■「尾張の整備」と「美濃攻略」まで15年
大河ドラマ「豊臣兄弟!」は、信長の美濃攻略に突入。
まさに出世の好機到来と励む小一郎(仲野太賀)と藤吉郎(池松壮亮)兄弟の姿が描かれていくことになる。でも、この美濃攻略も信長(小栗旬)からみればまったく別物。拡大のためには、必ず通らなければならない道だとわかっていたのだから。
この美濃攻略、実に長い時間がかかっている。
桶狭間の戦いは1560(永禄3)年。その後、斎藤龍興を敗走させて美濃を平定したのは1567(永禄10)年と、実に7年もかけた事業になっている。信長が家督を継承したのは1552(天文21)年頃、本能寺の変で死去するのが1582(天正10)年である。つまり、信長の経営者としてのキャリアは約30年間だ。この数字を並べてみると、驚くべき事実が浮かび上がる。
家督継承(1552年、19歳頃)から桶狭間(1560年、27歳)まで:8年
桶狭間(1560年)から美濃平定(1567年、34歳)まで:7年
つまり、地元市場である尾張を整備するのに8年、それからようやく隣県に進出してシェアを獲得するまで7年。
■まるで「織田グループの下請け子会社の社長」
これは、一般的な織田信長のイメージとはかけ離れている。多くの人が抱く信長像は「桶狭間で今川義元を討ち、一躍天下人への階段を駆け上がった英雄」だろう。
しかし、数字が示す現実は違う。桶狭間の戦いで今川義元を討った後も、信長はさらに7年間、隣の県すら平定できずにいたのだ。
27歳で「買収にやってきた大手企業の社長を見事に撃退した」地方中小企業の社長が、34歳になってようやく隣県に進出できた……これが実態である。
別の記事でも書いたが、信長は織田家の中では分家の分家だ。尾張国は上四郡と下四郡に分かれており、信長の織田弾正忠家は下四郡を支配する織田大和守家の家臣にすぎなかった。つまり、信長は「織田グループの下請け子会社の社長」だったのだ。
(参考記事:秀吉・秀長を家来にするしかなかった…織田信長を「冷酷な戦国武将」に変えた“織田VS.織田”の抗争の中身)
信長は1555(弘治元)年に主家である織田大和守家の当主・信友を滅ぼし、さらに1559(永禄2)年には岩倉城を拠点に上四郡を支配する織田伊勢守家の当主・信賢を降伏させ、ようやく尾張全体を統一した。
尾張統一、美濃平定と書けば聞こえはいいが、実態はかなり怪しい。特に問題だったのが、犬山城を押さえる織田信清である。
■従兄弟の信清からしたら“面白くない”
信清は信長の従兄弟だが、年上だ。信長の父・信秀が生きていた頃は臣従していたが、信長の代になってからは独立。織田伊勢守家を下す際には協力してくれたが、関係はどうも怪しい。妻が信長の姉(犬山殿)なのに、やっぱり信用できない人物である。
これ、信清の視点で見れば理解できなくもない。年下の従兄弟が、親父が死んだ途端に「ボクが跡継ぎです」と言い出した。しかも、最初は箸にも棒にもかからない「うつけ」だったはずだ。周囲からは「あんな奴が当主でいいのか」と囁かれ、実の弟すら謀反を起こすような人物。
信清としては「信長の小僧、大丈夫か?」と思っていたはずだ。
ところが、そのうつけがみるみる成長している。弟を粛清し、尾張を統一し、桶狭間で今川義元を討ち、美濃攻略にまで乗り出している。驚異というよりは、面白いハズがない。
「なんで、アイツばっかり」
信清は信長より年上だ。織田一族の中でも、それなりの家格を持っている。妻は信長の姉だから、親戚づきあいもある。だが、信長のほうが勢いがある。周囲も、信長に注目している。信清としては、臣従する体裁は取っているけれど、内心では「早く、失敗しないかな」と思っている。
■信長にとっても“厄介な身内”
つまり、足を引っ張る身内である。これ、正月やお盆の親戚の集まりで、商売が上手くいったり、いい結婚をした従兄弟を、ネチネチとディスる親戚みたいなものだ。
「いやあ、信長くん、最近調子いいらしいねえ。
「美濃に攻め込むって? 斎藤さんとこ、まだまだ強いよ? 無理しないほうがいいんじゃない?」
