信長は当初、秀吉よりも秀長を厚遇した。なぜか。
歴史家の磯田道史氏は「ひとつは体格だ。秀長が抜擢された信長の親衛隊である馬廻衆は、小柄な秀吉には向いていなかったのだろう。とはいえ、秀吉は織田家で『使える男』として知られていた」という――。(第1回)
※本稿は、磯田道史『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)の一部を再編集したものです。
■史料に残る秀吉のあまりに“生々しい”就活
尾張に戻った秀吉は、織田信長のところで小者(こもの)奉公を始めます。その時期には諸説がありますが、18歳で戻ったとすると、それから程なくして織田家に仕えたと考えられます。
一次史料ではありませんが、竹中重門(しげかど)という武将が寛永8(1631)年に書いた『豊鑑(とよかがみ)』という回想録があります。
竹中重門の父は、あの竹中半兵衛(重治)で、近江(いまの滋賀県)攻めから三木合戦の最中に病没するまで、秀吉の「参謀役」でした。その嫡男の重門の回想記です。
重門は天正元(1573)年生まれです。半兵衛の子として幼時から、秀吉自身や周辺が語る戦(いくさ)語りを直接耳にできた立場です。
父子とも秀吉軍の中枢にいた同時代人の証言ですから、後年の回想とはいえ、大久保彦左衛門『三河物語』と同様、吟味すれば、参考にしてよい史料です。

『豊鑑』には、秀吉がどうやって信長に仕えたかという、いわば就職活動の生々しい様子が描かれています。
■散歩コースを特定する驚愕の調査力
秀吉は〈いかにもして宮仕えばや〉、どうにかして信長に仕えたいと思ったのだけど、〈かくいうべくたつきもさらになかりければ〉、取り立てて言うほどの人脈、手づるもない。
すると、信長が川沿いの道を逍遥(散歩)して帰る途中で、「宮仕えの望みあんなると高く宣(のたま)」った。信長は馬に乗っていたと思われますが、おそらく秀吉は信長の散歩コースを調べて、ここなら声が届きそうだという直訴に適した場所で待ち構えていたのでしょう。
そこで「信長さまに仕えたいー。宮仕えの希望がありますー」と大声で叫んだのです。すると、信長が「我に仕えんや。いかさま思うところもありなん」、お前、俺に仕えたいのか、と応じた。
「少し考えるところもある」と言ったと書かれていますから、信長は最初から、この猿に似た子は何かに使えると直感したのでしょう。
他の史料によると、友達のがんまくという男が先に織田家で使われていて、そのつてを頼ったとの説もありますが、この「川の堤に立って大声で仕官を願ったそうだ」という話は、いかにも秀吉らしいと、織田家中や、後の家来たちの間でも、語り伝えられてきたのかもしれません。
■「草履温め」に象徴される異常な賢さ
あるいは、秀吉が楽しく側近に語っていた話で少し盛ってある可能性もあります。現代でも、入社試験で奇抜な回答をしたといったエピソードは、社内で後々まで語り草になったりしますが、秀吉もそうで、入った時から名物男になる資質があったわけです。

秀吉の下働き時代のエピソードとしては、信長の草履を温めた話が有名ですが、この『豊鑑』では、信長がしょっちゅう鷹狩に出るのに、秀吉は〈一日も怠らず、藁沓(わらぐつ)を、われととりはくようにて物せしが〉とあります。いつも自分の身から離さないような様子で仕えた、と。
そして、〈賢さ、人に勝(すぐ)れぬれば、次第にときめき出で、従者(ずさ)などを持て、木下藤吉郎となん呼ばれし〉と、とびぬけて賢いことが分かってきて、寵愛を受けるようになり、木下藤吉郎という一人前の武士として、従者も持てるようになった、というわけです。
秀吉の存在が一次史料の文書として確認できるのは、かなり後の永禄8(1565)年11月2日になります。坪内利定(としさだ)という武将に知行を安堵した書状で、「木下藤吉郎」と副署しています。
このとき秀吉は29歳ですが、織田家の家臣として、それなりの働きをしていたことがわかります。
■誤字を厭わず「即レス」を貫く実務力
また永禄年間には、秀吉は細々とした事務を精力的にこなし、あちこちに手紙を書いているのですが、秀吉の手紙には誤字、当て字が多い。権威ある醍醐寺の「醍(だい)」がわからぬ書記には「大」と書かせて、素早く書状を出すのです。大納言でさえ「大なんこ」と秀吉は書いています(桑田忠親『太閤書信』)。
秀吉は形式にこだわりません。スピードにはこだわりました。漢字は書きたがらず、ひらがなが早く書けるので好きでした。
御膳は「五(ご)せん」と書くクセがありました。
信長が桶狭間で今川軍を破ったのが永禄3(1560)年5月のこと。ここから信長は尾張を統一し、美濃(いまの岐阜県南部)を平定して、永禄11(1568)年の9月には足利義昭を擁立して京都へ歩を進めます。
すると、織田の勢力圏が広がるにしたがって、大量に家来が必要になるわけです。
その人材をどこからリクルートするかといえば、まずは親類縁者に声をかける。弟やいとこ、その友だちと、とにかく伝手(つて)をたどって人を集めるほかない。戦後まもなく急速に業務拡大した昭和の企業と同じです。
秀長が織田家に仕えるようになった時期は、まさに織田家の高度成長期だったと考えられます。
■兄より弟のほうが「好待遇」だったワケ
その秀長が初めて歴史上に登場するのは、天正2(1574)年7月、伊勢長島(いまの三重県桑名市)の一向一揆です。『信長公記(しんちょうこうき)』によると、信長の馬廻(うままわり)として「木下小一郎」が登場するのです。
実は、ここが面白いところで、馬廻衆といえば、信長の親衛隊、旗本に当たります。雑役従事の小者奉公から出発した秀吉よりも、秀長のほうが待遇がいいのです。

