NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」では、小泉夫妻をモデルにしたトキとヘブンの熊本移住が描かれる。史実はどうだったのか。
歴史評論家の香原斗志さんは「転居の理由は熊本の高等学校の招聘に応じたから。ただ、ハーンにとって熊本での生活は耐えられるものではなかった」という――。
※ 2月9日以後のネタバレを含む可能性があります。
■小泉夫妻が松江→熊本に移住したワケ
梶谷吾郎(岩崎う大)が「松江新報」に「松野トキさんがヘブン先生と夫婦になったことで、松野家はすべての借金をヘブン先生に返してもらい……」と書いたことで、トキ(髙石あかり)と松野家の人々に向けられる松江市民の視線は一変した。
トキは「ラシャメン」、つまり「金で買われた異人の妾」だったと決めつけられ、人々から怒声や罵声ばかりか、石まで投げつけられるようになってしまった。そこでヘブン(トミー・バストウ)は決断する。トキに「ワタシ、ジブンノココロ、キク、シマシタ」というので、なんのことかと思えば、話は「マツエ、ハナレル、シマショ」と続いたのだった。NHK連続テレビ小説「ばけばけ」の第18週「マツエ、スバラシ。」(2月2日~6日放送)。
ヘブンは第19週「ワカレル、シマス。」(2月9日~13日放送)で、松江を離れたい理由を「サムイ」からだと説明する。「マツエ、フユ、ジゴク」だからだと。トキはそれに納得せず、松江からの転居を断固拒否する姿勢を示す。
だが、しばらくして、ヘブンが松江を離れようと思い立った理由は、寒いからではなかったことが判明する。
トキを知っている人がおらず、「ラシャメン」だと揶揄されずに済む町に移住することで、トキを守りたいと考えたのだった。
■月給2倍というオファー
こうしてトキとヘブンは松江を離れて熊本に旅立ち、トキの養父母の司之介(岡部たかし)とフミ(池脇千鶴)も同居することになる。
トキのモデルの小泉セツと、ヘブンのモデルのラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)が松江を発って熊本に向かったのは、明治24年(1891)11月のこと。司之介のモデルの稲垣金十郎とフミのモデルのトミ、さらに「ばけばけ」では松江に残る勘右衛門のモデルの万右衛門、つまりトキの養祖父も遅れてやってきた。
転居の理由は、熊本の第五高等学校(現・熊本大学)の招聘に応じたからで、「ばけばけ」のヘブンのように、セツが揶揄されずに済む環境に移ろうと考えたのかどうかはわからない。ただ、松江時代よりも経済的な余裕が生まれたことはまちがいない。
というのも、月給は松江時代にも100円(現代の金額で200万~300万円ほどか)と、知事並みの高給だったのが、さらに2倍の200円になったからである。このため、現在も熊本市内に移築保存されている広い屋敷には、セツの養父母、養祖父だけでなく、松江から呼び寄せたり熊本で雇ったりした複数の女中が同居し、そのうえ学生をはじめさまざまな人が入れ代わり立ち代わり寄宿したという。
■家は徹底して和風に
セツの養父母の同居は、ハーンにとって好都合だった。とくにトミが家事をはじめ、家中のほとんどを取り仕切ってくれたので、セツはハーンの身の回りの世話と、ここから二人三脚で進めていくことになった執筆の手伝いに専念できたからである。
また、暮らしは松江にいるときよりも若干、西洋風に振れたようだ。ハーンのひ孫の小泉凡氏は『セツと八雲』(朝日新書)に次のように書いている。

「やがて西洋料理の調理人を雇い入れ、パンやステーキなどの食事をつくってもらいました。その方が経費が抑えられたようです」「この時期のスケジュールとしては、朝6時ごろにセツに起こされます。神棚に拝礼してから、パンに卵、コーヒーの軽い朝食を取ります。セツが持ち物を渡したり、ポケットに気をつけたりと世話をして洋服に着替えます。家の人々に見送られながら、人力車に乗って出勤します」
松江の西洋料理屋から「松」という女中を引き抜き、わざわざ呼び寄せたりもしているが、彼女は西洋料理の調理にも長けていたということだろうか。
