日本で唯一、診療科を横断してロボット手術を扱う低侵襲外科センターを構える鳥取大学医学部附属病院。そこでは執刀医が「最大手術時間」「最大出血量」を申告し、その数値を超えた場合は、別の診療科のチェック係の医師が手術を停止させるという。
診療科を越えた連携とその成果をリポートする――。
※本稿は、鳥取大学医学部附属病院広報誌『カニジル 21杯目』の一部を再編集したものです。
■「ガガガガって不気味な音がして目が覚めた」
無心に掃除をしていた田中雄悟は、日付が変わり、1月17日になっていることに気がついた。
例年、田中家では年末に大掃除を行なっていた。しかし、インフルエンザに罹患してしまい、先延ばしになっていたのだ。4月には高校3年生になり受験勉強で追われるだろう。いつもよりも念入りに掃除をしていた。ようやく終わり、空気を入れ換えようと窓を開けた。
すると、遠くからゴーッという音が聞こえた。これまで聞いたことのない不思議な、そして不気味な音だった。その音の意味が分かったのは、数時間後のことだった。
1995年1月17日5時46分、兵庫県淡路島沖の明石海峡を震源とする、マグニチュード7.3の地震が発生した。
阪神・淡路大震災である――。
「ガガガガって音がして目が覚めたんです。近くに爆弾が落ちて、爆発したのかなと思った。気がついたら家の外にいました。どうやって外に出たのかは覚えていないです。玄関、家中の窓、扉、雨戸がすべて開きっぱなしになっていた」
田中が住んでいた神戸市長田区は、震災の被害が特に大きかった一帯である。家は半壊状態で、水と電気が止まっていたが、幸い雨風をしのぐことはできた。
「石油ストーブで暖をとって、水は給水車からもらいました。毎日、ポリタンクで水を運んでいました」
■被災地支援にやってきた医師である叔父の友人たち
田中が通っていた長田高校は避難所になった。
「近所のおじいちゃん、おばあちゃんたちが避難所にいました。水の入ったポリタンクは重い。昼ぐらいから避難所に行って、水を運んだり、掃除を手伝ったり」
毎日の仕事は水汲みでしたねと、田中は振り返る。
そんな頃、医師である叔父の友人が被災地支援でやってきた。
「放射線科の先生が放射線技師、看護師さんたち10人でチームを組んで、物資を持って来られた。(建物が倒壊して)車は入れないので自転車でした。うちに泊まりながら避難所を回った。ぼくは道案内のお手伝いをしました。目の前で苦しんでいる人がいるのに自分は何もできない。そこで先生たちが淡々と診察をされる姿を見てすごいなと思いました」
その後も彼とは手紙をやりとりした。それまで田中は漠然と理系学部に進み、研究者か教職につくことを考えていたが、彼との出会いで医学部を受験することに決めた。そう手紙に書くと、こう返事があった。医師はしんどい、ただ人を助けることができる素晴らしい職業でもある、と。
■専門として呼吸器外科を選んだ理由
本格的に受験勉強を始めたのは高校3年生の4月になってからだった。震災以降、受験勉強から離れていたため、最初に受けた模擬試験は悲惨な結果だったと田中は笑う。

「やばいと思って、ずっと勉強していました。あんなに勉強したことはなかったぐらい。開き直りですね。震災がなかったらあそこまで集中できなかったかもしれない」
そして、第一志望だった神戸大学医学部に合格した。専門として呼吸器外科を選んだのは、震災後の解体作業の影響で肺がんが増えると耳にしたからだ。
「肺の外科手術が必要になるはずなのに、医師が少なかった。肺はすごく繊細なんです。スポンジでできた風船のようなもので、すぐに傷がつく。医師の技量によって手術時間が変わってくる。そこにやりがいを感じました」
肺がんの切除など、呼吸器外科の手術では、まず脇の下を15センチ程度、切開し、肋骨と肋骨の間(肋間)に万力のような器具(開胸器)を挿入して肋間を開き固定することで、肺への手術が可能となる。
もう一つの選択肢は胸腔鏡手術だ。これは数センチの“傷”をつけ、内視鏡と鉗子を入れて施術する。

「肺は身体の深い場所にあるので、長い器具を使います。(手術時に)出血があると結構な量になる。手術としては難しい部類に入る」
だからこそ、術者の経験、技量による“差”が出てくる。こうした前提をがらりと変える可能性のある術式――ロボット支援手術と田中が出会ったのは、2014年12月のことだった。場所はとりだい病院である。
「神戸大学でロボット手術は泌尿器科で積極的に行われていました。ぼくも呼吸器外科でロボットを使ってみたいと思っていました。当時は呼吸器外科でやっている施設がほとんどなかった。とりだい病院でやっているというので見に行くことにしたんです」
ロボット手術では患者の体に小さな穴をあけ、4本のアームに取り付けたカメラと手術鉗子を挿入。術者は、コンソールと呼ばれる操縦席で、カメラと鉗子を動かし、手術を行う。
この術式の最大の利点は切開部分が少ないことだ。そして器械を使用することで、術者の熟練度がある程度平均化される。