表向きは親戚づきあいを続けているが、内心では「早く失敗しないかな」と思っている。成功すれば「調子に乗りやがって」と面白くなく、失敗すれば「ほら見たことか」と溜飲を下げる。親戚の中で一番やっかいなタイプである。
しかも、信清にもそうなる理由がある。家に帰れば妻は、その面白くない従兄弟の姉である。
「あなた、信長とちゃんと話した?」
「ああ、まあ、形だけはね」
「形だけって何よ。ちゃんと協力してあげなさいよ」
「いや、俺だって犬山城を守らなきゃいけないし」
「だから、それが信長の邪魔してるって言ってるの!」
こんな夫婦喧嘩が、犬山城で繰り広げられていてもおかしくない。
■「天下取り」と「親戚づきあい」に挟まれた信長
信長としては、こういう身内が一番厄介だった。
敵なら戦えばいい。味方なら信頼すればいい。だが、信清のような「味方のフリをした敵でも、敵のフリをした味方でもない、ただただ面倒くさい身内」は、どう扱えばいいのかわからない。
結局、信清は1562(永禄5)年に信長に反旗を翻している。
信清自身はこれで歴史の表舞台からは姿を消すのだが、娘の一人が後に信長の息子・信雄の養女となっているところをみると、なんらかの関係だけは保っていたのだろう。
「天下を取る」とか言ってる一方で、面倒くさい親戚づきあいもしなくてはいけない信長は、なかなか大変である。
さて、こんな面倒くさい親戚もいるくらいだから、平定したとはいえ家中が統一できているわけではない。なにより、信秀の代からようやく成し遂げた尾張の平定だ。古参の家臣には「もうこれで満足、なんで美濃まで攻略しなくちゃいけないんだ」と考える者もいるだろう。中には「ここまで急に拡大したんだから、もっと足場を固めないと」とかしたり顔でいってくるヤツもいただろう。
だから、時期を見極めなければいけなかった。
■上杉謙信や武田信玄への“根回し”で足場固め
天皇の勅命である。「美濃を平定して、京都への道を開き、御所を修理せよ」こんな錦の御旗があれば、周囲に対しても堂々と美濃攻略を進められる。
「これは私欲ではない。
とはいえ、あくまで大義名分。朝廷がなにかやってくれるわけではない。兵を出してくれるわけでもなければ、金をくれるわけでもない。「頑張ってね」と言われただけである。
だから信長も慎重である。この時期から、信長は上杉謙信や武田信玄と盛んに友好関係を結んで美濃侵攻の足場を固めている。
要は「美濃はうちが攻めるので、ひとつよろしく」と挨拶をしていたわけだ。謙信や信玄は、美濃に近い越後や甲斐を拠点にしている大勢力だ。もし彼らが「美濃は俺のものだ」と言い出したら、信長は面倒なことになる。だから事前に根回しをしておく。
「美濃はこっちでやりますんで、そっちは手を出さないでくださいね」
「ああ、いいよ。頑張って」
こういう外交的な合意を、地道に積み重ねていたのである。
こうしてようやく足場を固め始めたところで、好機が訪れた。1565(永禄8)年、将軍足利義輝が三好氏らに殺害される永禄の変である。この時、兄が殺されたと危機、いち早く京都を脱出したのが出家していた弟の覚慶……室町幕府最後の将軍となる足利義秋(後に義昭)である。
■“京都の混乱”に乗じた信長の思惑
このとき、義秋が頼みにしたのが義輝と親しくしていた謙信と信長であった。そこで、義秋は美濃の龍興と信長の和平を仲介。信長に上洛を要請する。
信長にとってはこれほどの好機はない。室町幕府の権力が失われたとはいえ、いまだ権威はある。首尾良く義秋が将軍になれば、その上洛を支援した信長の名声は高まる。その余力で、労せずして美濃を手に入れることも出来るかもしれない。
信長は、小躍りして喜んだだろう。
『多聞院日記』によれば、1566(永禄9)年8月、信長は義秋宛てにこんな書状を送っている。
来月23日、織田尾張守参陣いたし、御動座御供申すべき由に候。それに就いて、三州(三河)・濃州(美濃)・勢州(伊勢)四カ国出勢必定に候。此の砌、忠節を袖でられるべくは、神妙となるべきの由。(松田亮『信長の美濃攻略史研究』新美濃史学会1976年)
