城
ついに、信長の天下布武への第一歩である美濃攻略が始まった、大河ドラマ「豊臣兄弟!」第5回。藤吉郎(池松壮亮)・小一郎(仲野太賀)が信長から命じられたのは、鵜沼城の攻略だ。
この美濃攻略は、信長が天下布武を唱え全国統一の第一歩となった重要な戦い。
こうして得た岐阜こそが、信長の長らくの拠点になる。そういう背景もあってか、今でも岐阜市民の誇りは信長。攻略されたほうであるにもかかわらず、斎藤道三からの三代は「なんか、そんなヤツもいたな」扱いで、メインは信長。路面電車廃止後、寂寞極まるJR岐阜駅前には金色の信長像が君臨している。現代の岐阜市も、実質は名古屋市の経済圏、衛星都市という状態にある。
そんな美濃攻略の第一歩となった鵜沼城(うぬまじょう)は、岐阜県各務原(かがみはら)市にあった城だ。この城がいかに重要かは、現代の地図でもよくわかる。
木曽川に面した鵜沼城。
つまり、木曽川が愛知県と岐阜県の県境になっている。当時で言えば、織田信長の本拠地・尾張国と、敵地・美濃国を隔てる「国境の川」だった。川は幅が広く、流れも速い。そう簡単には渡れない。
■信長の“行く手”を阻んでいた
そして鵜沼城は、その川の「向こう側」、敵地側にある城だ。つまり、この城がある限り信長は川を渡って美濃へ侵入することができない。兵士を送り込んでも、城から攻撃されるし、食料や武器を運ぼうとしても、城に邪魔される。
いわば、鵜沼城は、美濃に入るための「入り口」を塞いでいる城だった。逆にいえば、ここを落とせば、川を安全に渡り攻略は格段に容易になる。だから信長は「美濃攻略の第一歩」として、まずこの鵜沼城を落とす必要があった。
そんな重要な作戦を、まだ実績も曖昧な藤吉郎に任せた。
信長が桶狭間の戦い以降に天下統一に乗り出したというのは、あまりにも単純化されたものである。実際には桶狭間以降のほうが信長は危ない橋を渡り始めている。1561(永禄4)年4月には、今川氏の混乱を見て三河に侵攻。その後、岡崎城に復帰した松平元康(後の徳川家康)と和睦し東部国境の安全を確保している。
■敵を積極的に取り込んだ信長
同じ年の4月、美濃の斎藤義龍が病死し、幼い龍興が後を継いだ。これが、信長が美濃攻略を本格化させるきっかけとなる。
ただし、信長には大きな問題があった。信長がまず目指したのは東濃地域(美濃の東部)だったが、その手前にある犬山城が邪魔だった。この城は、斎藤氏に味方する織田一族・織田伊勢守家の信清が守っていたのだ。
つまり「身内が敵」という状況だ。
なぜわざわざ引っ越したのか? 居城を北部に移すことで、かつて織田伊勢守家に仕えていた武士たちを取り込むためだった。
『新修名古屋市史』第2巻では、この信長の居城移転をこう評価している。
そこに、新征服地の人士を意欲的に取りこんで勢力を伸ばしてきた織田弾正忠家の伝統的政策がうかがえよう。
つまり、信長は単に「敵を倒す」だけでなく、敵だった人材を積極的に自分の組織に取り込むことで勢力を拡大してきた。この征服した土地の人材もどんどん登用していく方針こそが「身分にかかわらず成果次第」という人材戦略に繋がっていく。
■“合併後”に不満が溜まらない「成果主義」
理由は単純だ。新しく仲間に加わった武士たちは、もともと敵だった人間だ。古くからの家臣たちと比べれば信頼関係は薄い。
だからといって「家柄」や「古参かどうか」で役職を決めたら、どうなるか?
新参者たちは、どれだけ頑張っても出世できない。不満が溜まり、「こんな組織にいても意味がない」と離れていく。
信長の勢力拡大は、現代の会社で自社が上位の立場で、進出した地域にあった同業他社と合併したようなものだ。
同業他社との合併は、合併した後のほうが難しい。似たような経験を持ち、役職も同等の人材が一気に増える。例えば、2000年に第一勧業銀行、富士銀行、興銀の三銀行の合併で誕生した、みずほ銀行は合併後のそれぞれの出身者間で主導権争いが激化。銀行システムの統一もままならず、その後頻発したシステム障害の遠因となったとされている。
信長が直面したのも、同じ構図だった。
美濃攻略を進める中で、信長にとって最も重要だったのは「家中をどうまとめるか」だった。古参の家臣と、新しく取り込んだ元・敵側の武士。両者を納得させる方法は、完全な成果主義を打ち出すことだった。
■“役立たずな古参”の排除も可能だった
この成果主義には、さらなる利点がある。「何を成し遂げたか」で評価すれば、古参だが役立たずで反抗的な家臣を、「成果を上げていない」という理由で排除することもできる。
新参者には「実力次第で出世できる」と希望を与え、古参には「結果を出さなければ地位は保証されない」と圧力をかける。この仕組みが機能すれば、組織は一気に引き締まる。
問題は、この制度が本当に機能するかどうかだ。
しかも、信長はこの成果主義による改革をハイスピードでやらなくてはならなかった。というのも、信長が鵜沼城の攻略を命じた1564(永禄7)年、信長は大きな注目を集めるようになっていたからだ。
正親町天皇の勅使が尾張に下向し、信長に禁裏御料所(天皇の直轄領)の回復や御所の修理を行うことなどの勅命を伝えたのである。
『信長公記』では、鵜沼城の攻略は8月、勅使の下向は9月となっている。つまり、信長が鵜沼城の攻略を命じた時期には、京都ではこんな噂が広がっていたはずだ。
