自由な人生を送るためには何が必要なのか。漫画家・文筆家のヤマザキマリさんは画家を目指していた20代の頃、イタリアで極貧生活を送った。
「画家は貧乏が当然であり、お金がなくても自由であるに越したことはないと思っていた。しかし27歳のとき、自分を甘やかすのは終わりだと決意した」という――。
※本稿は、ヤマザキマリ『最後の講義 完全版 漫画家・文筆家・画家 ヤマザキマリ』(主婦の友社)の一部を再編集したものです。
■画材すら買えない貧乏暮らし
フィレンツェでの11年についてはあまりエッセイにも書いていませんが、とにかく毎日が苦しくてつらかった記憶しかありません。
お金にならなくても必要なことだと信じて進んだ道ですが、そもそも人間はお金がなければ生きていけません。絵を勉強したところで、それでどうなるというのか。まったく先行きが見えない。母がオーケストラからもらっている給料は大したことはありませんでした。だから私への仕送りも、家賃を払って、食費を切り詰めてやっと生きていける程度。画材すら買えません。
当時、日本はバブルの最中でしたから、日本人観光客はすさまじい数でした。通訳やガイドが足りなかったために、旅行代理店の人が学校に私をスカウトにやってきたこともありました。

お金が欲しかったので、アルバイトは助かりましたが、私と同じくらいの年齢の若者もブランド品店などで湯水のようにお金を使い、買い付けに来た商人などは、一度に何千万円もの単位の商品を購入していきます。
■バイトも続かない詩人との同棲生活
その人たちと一緒にフィレンツェで一番高級なレストランで食事をしたあと、家に帰るとガスも水道も電気も未払いで止められている。わけがわかりませんでした。貧乏必至の画家をめざしている自分がばかばかしくもあり、半面、なんとしても金に魂を売るものか、という意固地さでいっぱいでした。
そのころ、私は自称詩人の彼氏ができて同棲をしていました。詩人と絵描きの二人ですから経済生産性はゼロです。どちらもお金を稼げるあてがない。しかもこの詩人は、どんなアルバイトを試みても、どうして詩人である自分がこんな場所でこんなことをしなきゃいけないのかという自己葛藤に見舞われて、すぐにやめてしまうんです。
つきあい始めのころは、そういう特異な彼の性質も「おもしろい人だな」と思えていましたが、だんだんそんな寛大な気持ちは失せていきました。ただただ金を稼げない詩人に腹が立ってくるのです。私がガイドで稼いだお金でなんとか二人食いつないでいました。
■同級生たちは就職して安定しているのに…
貧乏だったころに描いた絵がこれです。
これは私の孤独感を顕在化している作品だと思っています。
フードをかぶって立っている男性は、ジャン・コクトーというフランスの詩人です。映画監督や画家という側面も持っていましたが、我が道を行く彼は私の尊敬する人でもありました。そして、奥にいる女性は1930年代のファッション誌か何かをモデルに描いた人ですが、この寄る方ない表情と佇まいは自分を投影していたのかもしれません。
このころ私は油絵科を専攻していたのですが、なぜか黒と白という二つの色でしか表現ができませんでした。色のある絵が描けなかった。色のある絵を描こうとすると、自分の心象風景とマッチングしなくて、気がつくと油絵ですら白黒ばかりになっていました。
お金もなく、将来の保障もない。経済的な困窮は実直に生きていく苦しさを容赦なく突きつけてきました。私の同級生たちがみんな順調に大学を卒業し、そこそこのお給料をもらえるところに就職をしている中で私は今日のご飯を買うお金もない。自由を選択したはずなのに、現実の厳しさにがんじがらめになっているのに、友人たちは会社という組織に帰属をしても、経済的な自由は保障されていました。
■細々と食べていければいいと思っていた
旅行ができたり、好きなものが買えたり、食べ物を買いに行ってもいちいち引き算をしないで買える。
引き算をしないで買えるという意味がわかりますか? 2000円しか持っていないから、これを買ったらあと1800円、あと1600円と頭の中で計算しながら生活をする。子どものときも留守がちな母が置いていく1000円で夕食を買うのに引き算は慣れていましたが、まさかそれが20代半ばを過ぎても続くとは思ってもいませんでした。
詩人と私だけで生きている間は、別にそれでもよかったんです。そもそも絵描きや詩人なんていうのは貧乏が条件みたいなものですから、大変だけどみんなそうだったわけだし、耐えられるところまで耐えてやっていくしかないと思っていました。
バブルにあやかって、ときどきガイドや通訳など日本人相手の仕事をしていけば細々と食べていけるだけのお金にはなったので、そんな生活でも自由であることに越したことはないと受け止めていました。
■27歳で妊娠を機に目が覚めた
ある日、そんな私の楽観的な考えを覆す出来事が起こりました。
27歳のときに妊娠をしたのです。冷静に考えてみたら、あのような貧しい状況で子どもが生まれても育てていける保証はありません。産婦人科の先生も私の事情を知っていますから、「今は厳しいから、出産はちょっと考えたほうがいいかもね」と助言し、私も同意見でした。
そもそも、子どものころの孤独や、イタリアでの経済的困窮に人づきあいの難しさも重なり、とても世の中を素晴らしいものなどと捉えることのできなかった私は、子どもを持ちたいと思ったこともありませんでした。
