■信長と信勝の「織田兄弟」はなぜダメになったのか
永禄3年(1560)5月19日の早朝、桶狭間での今川義元(大鶴義丹)との決戦に繰り出す前、織田信長(小栗旬)は「人間五十年」の台詞で知られる「敦盛」を舞いはじめた。その際、信長の回想と思われる場面が映し出された。信長の目の前で弟の信勝(中沢元紀)が柴田勝家(山口馬木也)に斬られ、信長に向かって必死に手を伸ばしながら息絶えたのである。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第4回「桶狭間!」(1月25日放送)。
信長はこうして実弟を失っており、それもみずから殺害しているので、藤吉郎(池松壮亮、のちの羽柴秀吉)と小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)の兄弟を、憧れと嫉妬が混じったような思いで見つめている――。そういう効果をねらった場面だと思われた。
そして、第6回「兄弟の絆」(2月15日放送)では、信長と弟の信勝のこの逸話が、信長の妹である市(宮崎あおい)の口をとおして語られるようだ。かつては仲が良かった兄と弟だが、永禄元年(1558)、信勝に謀反の疑いがかけられ、信勝は自分を疑う信長を斬ろうとするが、逆に柴田勝家の手にかかってしまった、という話である
藤吉郎と小一郎の兄弟、すなわち「豊臣兄弟」とあまりに対照的な「織田兄弟」だが、史実において信長と信勝は、どういう関係にあり、「豊臣兄弟」となにが違ったといえるのだろうか。
■父親が抱えていたやっかいな領土
信長と信勝(のちに達成、信成と名を変える)は母親も同じ兄弟だった。2人の実父の織田信秀が天文21年(1552)3月、数え42歳で病死すると、家督は信長が継いだ。しかし、当時の織田家はかなり不安定な状況にあった。
一口に「織田家」といっても複数の家があった。信長が継いだのは「織田弾正忠家」といって、いくつかある庶家のひとつで、本家筋は織田大和守家だった。そして、弾正忠家の支配領域が政治的にも軍事的にも不安定であったことが、その家内の安定を欠くことにつながっていた。
具体的には、鳴海城(名古屋市緑区)を中心とした鳴海領が、今川家との「境目」(複数の大名勢力にはさまれ、常に争いの対象になった地域)だったので、今川家との争いの最前線と化し、それをめぐって家内の意見は分裂しがちだったのである。
天文20年(1551)の2月までに、弾正忠家は今川家と和睦を結んだようだが、すでにそのとき、信秀には回復の見込みがなかったと思われる。このため、信勝は独自に活動を開始し、この時点で弾正忠家の内部は、信長を立てる勢力と信勝を立てる勢力に割れてしまっていた。そして信秀が死去すると、前述のように信長が家督を継いだものの、信勝は相変わらず末森城(名古屋市千種区)で、一定の勢力をたもつことになった。
■弟・信雄との敵対関係が明白に
そんな状況だから、織田弾正忠家の内部は周囲には、バラバラであるように映ったに違いない。前述の和睦の際には、鳴海領に勢力をおよぼしていた山口氏という国衆(有力な在地領主)が、織田信秀と今川義元とのあいだを仲裁したのだが、弾正忠家が割れているのを見て見限ったのだろう。山口氏は今川方に付いてしまった。
いったんこうなると、織田弾正忠家の周囲の他勢力も勢いづいてしまう。今川家の尾張への侵攻が盛んになり、主家筋の織田大和守家も信長に真っ向から敵対し、弾正忠家の城を攻撃するようになった。
そこで信長は、斯波義統の嫡男の義銀を庇護して織田大和守家を討ち滅ぼし、義銀を担いで清須城に入った。ところが、今度は岩倉城(愛知県岩倉市)の織田伊勢守家、さらには弟の信勝と彼をもとに付く弾正忠家の家臣たちが、あからさまに信長と敵対した。