しかし、若干の西洋風は取り入れても、家は断固として和風にこだわった。第五高等学校にある外国人教師向けの洋館も見学したが、畳の部屋がないのを理由に断り、松江で暮らしたのと同様の、武家屋敷風の家を探したのだという。
■「日本で住んでいた一番興味のない都市」
そんなハーンにとって、熊本は魅力的に映らなかったようだ。前出の『セツと八雲』によれば、ハーンは「ばけばけ」の錦織友一(吉沢亮)のモデルで、日本における最大の親友だった西田千太郎に宛てた手紙に、熊本は「わたしがこれまで日本で住んでいた一番興味のない都市であることに変わりありません」と書いている。
また、『古事記』の英訳者で、日本研究の大先輩であるB.H.チェンバレンに宛てた手紙でも、次のように吐露している。「人生に生きる目的を与えてくれたのはゴーストです。(略)彼らは私たちに生きる目的、自然を畏怖することを教えてくれました。
ゴーストもエンジェルもデーモンも今はもういません。この世の中は電気と蒸気と数字の世界になってしまいました。それは味気なく、空しいことです」。
「神々の国の首都」と呼ばれた松江は、ヘブンが滞在した当時、城下町の佇まいがよく残っていただけでなく、杵築大社(現・出雲大社)を筆頭に、古代からの記憶とつながる旧跡が周囲にたくさんあった。
一方、明治10年(1877)の西南戦争で城はもとより、城下町も焦土と化した熊本には、すでに古き良き日本の面影は希薄だった。また、天守をはじめ主要な建物が焼け落ちた熊本城には、陸軍第六師団の司令部が置かれ、市内にはいつも兵隊があふれていた。そういう熊本が、ハーンには耐えられなかったようだ。
■たった3年で神戸に転居
熊本に転居してちょうど2年がすぎた明治26年(1893)11月17日、夫妻は待望の第一子を授かった。長男の一雄である。その5カ月後、夫妻は小さな一雄をともなって、金毘羅宮(香川県琴平町)にお参りした。
しかし、そのことを報告した西田宛の手紙は、次の言葉で結ばれている。「熊本が日本であるとは全然思われない。
熊本は大嫌いだ」。
ハーンの熊本在住時に第五高等学校の校長だったのは、柔道家として名高く、「日本の体育の父」とも呼ばれた嘉納治五郎で、ハーンは英語も流暢な嘉納について、「一度会っただけで、久しい友であるかのような気がする」と、西田に書き送っている。だが、嘉納はハーンにとって、熊本におけるかなり例外的な存在だったようだ。長谷川洋二氏は『八雲の妻』(潮文庫)に、次のように書いている。
「ハーンの熊本への嫌悪はすぐにも、学校の同僚たちとの感情的な軋轢に発展する。東京・横浜での夏休みを挟んで、それは、感じやすく激しやすいハーンの側で、極限に達した。十月上旬、熊本での生活は破綻を来たし、一家を引き連れ、逃げるように神戸に移る」
■決してムダな3年間ではなかった
ハーンとセツが3年ほど暮らした熊本を離れ、金十郎とトミも一緒に神戸に移ったのは(万右衛門は松江に帰った)、明治27年(1894)10月のことだった。
実際、ハーンの熊本嫌いは極限に達していたようで、それが日本嫌いにまでつながろうとしていた。西田に宛てた手紙にも、「日本人を理解できると信ずる外国人は、何と愚かであろう!」とまで書き、「地獄であるものを天国であると思い込んでいたのです」というのが、日本に対する感想になっていた。
とはいえ、現実には「神々の国の首都」たる松江だけが日本なのではない。小泉凡氏はハーンについて、「この時期、軍都として勢いを増していく熊本で暮らしたおかげで、『明治の日本』という近代国家の現状が、少し冷静に見えるようになった面があります」と書く(前掲書)。
松江とハーンの生誕地であるギリシャのレフカダ島は、自然条件がよく似ているといわれる。
だからハーンは、日本という異文化を故郷と同一視した面があるようだが、それだけなら、ハーンの日本観はロマンティックな幻想で終わってしまう。その意味では、熊本でいだいた違和感は、ハーンの日本観が地に着いたものに成長するために、必要だったのかもしれない。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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