この違いには、もちろんすでに兄である秀吉が織田家で「使える男」として知られつつあったことも大きく作用しているでしょうが、秀吉と秀長の父の違いが反映しているのではないでしょうか。
秀吉の父弥右衛門は織田家の足軽とされていますが、足軽の多くは領民のアルバイトです。対して、秀長の父竹阿弥は同朋衆として主君の身の回りで雑事をこなす存在です。
秀長が織田家に就職しようとしたとき、父の奉公歴で縁故が良かったかもしれません。
馬廻衆は、それなりの体格と身体能力がいります。秀吉は多くの史料に「小柄」とあります。一般的な武士の体格よりも小さかったことは間違いないでしょう。
■信長が「長」の字を許したエリート性
一方、秀長については、体格の情報はありません。「史料に書かれていない」のも実は重要で、もし秀長が小柄な人だったら、「兄弟そろって小さい」といった証言が残されたでしょう。そう考えると、秀長は特筆される体格ではなかったのかもしれません。
もうひとつ、秀長が厚遇されていたと考えられる理由は、その名乗りです。実は秀長は、はじめ長秀と名乗っているのです。

先の『信長公記』の記述から1年後の天正3(1575)年11月11日付の文書で、羽柴小一郎長秀という署名が登場します。
ちなみに秀吉は元亀4(1573)年7月20日に、木下から羽柴に姓を改めていました。
この「長秀」が非常に重要なのです。というのも、織田家において、信長の「長」を勝手に名乗ることはできません。信長が小一郎に「長」の一字を使うことを許したと考えるのが自然です。
もちろん、長秀の「秀」は秀吉の「秀」です。信長の「長」が上で、秀吉の「秀」が下という序列も、この名前には込められています。
■名前を入れ替え「織田超え」を演出
では、いつ長秀は秀長となったのか。これも非常に面白い。時は下って天正12(1584)年9月、小牧・長久手の戦いの最中なのです。
よく知られるように、この戦いは秀吉と、徳川家康と信長の次男である織田信雄(のぶかつ)の連合軍との戦いでしたが、ここで初めて「美濃守 秀長」と署名しています。
この改名には秀吉の明確な意向が込められていると思います。
織田家由来の「長」と羽柴家の「秀」を入れ替える。それによって、「もう俺たち(羽柴家)は織田家の下には立たないぞ」と宣言した、とも考えられるのです。
翌年、秀吉は従一位(じゅいちい)関白になって信長の官位をこえました。信長は正二位(しょうにい)右大臣です。
このように、秀吉の政治発想力はすごい。信長より上だと、弟の名前を変えて天下に広告したのです。
天下の武将たちが、秀吉と家康・信雄のどっちが勝つのか注目しているときに、これをやりました。実際、天正12年の11月に織田信雄から和睦を求め、家康とも和議を成立させて、小牧・長久手の戦いは終わります。

----------

磯田 道史(いそだ・みちふみ)

歴史家

1970年生まれ。歴史家。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。国際日本文化研究センター教授。『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞受賞)、『天災から日本史を読みなおす』(日本エッセイスト・クラブ賞受賞)、『日本史を暴く』『徳川家康 弱者の戦略』など著書多数。

----------

(歴史家 磯田 道史)
編集部おすすめ