人口130万人の島国キプロスで、24時間のうちに3つの事件が重なった。ロシア人富豪が失踪し、大使館では外交官が「自殺」した上、汚職動画の流出で政界に激震が走った。
外交官にはロシアと繋がっていた過去があり、プーチンの粛清説が囁かれる。親ロシアから西側に転じた島国への報復だと、複数の海外メディアが報じている――。
■地中海の島国で起きた「悪夢の24時間」
地中海に浮かぶ小国キプロスで1月7日、不穏な24時間が始まった。
同日、大手肥料メーカー・ウラルカリの元CEOウラジスラフ・バウムガートナー氏が、ロッククライミングに出かけたまま行方不明になった。翌8日には、首都ニコシアのロシア大使館で外交官アレクセイ・パノフ氏が死亡しているのが見つかっている。当局は自殺と発表。そして同じ8日、キプロス政界を揺るがす汚職スキャンダルが幕を開けた。
人口わずか130万人ほどの小さなキプロスで、たった24時間のうちに、富豪の失踪、外交官の死、政治スキャンダルという3つの不穏な出来事が立て続けに起きたことになる。いずれもロシア関連だ。
独立系ロシア語メディアのメデューザによると、その後の調査ではパノフ氏がロシアの情報機関に所属していたことも判明した。単なる外交官ではなく、スパイだった可能性が浮上。事態は一層謎めいてきた。

これら3つの事件が互いに関連しているかについて、ロシア当局は沈黙を貫いている。しかし、かつて「地中海のモスクワ」と呼ばれるほどロシアマネーが流れ込み、ロシア政界と深い関係を築いてきたこの島で、これだけの出来事がたまたま重なったとは考えにくい。
■検死が許されなかった不自然な“自殺”事件
外交官の怪死事件から紐解こう。
1月8日、キプロスの首都ニコシアにあるロシア大使館で、41歳の外交官アレクセイ・パノフ氏が死亡した。英ガーディアン紙やロシア独立系英字紙のモスクワ・タイムズによると、大使館は死因を明らかにせず、「ご家族にとって深い悲劇」とコメントするにとどめた。一方、現地メディアは匿名の警察筋の情報として、パノフ氏が執務室で首を吊って自殺したと報じている。
しかし、その後の大使館の対応が疑念を呼んでいる。パノフ氏は遺書を残していたとされるが、大使館はこれをキプロス警察に渡さず、「モスクワで精査する」として開示を拒否。さらに、捜査官が現場検証のため大使館内に立ち入ることも拒んだ。現地警察は、大使館の中庭で遺体を引き取ることしか許されなかったという。
疑念をさらに深める情報もある。キプロスの大手日刊紙の英字版カティメリニは、欧州でのロシア影響工作を長年追跡してきた調査員であり、著述家でもあるドミトリ・フメルニツキー氏による指摘を掲載。
それによると大使館側は、遺体発見から丸4日間も経ってからキプロス当局に通報した疑いが持たれている。キプロス警察はこの件を否定したものの、外交特権を盾に大使館側が警察の立ち入りを拒んだことは認めた。
検視の結果、死因は「索状物による縊死(いし)」と判定された。首にひも状のものをかけて死亡したという意味だ。だが、それ以上の詳しい状況は明らかにされていない。公式には自殺として処理されたが、第三者が検証する機会は一切与えられなかった。
■外交官が隠していた2つ目の名前
アレクセイ・パノフ外交官は、実は純粋な外交官ではなかった。
複数の調査報道機関が経歴を掘り下げたところ、暗号の専門家としてロシアの情報機関と長年にわたって協力関係にあったことがわかった。また、アントン・パノフという本名が別に存在し、年齢も41歳ではなく47歳であることが分かってきた。
オーストラリアに拠点を構えるギリシャ系ニュースサイトのグリーク・シティ・タイムズなど複数のメディアは、パノフ氏の本分は暗号の専門家であり、外交官の身分を取得したのは免責特権を得るためだったと指摘する。すなわち、ロシア側のスパイであったというのだ。
メドゥーザなどによると、パノフ氏は2000年代初頭、ロシア連邦保安庁(FSB)直属の「アトラス研究技術センター」で働いていた。
2008年、極右政党ロシア自由民主党のレオニード・スルツキー党首に仕える補佐官が採用を仲介し、外務省での働き口を掴む。この補佐官は治安機関と太いパイプを持つ人物だ。
ロシアの独立系調査報道機関・インサイダーによれば、入省当時のパノフ氏は「対外情報庁(SVR)のドミトリー・ペトリシェフ中佐と作戦上の接触があった」という。そしてキプロス赴任の直前に残された通話記録からは、ラブロフ外相をはじめとする複数の高官とやり取りしていた形跡が確認されている。
疑惑はさらに深まる。ロシア人ジャーナリストのセルゲイ・カネフ氏によると、パノフ氏はかつてモスクワの機密研究所において、長距離通信の研究にも携わっていた。この研究所は、ロシア軍の情報機関GRU(軍参謀本部情報総局)や航空宇宙・レーダー計画と密接に関連している。妻のアナスタシアも同じ研究所に勤めていたことがわかっており、夫妻とロシア情報機関との接点は、もはや偶然とは言い難い。
キプロス政府は近年、ロシアと距離を置く方針を示している。パノフ外交官がこれに従ったとすれば、プーチン大統領の怒りに触れた可能性が見えてくる。
■「ロシアの情報機関の世界では珍しくないシナリオ」
もっとも、自殺説が公式に否定されたわけではない。仮に自殺だったとして、なぜパノフ氏は死を選んだのか。

