安価な中国製品に仕事を奪われ、廃業寸前まで追い込まれた岐阜県の町工場・浅野撚糸。独自技術で開発した高吸水タオルは、発売当初は1カ月で50枚しか売れなかったが、のちに累計2000万枚を販売する商品へと成長した。
2度の経営危機を経て、町工場はいかにして突破口を見いだしたのか。2代目社長の浅野雅己さんに、ビジネスライターの伊藤伸幸さんが聞いた――。
■2度の倒産危機を乗り越えた「魔法のタオル」
東海道新幹線の岐阜羽島駅から車で約10分。田園地帯の中にあるタオルショップに、連日多くの買い物客が押し寄せる。カフェが併設されたこの店は観光コースにもなっており、大型バスが駐車できるスペースもある。休日には300人もの来場者が押し寄せる人気のスポットだ。
来客者の目当ては、看板商品の「エアーかおる」。その最大の特徴は吸水力で、一般的なタオルの1.5倍ほどあるという。2007年の発売以降、「魔法のタオル」と話題になり、累計2000万枚以上を販売する大ヒット商品に成長した。
そしてこのタオルは、特許を取得した「スーパーゼロ」という独自技術による特殊な糸で作られている。
綿の糸と水溶性の糸を強くねじり合わせたのち、これを熱水処理すると水溶性の糸だけが溶ける。そうするとねじった力の反動で糸の間に大きな隙間ができる、この隙間によって抜群の吸水力が生まれるのだ。

この糸を開発したのは、岐阜県安八町に本社がある浅野撚糸(ねんし)。従業員数が60人程度の中小企業だ。
撚糸とは、複数の糸をねじり合わせて1本の糸にする加工技術のことを言う。ねじる方向や強さ、組み合わせる素材によって様々な特性を得ることができる。ちなみに“腕によりをかける”という言葉は、この撚糸が語源だ。
現社長の浅野雅己氏が田舎の町工場に過ぎなかった同社を、国内外の大手企業と取引するオンリーワンの企業に成長させた。同社の2026年度の売り上げは創業以来、過去最高の30億円を超える見通しだ。
順風満帆に見える同社だが、浅野氏の人生は倒産の危機に2度も瀕するという波乱万丈に満ちたものだった。
■涙と罵声と物が飛び交った21人の解雇通告
浅野氏は福島大学を卒業後、小中学校での教員経験を経て、1987年27歳のときに浅野撚糸に入社した。1995年に2代目社長に就任すると、当時最新鋭の設備を導入し、複合撚糸の開発に取り組んだ。
最新設備を次々と導入した結果、大手商社から大量の受注を獲得する。ゴムと綿糸を組み合わせたストレッチ糸が大手アパレルメーカーに採用され大ヒットしたのだ。
就任時4億円だった売り上げは1999年には7億3000万円にまで拡大する。
しかし、このときが売り上げのピークだった。
翌2000年からは一転して苦境が続くことになる。安価な中国製品が国内市場に一気に参入。市場を席捲するようになり、売り上げの減少が続いていく。その後も売り上げの減少は止まらず、協力工場の操業を維持するために、ついに赤字の案件まで受注するようになった。
2003年1月には経営危機に陥り、従業員21人のリストラを断行する。協力工場との契約も25社から10社まで大幅に削減した。従業員への解雇通告は修羅場だった。泣き叫ぶ人、罵声を浴びせる人、物を投げる人、しかし、浅野氏はどうすることもできなかった。
■私たちにはまだ、設備と技術が残っている
会長だった父の博氏からは廃業を強く迫られた。それでも、浅野氏は断固として首を縦に振らなかった。
それには、2つの理由があった。
ひとつは協力工場をどうしても救いたいという想いだ。協力工場の多くは浅野氏を信じて6000万円以上もする高価な設備を買っていた。浅野撚糸と同時期に導入していた工場はかなりの部分で投資回収が進んでいたが、導入が遅かった工場では借金がほぼそのまま残っていた。協力工場は夫婦で経営している零細企業が多く、行き詰まるのは必至だった。
