NHK「ばけばけ」では、トキ(髙石あかり)が「ラシャメン(洋妾)だ」と誹謗中傷をうけるシーンが描かれた。モデルとなった小泉八雲の妻セツは、どうだったのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に史実に迫る――。
※本稿は一部にネタバレを含む場合があります
■小泉セツ「人が皆、洋妾、洋妾というのが辛かった」
NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」。年明けから1月の放送は、周囲の人物に焦点をあてた物語が続き「ホントに二人は結婚するんだよね」とやきもきした昨年末からの緊張感もない展開が続いてきた。
しかし、2月になってからは、また緊張感が戻ってきた。200年は返せないといわれた松野家の借金の返済も目途がたち一段落かと思いきや新聞記者の梶谷(岩崎う大)の記事が原因で、松江の人々はトキ(髙石あかり)を「ラシャメン(洋妾)だ」と噂する展開に。
素朴な人のよい地方都市だった松江が一転して、魔境のように見えてきた。
しかし、史実でもこれに近い八雲とセツに対するいわれなき誹謗中傷はあったようだ。長谷川洋二『小泉八雲の妻』(松江今井書店、1988年)では、著者が種市八重子(八雲の孫)に聞いた話として、セツは晩年「人が皆、洋妾、洋妾というのが辛かった」と語っていたことを記している。
長男の小泉一雄もまた、父がアリを踏み潰しただけでも怒るような人物だったことを語った時に、思い出したようにこう記している。
父は嘗て、隠岐島の士族の息、熊谷正義少年を預り愛育したが、1日洋妾の唄を唄い母を侮辱したので(明治26年8月)送還した。(小泉一雄『父小泉八雲』小山書店、1950年)
■「洋妾」呼ばわりは“許しがたいもの”
この「洋妾の唄」がどの歌かはわからない。ただ、明治初期に流行した「しょんがえ節」の替え歌には「姉は洋妾 妹はなんじゃいな おやおやせげんで金しだい」という歌詞があったとされる(南葉二『流行歌百年』文理書院ドリーム出版1968年)。
文明開化の世相を下品に茶化した俗謡である。
おそらく少年に侮辱の意図はなかったのだろう。どこかで大人が唄っているのを面白半分で口ずさんだに過ぎない。しかしセツは号泣したのではないか。松江で受けた屈辱が、熊本の自宅で再び蘇ったのである。それを見た八雲が激怒したのも無理はない。
この熊谷少年は、八雲が聡明さを気に入って松江から熊本まで連れてきて養育していた子である。それを即刻里に返すというのだから、八雲にとって松江での「洋妾」呼ばわりがいかに許しがたいものであったかがわかる。
そうしたネガティブな感情を、八雲はあえて記録に残すことはしなかったし、セツも身内には語っても外に漏らしたりすることはなかった。
しかし、当時の記録をみていくと松江の人々のセツへの反応がどういうものだったかが、自ずと浮かび上がってくる。
■新聞にも報じられた“蔑称”
松江滞在時、八雲は松江では有名人であった。なにしろ、島根県ではもっとも優秀な生徒が集まる中学校の外国人教師である。
かつ月給も100円という高給取りだ。もう道を歩いているだけで目立つし、訪問してくれれば店でもなんでもそれだけで鼻が高い。いわば、土地の名士であり大スターだ。
こうした「洋妾」という蔑称は、新聞報道にも表れている。当時発行されていた「山陰新聞」は、八雲の動向を執拗に追いかけていた。それも重要な出来事だけではない。なんでもいいから八雲に関する話題を掲載しておけば読者が喜ぶとばかりに、些末なことまで記事にしていた。
例えば1890年11月18日付では、八雲が寺社に参拝した際にきちんと賽銭を出して祈る理由を尋ね、さらに西田千太郎の見舞いに出かけたことまで報じている。1891年7月26日付では、八雲が関西旅行に出かけただけで記事にした。
これほど細かく八雲のプライバシーを書き立てていたのだから、結婚となれば当然大きく報じるはずである。ところが「山陰新聞」は完全に八雲とセツが結婚したとは考えていない。1891年6月28日付の記事では、八雲が研究熱心なために月給100円は毎月不足が出るくらいまで使いきっていることを記した後にこう書いている。