私と同じく、自分一人を生かしていくことにさえ辟易していた詩人も、やはり妊娠は喜ばしいことではなく、意気消沈していました。ところが、そんな詩人の弱気な様子を見た瞬間、突然私は出産を決意しました。
いつまでも私の稼ぎをあてにしているこの人とはいいかげんに別れよう、という決意もそのときに芽生えました。
私は留学という自由を選んだけれど、その自由の中に潜んでいた経済的困窮にがんじがらめになっていて、だけどそれを絵描きだから仕方がないとあきらめて受け入れ続けていました。
■子どものために「自由な生き方」を手放す決意
しかし、子どもが生まれ、利他を主体に生きなければならないこのフェーズに、苦しむ自分を甘やかしていた殻を破らないといけないと気がついたのです。
そして、イタリアへ行く前の自分が考えていた自由とはほど遠い位置にあるような生き方を試してみようと思い立ちました。生まれてくる子どものために、人間はいざとなれば何だってできるんだという姿を見せなければならない、という強い義務を感じたのでした。
貧しかったために、良い産院などで子どもを産むことはかないませんから、出産はお金がそれほどかからないフィレンツェ大学の病院ですることになりました。
■陣痛を「気のせい」とあしらう産婆
予定日より3週間も早く、夜中に産気づいたのですが、詩人は金策のために地元の悪い連中とどこかに出かけて留守でした。そもそも家族も誰もいない中での出産だったので、担当医の勧めで雇っていた産婆さんに電話をかけてみました。
年齢は50歳、ゴージャスな金髪に両手は指輪だらけ、未婚で出産の経験もない彼女は、にわかに私の言葉を信じてくれませんでした。陣痛がきているんですと言っても「気のせいよ」と嫌そうな声で答えて電話を切ってしまう。2時間くらいがまんしましたが、どんどん痛みがひどくなってきたのでまた電話をすると、「あなた今何時だと思っているの? 夜中の2時過ぎよ」と言う、そんな感じです(笑)。
4時近くになって「もう生まれそうなんです」と言うと、「ったくしょうがないわねえ、病院の前で待ってるわ」と太々しさ全開の対応。
詩人はまだ帰ってきませんから、自分でタクシーを呼び、大学病院に向かいました。タクシーの運転手は苦しむ私に「お願いですからここでは産まないで」と焦っていました。
大学病院に着くと、その産婆さんが白衣を翻しながら仁王立ちで、ガムをかみながら私の顔を見るなり「おさまったでしょ、陣痛」とドヤ顔で問いかけてきました。そして、自分はどうしても7時に仕事に行きたいからそれまでに産んでくれないかとガムをかみながら頼んできました。気弱な私はそんなことを言われたために焦りが生まれ、それがおなかの子どもに伝わったのか、ちょうど7時に生まれました。
■貧乏を言い訳に自分を甘やかすのは終わり
ボロボロの分娩台の上で、赤ちゃんが出てきたのを感じた瞬間、頭の上のくす玉がパカーンと割れたような気持ちになりました。
そしてその割れたくす玉の中から「詩人、さようなら」と書かれた垂れ幕が降りてきたような感覚もありました。この世界で、人間として生きていくことがどれだけ大変ですさまじいものなのか、何もわからず、生まれることを志願したわけでもない生命体を前に、私ももう貧乏を言い訳に自分を甘やかすのはこれまでだ、と痛感しました。
この子も大人になれば必ず嫌な目にあう。だけど、それを克服できるように、私がそばにいる間は、どんな社会であろうとがんばって生きていく姿を見せなければならない、だからここからもうあなたの面倒は見られません、と詩人には告げました。もちろんその後しっかり別れるまでには2年の歳月を要しましたが、私の決意は揺らぎませんでした。
■いったん絵を離れることに未練はなかった
私は油絵画家として生きていくという目的をいったんやめることにしました。
挫折という言い方でいいと思います。それまで私が油絵で専攻していたのは15世紀のフランドル派の画家が描いていたような写実的な肖像画でしたが、肖像画というのはとにかく需要がない。写真が普及している現代において、肖像画なんて流行るわけがない。
それなのに、先生はそうした絵画をやるべきだと勧め、私もそれひと筋にがんばってきたのですが、生まれてきた子どもを見ていると、いったん絵を離れることにも未練はまったくありませんでした。

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ヤマザキマリ
漫画家・文筆家・画家

1984年にイタリアに渡り、フィレンツェの国立アカデミア美術学院で美術史・油絵を専攻。2010年『テルマエ・ロマエ』でマンガ大賞2010受賞、第14回手塚治虫文化賞短編賞受賞。2015年度芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞。2017年イタリア共和国星勲章コメンダトーレ受章。2024年『プリニウス』(とり・みきと共著)で第28回手塚治虫文化賞のマンガ大賞受賞。著書に『ヴィオラ母さん』『貧乏ピッツァ』など多数。現在、『続テルマエ・ロマエ』を集英社「少年ジャンプ+」で連載中。

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(漫画家・文筆家・画家 ヤマザキマリ)
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