もうひとつは、下請けの惨めさを痛感したことだった。取引先の商社から言われた通りに高価な設備を購入し技術を磨いたのに、海外でも同じような製品が作れるとわかったとたん、あっという間に仕事がなくなってしまった。
市場が右肩上がりのとき、商社の担当者は「このストレッチの市場は絶対になくならない、未来永劫に続く」と言っていた。それを信じた自分たちが馬鹿だった、本当に哀れだと浅野氏は思った。
それでもこの現状を何とかして変えたい――。浅野氏はまだ諦めていなかった。
「当時、私たちにはまだ最新の設備と複合撚糸の技術が残されていました。
撚糸の組み合わせは無限です。ストレッチに変わる新たな組み合わせを開発できれば、必ずチャンスはあると確信していました。だからそのチャンスに賭けてみようと思ったのです」
■全く先の見えない毎日の繰り返し
まずは協力工場のために仕事を確保する必要があった。浅野氏は1件でも仕事を受注するため、営業回りを続けた。のこぎり屋根と呼ばれる紡績関連の工場を手あたり次第、200~300軒は回った。
県内の工場を全て回り、関西方面にも足を延ばした。以前に取引があった商社にも訪問してみたが、さすがに会ってくれなかった。明らかに居留守を使われていた。
もう行くあてはほとんど残っていなかったが、それでも営業活動を止める訳にはいかなかった。協力工場の人たちが、仕事を持って帰るのを待っている。だから、明るいうちには会社に戻れなかった。
あたりが真っ暗になってから会社に戻り、夜の9時から夜中まで新しい複合撚糸の開発を続けた。
全く先の見えない毎日の繰り返しだった。
あるとき浅野氏は営業先の大阪で、かつて取引先だった大手総合化学メーカー・クラレの看板を目にする。懐かしくなって当時の担当者に電話をかけたところ、運よくまだ在籍していたことがわかった。7、8年ぶりに声を聞いた。懐かしさもありそのまま食事に出かけ旧交を温めた。
■「使い道のない糸」と出会う
その後、数日してその担当者から浅野氏に電話があった。
「お湯に溶けるちょっと変わった糸があるんだけど、社内では使い道がなくてお蔵入りになりそうなんだ。浅野さんのところで何か使えないかな」
糸のサンプルを送ってもらったものの、浅野氏も見当がつかずそのまま放っておいた。その数カ月後、新たな複合撚糸を開発していた最中にこの糸をふと思い出す。
当時開発していた複合撚糸は、何をやってもすぐに糸が切れてしまう。補強材にでもならないかと思い、ダメ元で使ってみた。すると糸が切れずに撚(よ)ることができた。
反物にしてみると従来のものよりも3倍も伸びることもわかった。「これは面白い」と思い、その後も試行錯誤を繰り返すことになる。
1000回以上もの試験を繰り返し、最終的にはお湯につけると一般的な綿糸の1.6倍に膨らむ糸が出来上がった。「これはいける!」と浅野氏は確信した。「スーパーゼロ」と名付けられたこの糸は特許を取得し、早速、営業活動を開始することになる。
しかし、浅野氏の期待とは裏腹になかなか売り上げが増えなかった。コストが高いことに加え、ここでも具体的な使い道を提案できなかった。浅野氏は悶々とした日々を過ごしていた。
■指示ミスが生んだ新商品
2004年11月、浅野氏は銀行からの紹介で三重県のタオルメーカー「おぼろタオル」と出会う。最初は気乗りしていなかったが、実際に会ってみるとおぼろタオルも非常に厳しい経営状況に陥っていた。
「お互いに厳しい者同士、せっかくだから何か一緒にやってみましょうという話をしました。まずは当社の『スーパーゼロ』を送ってタオルの試作をやってもらうことにしたのです」
ところが試作したタオルは、浅野氏が依頼したものとは少し様子が違っていた。伸び縮みするタオルを作ってもらうはずが、出来上がったものはほとんど伸び縮みしなかった。