「織田信長いう新しい衆が、今川義元を討ちはって、えらい勢いついてはるなあ。これは期待できる大名はんやわ」
■鵜沼城攻略は「失敗が許されない賭け」
こうなると、信長としては期待に見合った実力を発揮できる体制を、一刻も早く作らなくてはならない。同時に、美濃を攻略して京都と自由に往来できるルートも確保しなくてはならない。つまり、組織改革と領土拡大を同時並行で進めるという綱渡りだ。
そのどちらが欠けても、信長の野望は潰える。だからこそ、藤吉郎の鵜沼城攻略は、信長にとって「失敗が許されない賭け」だったのだ。
実のところ、これは結構な難題である。
鵜沼城主の大沢次郎左衛門が、斎藤氏の譜代の臣だったかどうかは、史料によって記述が異なり定かではない(そもそも、史料によって違いがあり名前も不確実)。
ただ、いずれにせよ、まだ裏切りを考えるような状況ではない。斎藤氏は幼少の龍興が後を継ぎ、いささか混乱はしている。とはいえ、信長のほうも似たようなもので急速に勢力を拡大、義元を討ったことで、勢いは増しているが、まだ実力は測りがたい。ともすれば、時流に乗って一時的に調子がよいだけのハリボテかもしれない。
いや、むしろ事実ハリボテで信長が「えらいこっちゃ、京都からも注目されとる。このまんま、ハリボテじゃあかんがや」と頑張っている最中である。
■“成果主義の正しさ”を証明する試金石
つまり、藤吉郎にとって、この任務は千載一遇のチャンス。
「やったがや! 大沢を説得すりゃあ、いよいよ俺も侍大将だがね。もしかして武将も夢じゃにゃあかも!」
成功すれば、足軽頭から一気に侍大将へと駆け上がれる。もしも、失敗しても最悪「使えん奴だった」と切られるだけだ。つまり、ハイリスク・ハイリターンの個人戦。失うものが少ない者にとって、これほど魅力的な賭けはない。あくまで個人的な問題である。
ところが信長は違う。信長にとって、この任務は組織改革の試金石。藤吉郎が成功すれば、「ほら見やあ、成果主義は正しかったがや」と証明できる。古参の家臣も、新参者も、「結果を出しゃあ評価されるんだて」と信じるようになる。
だが、もし藤吉郎が失敗したら?
「だから若造はあかんって言ったろ?」
古参の家臣たちが一斉に反発する。成果主義は机上の空論だったと見なされ、組織改革は頓挫する。そして、京都から注目されている今、このタイミングで失敗すれば、信長自身の威信も地に落ちる。
■「藤吉郎の成功を祈るしかなかった」
「しょせん、今川義元を討ったのは運だったんじゃにゃあか?」
そんな噂が広まれば、ハリボテがバレる。つまり信長は、組織の命運、自分の威信、そして美濃攻略の成否、すべてを藤吉郎一人に託してしまったのだ。だから、「任せたわ」と言った瞬間から、信長の心配は止まらない。
「本当にあいつで大丈夫かや……?」
自分が「任せたわ」と大見得を切った手前、今さら撤回はできない。一般的には「魔王」として知られる信長だが、実際には藤吉郎と寧々の夫婦喧嘩を仲裁する手紙が残っているくらい、繊細で気配りのできる人物である。部下の家庭問題にまで首を突っ込むような性格だ。
となれば、組織の命運を賭けた大勝負を若手に任せた今、心配で夜も眠れなかったはずだ。しかも、この任務。いうなれば、ライバルの支店にのこのこ出かけて「店丸ごと、ウチの会社に移らない? 支店長も社員もそのまま雇いますよ」というようなものだ。せいぜい「成功すればいいなあ」くらいのギャンブルである。
「あいつ、ちゃんと準備しとるかや?」
「大沢を説得する筋道、立てとるんかや?」
「まさか、いきなり城に乗り込んで失敗しとりゃせんか?」
信長の頭の中は、そんな心配でいっぱいだっただろう。だが、もう口出しはできない。「実力主義」を掲げた以上、若手に任せた仕事に上司が介入するわけにはいかない。信長はただ、藤吉郎の成功を祈るしかなかったのである。
■賭けに成功し、美濃攻略の道が開かれた
結果、歴史上明らかなのは、藤吉郎が調略=説得でうまいこと話をつけて大沢次郎左衛門を味方につけた「らしい」ということである。
この調略は、かつての青少年向けの豊臣秀吉本では定番で描かれたエピソードだ。例えば森田草平『豊臣太閤:青少年のために書かれた史談』(成徳書院1944年)では、「既に東美濃が信長についている今、譜代でもないのに義理立てすることはない」と説得するシーンに多くのページを割いている。
もっともこの本、情感たっぷりに説得シーンを描いた後、作者が「果たしてこの通りであったかどうか、私は勿論その場にいたわけではないから知らない」とオチをつけている。
要するに、誰も本当のところは分からない。ただ、明らかなのは、鵜沼城を手に入れたことで信長は救われ、藤吉郎は出世したという事実である。
信長の賭けは成功した。
「ほら見やあ、成果主義でええんだわ!」
成果主義は机上の空論ではなく、実際に機能することが証明された。藤吉郎は侍大将へと出世し、信長の組織改革は軌道に乗り始めた。そして美濃攻略への道も、ついに開かれたのである。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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