背景には深刻な金銭問題があったとみられる。キプロス・メールによると、ロシアの情報・治安機関からのリーク情報で知られる匿名テレグラムチャンネル「VChK-OGPU」が、パノフ夫妻の金銭トラブルを暴いた。
夫妻はクリミアの不動産案件に多額の頭金を投じたが、この案件はのちに詐欺の疑いで捜査対象となり、資金を失ったという。パノフ氏自身もネット上で、「彼らは我々から盗んだ」と書き込み、事件を公にするよう求めていた。さらに、多額の賭博による借金を抱えていたとも複数のメディアが報じている。
それでも、大使館の対応には不審な点が多い。こうした事情を踏まえれば、パノフ氏の死には何らかの力が働いたと考えるのが自然だ。
調査員のフメリニツキー氏はカティメリニの取材に対し、大使館がキプロス当局への通報を4日間も遅らせ、現場への立ち入りを拒み、パノフ氏が残したとみられるメモの提出も拒んだ、と数々の不自然な点を挙げる。フメリニツキー氏は「これが純粋に個人的な事情による自殺なら、なぜ4日間も死を隠す必要があるのか」と、矛盾を指摘する。
同氏はこうした秘密主義から、ある仮説にたどり着く。追い詰められたパノフ氏は、危険な賭けに出ようとしていたのではないか。「亡命を企てていたところを阻止された可能性がある。
ロシアの情報機関の世界では珍しくないシナリオだ」。こうした指摘に対し、ロシア大使館は沈黙を守っている。
■ロシア人富豪の失踪事件
パノフ氏の死と時をほぼ同じくして、キプロスでは別のロシア人が行方不明になっていた。
ロシアのカリ肥料大手ウラルカリの元CEOで、パノフ氏と同じくキプロスに住んでいたウラジスラフ・バウムガートナー氏だ。メデューザによると、バウムガートナー氏は1月7日にロッククライミングに出かけた後、連絡が途絶えたという。
リマソル近郊の海岸でひどく腐敗の進んだ身元不明の遺体が見つかったのは、14日になってからだった。ロシアメディアのフォンタンカは情報筋の話として、この遺体がバウムガートナー氏のものだと報道。地元メディアも翌15日に追随した。一方、キプロス警察は公式には身元を発表していない。
インサイダーによると、肥料大手CEOであったバウムガートナー氏が行方不明になったあと、1月8日には騒ぎになっていた。ところがキプロス警察が公表したのは3日後の11日だった。
捜索は、携帯電話の信号が最後に検知されたアスプロ岬周辺の険しい岩場を中心に進められた。
14日午後、キプロス島内でイギリスが軍事拠点として管轄する地域にあるアヴディモウビーチで、一般市民が遺体を発見した。腐敗が著しく進んでおり、その場での身元特定はできなかったという。
ロシアのオンラインメディア、フォンタンカによると、警察は事故の可能性が高いと見ている。熱心なロッククライマーだった同氏が、「今回は別のルートに挑戦しようとした」との見立てだ。
不可解なことに、発見から1週間以上が経っても、遺体がバウムガートナー氏本人かどうか、まだ特定できていない。グリーク・シティ・タイムズによると、遺体の衣服は失踪届の内容と一致したが、DNA鑑定は続いている。発見現場が英軍基地内にあり、キプロス警察に全面的な捜査権限がないため、作業が遅れているという。
事故か、自殺か、それとも他殺か。ロシア外交官パノフ氏の死との関連も含め、真相は闇の中だ。
■大統領義弟を失脚させた動画スキャンダル
パノフ氏の死と同じ日、キプロス政界をスキャンダルが駆け抜けた。発端となったのは、ソーシャルメディアで拡散した1本の動画だ。
動画には、ニコス・クリストドゥリディス大統領の首席補佐官で義弟でもあるハラランボス・ハラランブス氏が登場。ある人物に対して自分に投資するよう持ちかけ、金銭と引き換えに政治的な便宜を図ると示唆しているように見える内容だった。
映像の流出を受け、ハラランブス氏はフェイスブックで反論。動画は「意図的な歪曲」と「選択的な編集」によって、誤解を与える意図で細工されたものだと主張した。しかし同氏は結局、辞任に追い込まれる。
仏ニュース専門局のユーロニュースによると、クリストドゥリディス大統領は辞任を受理し、「圧力に屈したわけでも、罪を認めたわけでもない。潔白への自信の表れだ」と述べたという。