この時点で、「三河・美濃・伊勢(に尾張を加えた)四カ国が出陣する」と断言している。つまり、信長はこの時点で、美濃を自分の勢力圏に入れたつもりでいたのである。
■三好三人衆は足利義栄を擁立
いや、もちろんそんなわけはない。将来の将軍……になるかも知れない相手に、自分をめちゃくちゃ盛って見せたのである。しかし、盛るにしてもやりすぎだ。高卒なのに「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した後、パリに留学しましてね」とかいってるようなものだ。
もしかすると、ここまで盛ることで「こうなったら、どうやっても美濃を手に入れなければならない」と自分を追い込んでいたのかもしれない。
ともあれ、将軍候補と共に上洛するといえば、龍興も手を出せまい。そう思っていたら、甘かった。京都は刻一刻と事態が変わっていた。共に義輝を倒した三好三人衆と松永久秀は決裂。その三好三人衆は自分たちの本拠地である阿波にいた足利義栄を将軍とするべく工作をしていた。
そうなると、まずいのは上洛を狙っている義秋だ。さっそく龍興に使者が送られ上洛の阻止が求められた。通過されるだけでも影響力拡大を危惧する龍興はさっそく承諾した。
こうして8月29日に両軍は木曽川を挟んで対峙する。悲惨なのは義秋である。将来の将軍である自分が上洛するだけなのだから、諸大名も無碍にはしないかと思いきや、両軍は全力でやる気である。
それも、全力でやる気というよりはお互いに屁理屈を使ってでも相手に非があることにしようとしている。
■龍興の“責任転嫁”
山梨県甲斐市に残る「中島家旧蔵文書(武田氏が国外における動静をまとめたもの)」では、龍興側の視点で、この争いが記されている。
これによれば、龍興側は「義秋さまが上洛されるということであれば、休戦しすぐに参陣する」「こっちは戦わないというのに、信長が参陣しない」「もし信長に敗北したら屈するつもりですが、義秋様が戦うなといってますよね。細川藤孝(義秋の家臣)も、信長をどう罰するべきかといってます」などと主張している。
完全に責任転嫁である。三好三人衆から「義秋の上洛を阻止しろ」と頼まれて承諾したくせに、表向きは「義秋様のためを思って」と言っている。しかも「細川藤孝(義秋の側近)も信長を罰するべきだと言ってる」と、義秋の家臣を引き合いに出している。
挙げ句の果てには「三好三人衆が義栄を将軍にするつもりだが、これも信長のせいで致し方ない」ということまで言い出しているのだ。そして、文書にはこう記す。
織上、天下の嘲弄、これに過ぐべからず候。
これは、信長が義秋を奉じて、自分たちのところに参陣しないのは、天下の笑い者としてこれ以上のものはないということである。
■義秋に見捨てられた信長、「天下の笑い者」に
ここまで屁理屈を使われて信長も激怒したことだろう。しかし、折しも木曽川は増水の時期。渡河した信長勢であったが、瞬く間に敗退し、撤退を余儀なくされ多数の溺死者まで出たという。
呆れた義秋は、信長にさっさと見切りを付けて若狭へと去って行ったのである。
龍興に屁理屈で翻弄され、木曽川で敗北し、多数の溺死者を出し、挙げ句の果てに義秋にまで見捨てられた。
「天下の笑い者」
龍興にそう罵られた信長は、文字通り天下の笑い者になったのである。
だが、信長はここで諦めなかった。翌1567年、信長はついに稲葉山城を攻略し、美濃を平定する。そして「岐阜」と改名し、「天下布武」を掲げた。地元市場を整備するのに8年、隣県に進出してシェアを獲得するまで7年。全キャリアの半分を使い、屈辱的な敗北まで経験して、ようやく信長は「全国展開できる企業」へと生まれ変わったのである。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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