■寧々はどんな人物だったのか
北政所(おね)は天下人・豊臣秀吉の妻(正室)として有名な女性です。大河ドラマ「豊臣兄弟」では、おね(寧々)を浜辺美波さんが演じています。では、実際のおねとはどのような女性だったのでしょうか。
おねがいつ生まれたかについては諸説あります。おねが亡くなったのは『大猷院殿御実紀』によると、江戸時代初期の寛永元年(1624)9月6日なのですが、そこには彼女が何歳で亡くなったかは記述されていません。
しかし、江戸時代後期の寛政年間に徳川幕府が編修した系譜集『寛政重修諸家譜』(浅野家系譜)には亡くなった月日と共に没年を「年八十三」と記載しています。そしてその注記には「寛永の木下系図に七十六」とあると記述されているのです。江戸初期の寛永年間に成立した木下家系図にはおねは76歳で亡くなったと記載されていたということです。
寛永元年(1624)におねが76歳で亡くなったのならば彼女は天文18年(1549)の生まれということになります。一方、83歳で亡くなったならば天文11年(1542)に生まれたということになるでしょう。秀吉の生まれは天文6年(1537)ですので、前者ならばおねは秀吉より12歳年下、後者ならば5歳年下ということになります。
■実母の妹が嫁いだ浅野家の養女に
さて、では、おねはどのような家に生まれたのでしょうか。おねの父親は木下(杉原)定利と言いました。『足守木下家譜』には「尾張国の住人、織田家の幕下、杉原常陸入道道松(助左衛門定利)」とあり、定利は尾張国の人で織田家に仕えていたことが分かります。定利は歴史の表舞台には姿を現さず、高台院の過去帳から没年を文禄2年(1593)とする見解もあれば、早くに亡くなったとする説もあるのです。
おねの母は杉原家利の次女(長女との説もあり)「朝日」殿と言いました。朝日殿は慶長3年(1598)に亡くなっています。定利と朝日の間に生まれたおねは後に織田家に仕えていた浅野長勝(「豊臣兄弟!」で演じるのは宮川一朗太)の養女となります。長勝の妻は七曲殿という女性であり、七曲殿の姉は朝日殿、つまりおねの実母でした。
■実母は秀吉との結婚に猛反対
さて、おねは織田信長(小栗旬)に仕えていた秀吉と永禄4年(1561)に結婚することになるのですが、秀吉との結婚については一悶着あったようです。周囲の反対があったのです。特におねの母・朝日殿は娘(おね)と秀吉の結婚を「野合」(周りの反対にもかかわらず、密かに結ばれている。
しかし、朝日殿は単に野合だから2人の結婚に反対した訳ではなく、同書によると「秀吉公の卑賤を嫌たまひて」(秀吉の出自が卑しいことを嫌い)、結婚に反対していたということです。ご存知のように秀吉は武家の出身などではなく、尾張の貧しい百姓の生まれです。そんな男と娘が結婚して良いのかと朝日殿は考えていたということです。実母の猛反対に遭い、おねも困惑したことでしょう。
そこに助け船を出したのが、朝日殿の妹でおねの養母である七曲殿とその夫・長勝でした。長勝夫婦は「秀吉は卑賤ではあるが、聡明さと勇智(勇気と智慧)はなかなか凡人の及ぶところではありません。英雄の天質(素質)が備わっているので、このような乱世においていつまでも下位にいるような人物ではない。程なく立身しましょう。朝日が結婚を許さないならば、私たちの養女として結婚させたい」と言い、朝日殿を説得したのです。
■婚姻が成立、秀吉は浅野家に感謝
朝日殿は折れました。ここにおねは浅野長勝の養女となったのです。
さて『太閤素生記』(江戸幕府の旗本・土屋知貞がまとめた秀吉の伝記、聞書)には、秀吉とおねの結婚の様が簡略に記述されています。2人が祝言を挙げたのは浅野長勝の長屋であり、その長屋は茅葺であったといいます。藁を敷いた上に薄縁(布で縁どった茣蓙)を置いて祝言をしたと後年、おねは戯言のように語っていたということです(『太閤素生記』)。遠い昔の秀吉との祝言のことをおねは懐かしく思い起こしていたのでしょう。
秀吉とおねは「恋愛結婚」だったとする見解もありますが、秀吉と結ばれた時、おねはまだ10代前半。今で言うとまだ小学校高学年の年齢です。12歳も年上の秀吉に憧れの感情はあっても、激しい恋心を抱いていたかは疑問と言えます。
■恋愛結婚ではなかった説
秀吉とおねの結婚については異説もあります。おねの手習いの師匠・養雲院の夫「因幡守」(名古屋敦順のこと。
さて、浅野夫婦の予言通り、秀吉は織田家において出世していきます。天正元年(1573)、秀吉は信長から北近江三郡を拝領し、ついに大名となったのです。秀吉の主君・信長もまた天正4年(1576)には豪華絢爛な安土城の築城を開始します。その頃、おねは安土の信長のもとを訪れていました。信長がおねに宛てた書状からその事が分かるのです。
■信長もほめた「見目かたち」
おねは信長にさまざまな土産を持参していたようで、書状の中で信長は「特に色々の土産の美しさ、中々、目にも余り筆にも尽くし難い」と土産の内容を絶賛しています。信長はおねへの祝儀も考えますが「その方(おね)よりの見事な物に対して志が尽くせないので、今回はやめておき、今度、参った時に尽くしたい」と述べ、お返しはしませんでした。
それはさておき、信長は次に「藤吉郎(秀吉)が繰り返し、その方に不足があるというのは言語道断、曲事だ」と書状に書いています。どうやら秀吉はどこまで本気かは分かりませんが、信長に妻・おねの不満を度々述べていたようです。それを信長はけしからんと言い、おねの肩を持つのでした。「どこを探してもその方ほどの者は二度とあの禿げ鼠(秀吉の渾名)が得るのは困難だ」とまで信長は述べ、おねが素晴らしい女性であると持ち上げるのです。信長はその上で「これ以降は品行を正して、かみさま(上位者の妻)らしく重々しくして、悋気(男女間の嫉妬)に関わるのはよくないことだ」とおねを諭しています。
■実際の寧々も美人だった?
秀吉には当時、側室の南殿、そして秀吉と南殿との間に生まれた子・石松丸がいました(石松丸は天正4年10月に死去)。一方、秀吉とおねの間には子はいませんでした。おねやその周囲の女性たちが秀吉の子を持つ南殿に嫉妬心を抱いていたとしても不思議ではありません。おね派と南殿派で冷戦が繰り広げられていた可能性もあります。
信長は秀吉の言葉からそうした状況を知り、書状において「品行を正して、かみさま(上位者の妻)らしく重々しくして、悋気(男女間の嫉妬)に関わるのはよくないことだ」との言葉をおねに与えたと推測されます。「かみさまらしく堂々としていよ」との信長の言葉におねは救われたのかもしれません。
若い頃のおねの容姿について詳しいことは分かりませんが、信長が容姿を褒めていることや(もちろん信長は書状においておねを持ち上げた上で諭すことが目的であり、どこまで本心を述べているかは分からない)、女好きで知られる秀吉がおねに一目惚れしたとの逸話も残っていることから、美しい人だったのではないでしょうか。
・参考文献
田端泰子『北政所おね』(ミネルヴァ書房、2007年)
福田千鶴『高台院』(吉川弘文館、2024年)
福田千鶴『豊臣家の女たち』(岩波書店、2025年)
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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
歴史研究者
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(歴史研究者 濱田 浩一郎)

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