問題の動画には、ハラランブス氏のほか、元エネルギー相、大手建設会社のCEOが映っている。3人は大統領と親密な関係にあると誇示しながら、口利きをほのめかすような発言を繰り返していた。
疑惑はそれだけにとどまらない。動画は、クリストドゥリディス大統領が2023年の選挙で100万ユーロ(約1億8292万円)の資金上限を超え、帳簿外の献金を現金で受け取っていたとも主張している。
■西側への急接近がロシアの怒りを買った可能性
元諜報員パノフ氏の死、富豪バウムガートナー氏の失踪、そしてキプロス政界を揺るがす汚職動画の流出。3つの事件は、果たして偶然の産物だったのか。
この問いに答えるには、キプロスの外交姿勢がここ数年で劇的に変わった経緯を押さえておく必要がある。親ロシア派だった同国は、ウクライナ侵攻を契機に西側寄りの姿勢を鮮明にするようになった。これがロシア当局の怒りを招いた可能性がある。
ガーディアン紙によれば、ニコス・クリストドゥリディス大統領は外相時代、親ロシア派とみなされていた。ところが2022年、ロシアがウクライナに侵攻すると、キプロス全体として明確に西側陣営へと舵を切る。ウクライナ支援を打ち出し、アメリカとの関係も深めていった。
そして2026年1月7日、同国はEUの輪番議長国に就任。その式典には、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領が主賓として招かれている。ガーディアンはキプロス当局がこうして西側に急接近したことでロシアの逆鱗に触れ、今回の経緯に至ったとみる。
インサイダーによるとキプロス政府は、汚職動画の流出事件を「クレムリンによる報復」と断定している。欧州と連携を深めるキプロス政府への報復として、ロシアがサイバー攻撃や偽情報工作を組み合わせた「ハイブリッド戦術」で揺さぶりをかけているとの理解だ。
欧州に対し、キプロスは信頼できないパートナーであると演出し、貶めようとしている可能性がある。クリストドゥリディス大統領は、動画の出所を特定するため、アメリカ、イスラエル、イギリス、フランスの専門チームに支援を要請したと明かした。
■ロシアによる組織的工作が疑われている
ユーロニュースは、キプロス治安当局による初期分析の結果を紹介。当局は流出した8分半の動画について、「ロシアによる組織的な偽情報工作の特徴」と一致していると結論づけた。過去にフランスやドイツ、アメリカを狙ったロシアの工作と同じパターンだという。
キプロス・メールによると、キプロスの首都ニコシアに駐在する西側の外交官たちは、パノフ氏の死について水面下で懸念を示しているという。ある大使はガーディアン紙の取材に、陰謀論のような議論かもしれないと前置きしながらも、ロシアによる工作説は排除できないと語った。別の外交官は「不可解で不気味だ」と漏らす。
折しもキプロスは、半年交代で回ってくるEU議長国の座に就いたばかり。親ウクライナの姿勢を鮮明にしたことで、ロシアとの緊張も高まっている。
検証すら許されなかったパノフ氏の「自殺」や、管轄権の壁に阻まれた失踪事件、そしてこのタイミングで流出した汚職動画。3つの不可解な事件とロシアによる圧力が、今も地中海の島国に暗い影を落としている。

----------

青葉 やまと(あおば・やまと)

フリーライター・翻訳者

1982年生まれ。関西学院大学を卒業後、都内IT企業でエンジニアとして活動。6年間の業界経験ののち、2010年から文筆業に転身。技術知識を生かした技術翻訳ほか、IT・国際情勢などニュース記事の執筆を手がける。ウェブサイト『ニューズウィーク日本版』などで執筆中。

----------

(フリーライター・翻訳者 青葉 やまと)
編集部おすすめ
プレジデントオンラインの記事をもっと見る

トピックス

今日の主要ニュース 国内の主要ニュース 海外の主要ニュース 芸能の主要ニュース スポーツの主要ニュース トレンドの主要ニュース おもしろの主要ニュース コラムの主要ニュース 特集・インタビューの主要ニュース