これはおかしいと思いおぼろタオルの社長に尋ねてみると、指図書とは異なった製法をしていたことがわかった。指図書では下地部分に使うように指定されていたのだが、そうではなく直接肌に触れるパイル部分にこの糸が使われていたのだ。
実際にタオルに触ってみるとフワフワだった。箱に入りきらないくらい膨らんでいた。偶然の産物だったが、そのお陰で従来よりも柔らかく吸水性のあるタオルが生まれた。浅野氏は心の中で「やった! これで勝てる」と思った。
しかし現実はそれほど甘くはない。神戸に本社があるベビー服アパレルメーカーへの採用が決まったが、その後が続かなかった。1枚1000円もする高価なタオルはどこの問屋も買ってくれない。地方の名もない町工場のタオルでは、どこも相手にしてくれなかった。
相変わらず経営状況は厳しいままだった。そして浅野撚糸の業績はさらに悪化していった。2007年には売り上げが2億3000万円にまで落ち込んだ。
■「自分たちで売るしかない」浅野撚糸の復活
浅野氏はこの危機的な状況を挽回するためにある決意をしていた。このままではいずれ倒産してしまう。やはり問屋に頼っているだけではだめだと考えた。
「こうなったら自分たちで売るしかないと思いました。当時は今と違って町工場がブランドを作るなんて考えられない時代でしたが、とにかく自分たちのブランドを作ろうと決めたのです」
商品名は「エアーかおる」。表記を「KAOL」とし、Kはクラレ、Aは浅野撚糸、Oはおぼろタオル、そしてLはLIVE、共に生きるという意味で名付けた。
予想はしていたものの、最初はほとんど売れなかった。1カ月間100件営業に回っても、売れたのはたったの50枚。それは浅野氏の親戚と社員に買ってもらった分だった。
あるとき、以前から付き合いのある問屋が展示会への出展をアドバイスしてくれた。
「浅野さん、このまま営業を続けていても今の厳しい状況は変わらないだろう。だったら新たな販路開拓を目指して東京ビッグサイトに出展してはどうだろうか?」
浅野氏はその言葉にすがる思いで出展を決めた。最初はなかなか反応がなかったが、苦しい中でもなんとか踏ん張って3年間出展を続けた。すると2010年2月、3年目の展示会でようやく大きな受注を獲得する。吸水力の高さを活かしてバスタオルの半分サイズとし、プロモーションビデオを流したのが功を奏したのだ。その結果、国内大手企業の3社で採用が決まった。
その後は右肩上がりで順調に売り上げが回復し、2014年には過去最高の売り上げとなる8億円を達成。口コミでの広がりに加えてテレビショッピングの看板商品に採用され人気がさらに高まった。数々のメディアで紹介されるようになり、2019年には売り上げが23億円にまで拡大する。協力会社を含めて借金返済のメドがようやく立つようになった。浅野撚糸はついに復活したのだ。
■人のいない町から、世界への挑戦
ようやく一息つけた浅野氏だったが、再び危機に直面することとなる。きっかけは、経済産業省の課長からの「福島の復興に力を貸してほしい、福島に進出してほしい」という相談だった。
大学時代は福島に住んでいたこともあり多少のうしろめたさはあったが、浅野氏ははっきりと断るつもりでいた。やっと妻にも楽をさせてあげられる。正直、ここで大きなリスクを背負いたくはなかった。
それでも現地への視察を熱心に誘われたので、ちょっとした旅行のつもりで出かけていった。しかし、福島第一原発があった双葉町で目にした光景は、浅野氏の想像をはるかに超えていた。見た目は普通の街並みなのに、全く人がいないのだ。
そこは11年5カ月、全く人がいない町だった。浅野氏は自然と涙が出てきて止まらなかった。何とかこの町の復興の力になりたい。しかしそれは同情の気持ちだけではなかった。ビジネスの可能性を感じていたのだ。