■従来の常識を変える「ロボット支援手術」との出会い
2010年8月、とりだい病院はロボット支援手術を導入、2011年2月に『低侵襲外科センター』を設立、複数の外科でのロボット支援手術を進めていた。
「第一印象はかなり大変そう、というものでした。まだ慣れていなかったこともあるでしょう、当時の(胸部外科診療科群)教授だった中村廣繁先生が苦労して手術をされていた。本当に普及するのかとも思いました」
中村は日本呼吸器外科学会のロボット支援部会の部会長でもあった。
「廣繁先生たちが症例を積み重ねて2018年に保険適用となると、そこから他の病院が一気に始めることになったんです」
田中の所属していた神戸大学病院の呼吸器外科でもロボット支援手術を始めた。
「ロボットは4本の手。我々は2本の手でやってきた。手でやっていたことに囚われていて、最初は使いこなすことができなかった」
ただ、ロボットは細かい作業が得意。手と違い“関節”を自由に動かすことができる。配置する位置などのセッティングを含め、ロボットの力を引き出すための時間がかかったんですと田中は言う。ロボット手術による技術の均一化という恩恵を受ける患者の数は増えるだろう。ただ、同時に田中は課題にも気がついた。

■肺切除の手術数で国内トップレベルの実績に
「どこの病院もまずはロボット手術は若手が経験を積むような比較的、平易な手術から始めます。そうなると若手は自分で手術をすることができない上、ロボット手術のお手伝いをするだけ。ロボット手術を行う医師は、体力的、精神的にしんどくても新しいことをやっているという充実感があります。でも手伝いをしている医師にはそれがない」
そこで田中はチームを作り、若手医師たちに意見を求め、なるべく均等に経験を積ませるようにした。
「穴を空ける位置、ロボットをどこに置くか、頭側か背中側か。そうしたことをみんなでディスカッションしました。神戸大学(呼吸器外科)は鳥取大学よりもずいぶん遅れてロボット手術をスタートしたんですが、症例がどんどん増えていき、2022年には肺切除の手術数で国内トップレベルの実績を挙げたんです」
そして2024年、田中は住み慣れた神戸を出て、新たな階段を上ることにした。鳥取大学医学部呼吸器・乳腺内分泌外科学分野(胸部外科診療科群)の教授選に応募し、採用されたのだ。
「鳥取大学は我々の学会でも有名な施設なので高いハードルでした。やるからには覚悟を決めました」
■「患者さんの顔を見ることで発見がある」
最も興味があったのは、日本で唯一、診療科を横断してロボット手術を扱う低侵襲外科センターがどれだけ機能しているか、だった。低侵襲外科センターでは、執刀医は〈最大手術時間〉〈最大出血量〉を申告。この数値を超えた場合は、チェック係の医師が手術を停止させる。チェック係には執刀医とは別の診療科の医師をあてる。
「普通は別の診療科の医師にチェックされることに抵抗がある。ところが、カンファレンス(症例検討会)では活発な議論が行われていました。また、他の診療科には、ぼくらでは考えられない鉗子の使い方、セッティングをされている医師がいた」
診療科を越えた結束力と同時に、プロ同士の厳しさを感じたという。
診療科を預かる教授の職務は、教育、研究、そして診療の3つが主だ。その日々は多忙である。そんな中でも、田中は患者への説明には時間を割いている。外来、そして病室を訪れる時間を大切にしている。そこで「具合はどうですか?」「様子見ましょうね」「頑張ろうね」と声をかけるのだ。
「患者さんと話をするのが好きなんです。顔を見ることで発見があると思っています」
田中は2011年から約2年半、アメリカに留学、肺移植の基礎研究に従事していた時期がある。論文が認められ、そのままアメリカに残るという選択肢もあった。日本に戻ったのは、臨床医として患者の役に立ちたいという思いが強かったからだ。
「手術って人生の大きな決断。我々はそうした気持ちを理解した上で説明しなければならない。長すぎると患者さんも疲れてしまうので、30分程度。できるだけ丁寧にお話したい」
■いかに若い先生たちのための道を作るか
そして後進の育成にも力を注ぐ。
「医師としてある程度、背中を見せなければならない。ただ、主役は教室のみんなです。私はマネージャーとしても力を発揮していきたい。いかに若い先生たちのための道を作るか」
田中は5年を一区切りとした計画を常に頭に浮かべている。
「最初の5年間はまず足場を作る。次の5年でさらに新しいことを進める。いずれは、鳥取大学に国外から多くの留学生を呼び込む、あるいはロボット呼吸器外科手術のパッケージを作り、そのソフトを国外に輸出していきたい」
その原点となっているのは、阪神・淡路大震災での経験だ。困っている人の力になりたいという田中の目線がぶれることはない。
田中雄悟(たなか・ゆうご)

1977年兵庫県神戸市生まれ。神戸大学医学部医学科を卒業後、神戸大学病院、国立病院機構医療センターなどを経て、2011年からアメリカに渡り、ピッツバーク大学メディカル・センターで肺移植の基礎研究に従事。2013年に帰国し、神戸大学病院に戻る。2019年、神戸大学病院呼吸器外科 病院准教授。2024年11月、鳥取大学医学部呼吸器・乳腺内分泌外科学分野教授に就任。

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田崎 健太(たざき・けんた)

ノンフィクション作家

1968年3月13日京都市生まれ。『カニジル』編集長。『UmeBoshi』編集長。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『新説・長州力』『新説佐山サトル』『スポーツアイデンティティ』(太田出版)など。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。2021年、(株)カニジルを立ち上げ、とりだい病院1階で『カニジルブックストア』を運営中。

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(ノンフィクション作家 田崎 健太 写真=馬場磨貴)
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