このころの信長は、まさに四面楚歌の状況だったといっていい。信長の舅にあたり、信長にとっては貴重な後ろ盾だった美濃(岐阜県南部)の斎藤道三も、弘治2年(1556)4月に嫡男の高政(のちの義龍)に敗れて死去し、斎藤氏も敵に回ってしまっていた。
■兄弟対決の結果
そのころ弟の信勝は、これから織田家を引っ張るのは自分だ、という意志表示を明確にしつつあった。歴史学者の柴裕之氏は『織田信長』(平凡社)に次のように書く。
「信成(註・信勝のこと)はこの頃『弾正忠達成』と名乗っていた。『弾正忠』は、織田弾正忠家の代々の官途であり、『達』の字は、斯波義達の一字拝領をうけた織田達定・達勝兄弟にみられるように、織田大和守家との関係を示すものだ。つまり、信成は『弾正忠達成』を名乗り、清須城で斯波義銀を支えながら織田大和守家に代わり活動する信長でなく、自身こそが織田弾正忠家の当主にふさわしいと世間に示したかったのだろう」
こうして信長と信勝の兄弟は、弘治2年(1556)8月に稲生(名古屋市西区)で激突する。結果は信長の勝利で、敗北した信勝は清洲城を訪れて信長に恭順の意を示し、ゆるされた。
だが、結局のところ、兄弟の対立は解消しなかった。
■息子たちに継承された「兄弟殺し」
永禄元年(1558)10月ごろ、信長はまず岩倉城から織田伊勢守家を追い払った。続いて弟の信勝を、自分が病に臥せっていると偽って清須城に呼び寄せ、見舞いに訪れたところを謀殺したのである。
信長が信勝を清須城に呼んだのは、それまで信勝側に付いていた柴田勝家が、信勝に不穏な動きがあると信長に伝えたのがきっかけだと伝わる。「豊臣兄弟!」で勝家が信勝を斬るのは、このためだろう。ただし、史実においてだれがどのようにして信勝を討ったのかは、わかっていない。
戦国の世では、こうして兄弟が対立してしまった場合、それぞれの存立に関わったので、どちらかがどちらかを滅ぼすのは致し方なかったし、ありふれたことでもあった。信長の息子たちも同様だった。
天正10年(1582)の本能寺の変で、信長と嫡男の信忠が命を失って以後のこと。翌年4月に羽柴秀吉が柴田勝家を滅ぼしてのち、信長の次男の信雄は、弟の信孝の領国だった美濃国に向かい、岐阜城(岐阜市)の信孝を包囲した。そして、尾張国内海(愛知県美浜町)の大御堂寺に弟を連行すると、自刃させている。
■「織田兄弟」と「豊臣兄弟」の違い
それにくらべると、秀吉と秀長の兄弟は異例で、秀吉は比較的早い時期から、小一郎と行動を共にし、全幅の信頼を寄せていた。
たとえば、秀吉が天正7年(1579)、黒田孝高に宛てた手紙には、次の文言を読みとることができる。「我らおとゝの小一郎めとうせん(自分の弟の小一郎同然だ)」。こうして孝高を褒めたたえているのだが、引き合いに出されているのが、弟の秀長(当時は長秀)に対する高い評価なのである。秀吉が秀長をいかに高く買っていたかがわかる。
実際、秀長は、秀吉がそれだけ頼るほど優秀だったということだろう。秀吉の秀長への信頼と依存は、本能寺の変以後、いっそう高まった感がある。秀長は重要な局面でこそ、決まって秀吉の名代を務めた。天正13年(1585)の四国出兵では秀吉に代わって総大将を務め上げ、同15年(1585)の九州平定では秀吉と別に10万の軍勢を率いて、島津氏の領国へ進攻した。
そして長宗我部氏や島津氏、あるいは織田信勝や徳川家康も含め、秀吉に従属することになった外様の大大名たちを秀吉の政権につなぎ止める役割は、ほとんど秀長が担った。秀長はいわば秀吉の政権の「かすがい」として機能した。
信長は「豊臣兄弟」の行く末を見通していたわけではないだろう。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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