またヘルン氏の妾は南田町稲垣某の養女にて(中略)
完全に妾扱い。これはおそらく、八雲とセツが現在旧居として公開している家に引っ越したのを受けて、記事にしたものだろう。夫婦になって新居に引っ越した八雲らに向かって、半ば嘲笑しているふうにも感じられる。
■世間は“本当の夫婦”と見ていなかった
その後も1891年8月15日付の記事は「ヘルン氏が京阪地方漫遊として愛妾同道昨日出発したり」と、妾扱いを止めない。しかも、その後、八雲が熊本を去る日までセツのことに触れられることは一度もない。
おかしな話である。
セツが女中から妻になったと聞くと、なし崩しに同棲から夫婦同然になったように感じるかもしれない。しかし実際には、八雲はきちんと儀式を行って妻に迎えていた。
1891年8月、八雲は友人のペイジ・エム・ベイカに宛てた手紙で「日本風に結婚したばかりだ」と書いている。盛大な披露宴を開いたわけではないだろうが、媒酌人を立てるなど、なんらかの形で正式な婚姻の儀式を行ったことは間違いない。
にもかかわらず、世間はそうは見ていなかった。
あくまで愛妾、洋妾。
没落した士族の娘が、女中から巧みに先生に取り入ったのだと邪推していたのだろう。そして、おそらく人々がもっとも口にしていたのは、こんな噂である。
「あの二人、まんだほんまの夫婦じゃないげなわ」
噂は事実であった。松江にいた時点で、二人は入籍していない。八雲は一家を構え、セツの家族に経済的援助までしているが、法律上は同棲に過ぎなかった。二人が戸籍上の夫婦になったのは、1896年2月に、八雲が小泉家に入り婿してからである。
これはどういうことか。八雲! お前は、そんなにいい加減な男だったのか‼‼
そうではない。八雲はセツのことを思えばこそ、入籍ができなかったのである。
■日本に帰化すれば「給料が減る」
八雲はこの頃、友人のエルウッド・ヘンドリックに、法律上の正式な夫婦になることへの悩みを打ち明けている。それは自分が困るという話ではない。子供のことを考えてのことだった。

当時の日本では、外国人が日本人と正式に結婚するには、外国人側が日本に帰化し、相手の家の養子(入り婿)になる必要があった。そうしなければ、これから二人の間に生まれてくる子供は、法律上は私生児扱いとなる。父親の戸籍に入れず、相続権もなく、社会的にも差別を受ける立場に置かれてしまうのである。
子供のためを思えば、八雲が小泉家の入り婿になることに躊躇はない。
八雲が本当に心配していたのは、日本に帰化して小泉家の戸籍に入った場合、給料が日本人並みに減額されてしまうことだった。
いま八雲は外国人教師という立場で月給100円を得ている。これは当時の小学校教員の月給が10円前後であることを考えれば、破格の高給である。それが日本人並みになれば、セツの家族を援助することはおろか、自分の子供をまともに育てることさえ難しくなるかもしれない。
八雲は板挟みになっていた。子供の将来のためには帰化が必要だが、帰化すれば経済的に家族を支えられなくなる。セツを正式な妻として迎えたい。しかし、それが結果的にセツと子供を不幸にするかもしれないのである。

■“母を捨てた父”を反面教師としていたか
この時、八雲の脳裏にあったのは、自分の父親のことだったに違いない。
八雲にとって、父親は絶対に許すことができない人間のクズである。それも、後世の我々も話を聞けば激怒するくらいにクズ中のクズである。
赴任先のギリシャで出会った母ローザと結婚し、彼女をアイルランドに連れてきた。ところが父は、妻と幼い八雲をダブリンの実家に置いたまま次の赴任地インドへ旅立ってしまう。慣れない異国の地で孤立した母は精神を病み、父は「ギリシャでの結婚は無効だった」とまで言い立てて彼女を捨てた。そしてほとぼりも冷めないうちに新しい妻を迎え、八雲には母親の違う異母妹までできている。
(参考記事:だからセツとの距離が一気に縮まった…「ばけばけ」では描かれない、小泉八雲が重ねた「生き別れた母」の面影
だから、八雲はセツと結婚するときに、こう固く決意していただろう。
「あんなクズ男みたいに、妻や子供を不幸になんか絶対にさせないぞ‼」
そうなると、自分が日本人になるしかない。今後日本に永住することを考えれば、セツに日本国籍を放棄させて結婚すれば、子供たちはなにかと不便なだけではない。それに子供たちを、あの父親……はすでに死んでいるが異母妹たちと縁続きにさせることになる。
■“セツを愛していた”からこその苦悩
気分的に嫌なだけではない。すでに40歳を越えた八雲は、当時では初老ともいえる年齢だ。少なからず印税収入もある。「自分に万が一のことがあれば、わずかな財産もヤツらのものになってしまいかねない」という不安もあった。
すべてを断ち切るには、自分が日本人になるのが最適解なのだが、そうなった途端に給料を下げられるかもしれない。
そんなバカなと思うかもしれないが、八雲の不安は杞憂ではなかった。実際、後に八雲が東京帝国大学の講師となった時も外国人教師待遇を維持し、年俸は4800円(月給400円)だった。ところが八雲の後任となった夏目漱石は、帝大と一高を合わせても年俸1500円(月給125円)。日本人であるというだけで、給料は3分の1以下になるわけである。
つまり、八雲は「独身生活が長かったから、いきなり結婚はちょっと……」などと躊躇していたわけではない。セツを心から愛していたからこそ、いま涙を呑んで正式には結婚できなかったのだ。
■愛すべき松江が“ジゴク”に
しかし、当時の松江の人々はそうは受け取らなかった。
「ああ、やっぱりそげなことか。先生もお好きだげなわ」
八雲の苦悩など知る由もなく、人々はセツを洋妾呼ばわりしていたのである。
愛すべき松江が、いきなり地獄になった。
そんなことで大切な思い出にケチがついたのだから、松江を去るとき、八雲は心の底で泣いていたかもしれない。
それでも、出雲の神々、あるいは生神女(ギリシャにおける正教会のマリア様)は二人をずっと見守っていたのだろう。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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