「震災復興のシンボルとなるこの町でビジネスを拡大できれば、間違いなく浅野撚糸も世界にアピールすることができる。地方の町工場でも、夢を忘れずに続けていけば世界中にその存在を知ってもらえる。自分たちでそれを証明したいと思ったのです」
浅野氏は、16年前の廃業危機のときに強く感じていた「下請けから脱却したい」という気持ちを思い出していた。「地方の町工場でも頑張ればここまでできる。スターになれるんだ」ということを証明したい衝動に駆られていた。
■30億円の新工場を襲うコロナ
そうは言っても自分一人だけで簡単に決められることではない。まず父の博氏に相談したところ、賛成してくれた。条件はただ一つ、妻の真美さんと後継者である長男の宏介氏(専務)が賛成することだった。
真美さんは一切反対しなかった。ただ一言「後悔だけはしないでほしい」と言われた。しかし内心はやめてほしかったと思う。宏介氏からの条件は、70歳までは生きることだった。「だったら一緒にやろうよ」と言ってくれたのだ。
ついに双葉町での新工場プロジェクトがスタートした。やるからには復興のシンボルになるような建物にしたい。岐阜の本社工場の3倍の広さとし、地域住民の憩いの場となるカフェやタオルショップも併設した。補助金と銀行からの借入で合わせて30億円を調達した。ところが、またしても浅野氏に困難が待ち受ける。新型コロナが発生したのだ。
2020年4月、緊急事態宣言の発出により、当初予定していた新工場の発表を延期させざるを得なくなった。その後、2023年4月、現地採用の社員や岐阜から転勤してもらった社員を合わせて総勢20人で、浅野撚糸の双葉事業所「フタバスーパーゼロミル」が開業した。
■4億の赤字に眠れぬ夜、奥歯が割れ高熱に
そして、ここでも想定外の事態が起きる。戻ってくるはずの住民が戻って来なかったのだ。当初は500人が戻ると見込まれていたが、実際に戻ってきたのは30人ほど。しかもそのほとんどが高齢者だった。住民の憩いの場となるはずのカフェは閑古鳥が鳴いていた。工場も全く動いていない。浅野撚糸は再び倒産の危機を迎えていた。
「いい格好をして引き受けなければよかった。田舎の町工場が部不相応なことをしてしまったのかもしれない……」
浅野氏はずっと後悔していた。実は2003年の最初の経営危機のときよりも、このときの方がつらかったそうだ。
「10年前のときは結局自分たちの問題だったんです。協力会社といっても、ある意味身内のようなものです。しかし、今回は違います。自分たちが失敗したら福島の復興の動きが止まってしまう。背負っているものの大きさから、言葉では言い表せないほどのプレッシャーを感じていました」
会社の業績は一向に改善せず悪化の一途をたどる。2023年度の決算では、ついに4億円の赤字に転落した。
浅野氏は精神的なプレッシャーから、体重が減り夜も寝られなかった。毎日歯ぎしりをしていたため、しまいには奥歯が割れてしまった。そこから炎症を起こし、40度近い高熱を発症。一時はかなり危険な状態になっていた。
■双葉の最新設備が30億円へ導いた
追い詰められた浅野氏だったが、今回も地道な営業活動と新商品開発が同社を救うことになる。
コロナ禍以降、専務の宏介氏を中心に大型量販店や大手ドラッグストアチェーンをターゲットとして新たな販路開拓に取り組んでいた。3年にわたる営業活動が実を結び、これらの受注が拡大したのだ。
さらに、新たなタオルの開発も実現した。「エアーかおる」の立ち上げ後、浅野氏はこれを上回る新製品の開発に取り組んでいた。しかし、17年間取り組んでもなかなか成果が出なかった。岐阜本社工場の既存設備では撚糸技術に限界があったのだ。
そして双葉事業所に導入した最新鋭の撚糸設備がこの課題をブレイクスルーする。最新設備を使って開発を1年間続けた結果、ついに浅野氏が理想とする新たな糸ができた。この糸を使うことで、「エアーかおる」の吸水力を保持したまま、より柔らかな肌ざわりのタオルが完成した。
このタオルは「わたのはな」の商品名で発売されると、大手百貨店を中心に販売量が急拡大した。
新たな販路拡大と新商品効果により売り上げは急回復し、2026年度には過去最高の30億円を達成し、黒字に回復する見通しである。
■病床で決意した頂上への挑戦
2024年5月、高熱を発症して病床にあった浅野氏は、銀行から浅野撚糸に派遣されていた顧問からある提案を受けていた。
「自分は正式に浅野撚糸に入社しようと思っている。だから双葉のプロジェクトにも真剣に取り組みたい。復興のシンボルになるためには中途半端な目標ではダメだ。どうせやるなら100億を目指したらどうか。浅野撚糸にはそのポテンシャルがある」と言われたのだ。
「顧問から話を聞いて、私自身も本気で100億を目指したいと思いました。最初に宏介に話したら『親父、これでようやく楽になれる』と言ったのです。自分たちが目指すべき頂上が見えたのでしょうね」
浅野氏が100億円に向けた決意を固めた直後、期せずして、経済産業省が「100億宣言」プロジェクトを発表する。これは、売上高100億円を目指す中小企業の成長を政府が後押しする制度だ。すぐに浅野氏はこの制度に応募した。不思議なことに宣言を発表したら、大きな商談がいくつも舞い込んできたそうだ。
■町工場が“100億円企業”を目指すワケ
浅野氏には、売り上げ100億円を目指すための大義名分が3つある。
1つは社員の給料を上げることだ。それも5%や10%といった中途半端な数字ではなく、ずば抜けたレベルを目指す。売り上げ100億円を達成できれば決して不可能な数字ではない。
2つ目は双葉町を復興させることだ。双葉から浅野撚糸の糸が世界中に売れれば、必ず双葉町は復活できる。それどころか震災前よりも発展することだってできるかもしれない。
最後は、町工場、中小企業の希望の星になることだ。田舎の町工場に過ぎなかった浅野撚糸が世界的な企業になれば、全国の中小企業に夢を与えられる。自分たちだって、いつか100億円を目指せるのではないかといった希望や勇気を与えることができるはずだ。
浅野撚糸が発表した100億宣言資料の中には、2031年の売上高100億円実現に向けた分野別の売上目標が記されている。その中には撚糸、タオル、アパレルなどの既存分野に加えて、「リーダーズ養成機関」という項目が新たに加えられている。これは、教師だった浅野氏の長年の夢なのだ。
「ずっと前から考えていた夢でした。中小零細企業の学校を作って、町工場のリーダーを養成したいんです。経営者やその師弟を相手にちょっと一緒にやろうよという感じですね」
最後に浅野氏はこう付け加えてくれた。
「これは今まで話したことがなかったのですが、実を言うと一番の夢は妻を楽にさせてあげることなんです(笑)」

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伊藤 伸幸(いとう・のぶゆき)

中小企業診断士、ビジネスライター

1966年愛知県生まれ。関西大学社会学部卒。新卒で精密機器メーカーに就職し、営業職を経験後、商品企画、経営企画、事業企画など30年近く企画系の業務に従事。中小企業診断士の資格取得後は、経営ビジョン・戦略策定、重点施策管理、提案書作成など、企業が成長していくために必要となる一連の言語化作業のサポートを中心に活動している。得意分野は事業戦略、方針管理、マーケティング、ビジネスライティング全般。

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(中小企業診断士、ビジネスライター 伊藤 伸幸)
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