なぜ豊臣秀吉は天下をとれたのか。歴史作家の河合敦さんは「要因の一つに、数多くの有能な武将をスカウトしたことがあげられる。
そこには、秀吉らしい時流の読みと、巧妙な人心掌握があった」という――。(第1回)
※本稿は、河合敦『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。
■秀吉が優秀な人材を集めた意外な方法
戦国武将のなかで、最も多くの勇将をスカウトしたのは、間違いなく豊臣秀吉であろう。庶民出身ゆえ、織田信長や徳川家康のように譜代(代々、臣下として一つの主家に仕える家系)の家臣を持たない秀吉は、一から家臣団をつくらなければならなかった。
長浜(滋賀県長浜市)城主になった頃から、秀吉は家族だけでなく親戚、さらに妻・ねねの一族まで、かたっぱしから家臣に取り立てていった。豊臣政権を樹立する頃には、彼らはいずれも自身の領地を持ち、大名へと成り上がっていた。だが、それでも部下が足りない。そこで手っ取り早く、諸大名の家臣団から有能な人材をスカウトしたのである。
有名なのが、軍師の竹中半兵衛を迎えたときの逸話。劉備玄徳が諸葛孔明を迎えるに際し「三顧の礼」を以(もっ)てした『三国志』の故事にちなみ、たびたび半兵衛のもとを訪ねては、部下になってほしいと懇願し、了承させたという。ただ、これは後世の『太閤記』などに出てくる話なので、信憑性に欠ける。
■ライバル家康の忠臣を強奪
史実として有名なのは、家康の重臣・石川数正の例だ。
天正13年(1585)11月13日、岡崎城(愛知県岡崎市)代(留守居)の数正が城から出奔し、秀吉のもとへと走った。石川氏は有力な徳川の譜代大名であり、数正は西三河(現在の愛知県中部)の旗頭、すなわち徳川正規軍の片翼を担う最高司令官だった。しかも、かつて織田・徳川同盟の締結に尽力し、今川家の人質になっていた松平信康(家康の長男)を取り戻し、長篠の戦いで織田軍の支援を取りつけた人物。まさに徳川一の功臣だった。
翌日、家康は岡崎城へ駆けつけたが、すでに数正は妻子や家臣を連れて逃げたあとで、城はもぬけの殻だった。家康の動揺は激しく、不安だったのだろう、最前線の信州小諸(長野県小諸市)を守っていた大久保忠世に、すぐに戻るよう催促している。
重臣の水野忠重も時を同じくして徳川家を去り、秀吉に臣従している。数正と示し合わせての行動だった。
■秀吉の策略の可能性も
小牧・長久手の戦いで激突して以来、形式的な和議を結んだとはいえ、徳川家康は豊臣秀吉に反目して上洛要請に応じず、冷戦状態が続いていた。そんなおりに秀吉が石川数正らを引き抜いたのだ。数正は徳川の軍法を熟知していたので、憂えた家康は、武信玄の旧臣を召して軍法を武田流に改めざるを得なかった。
数正が秀吉のもとへ走った理由はよくわからないが、一ついえることは、秀吉に接する機会が最も多かった徳川家臣が数正だったことだ。

賤ヶ岳の戦いの勝利を祝う家康の代理として訪ねたのも、小牧・長久手の戦い後の講和交渉を担当したのも数正だった。だから、秀吉の魅力と偉大さは身に染みて感じていたはず。そのため数正は、家康に上洛して臣従するよう説いたらしい。
しかし、家康はこれを拒み続けた。そのうち数正は、同僚たちから「豊臣に通じているのではないか」と疑いの目で見られるようになった。しかも、その噂を耳にした秀吉が、わざと公の場で数正の人としての器を褒め称え、十万石を与えても惜しくはないと、声高に語ったという。
こうして肩身が狭くなった数正は、家康を見限り、秀吉を頼らざるを得なくなったのだろう。これが秀吉の策略だったとしたら恐ろしい。
■123万石→4万石にして家臣を奪う
有能な人材を手に入れるため、豊臣秀吉は非情な手段を使うことも多かった。本能寺の変後、織田家の宿老・丹羽長秀は秀吉に味方してくれたので、これに報いるため越前(現在の福井県北東部)・若狭(現在の福井県南西部)・加賀(現在の石川県南部)など合わせて百二十三万石の支配を認めた。
だが天正13年(1585)に長秀が死去し、14歳の長重が家督を相続すると、秀吉はさまざまな難癖をつけて次々と長重の領地を削り、とうとう四万石にまで転落させた。しかもその間、丹羽氏の重臣である長束正家、戸田勝成、溝口秀勝、村上頼勝、上田重安などを自分の家来にしてしまったのである。
なんともえげつないスカウト方法だ。
ところで、秀吉にスカウトされた石川数正だが、彼は八万石の大名に抜擢され、さらに十万石に加増されたという。このように秀吉の場合、“移籍”後の待遇が破格だったから、なかには自分から主家を乗り換えて豊臣に仕えた武将も多い。
たとえば、筑後柳川(現在の福岡県柳川市)城主・立花宗茂は大友氏の家臣だったし、黒田官兵衛は小寺政職の重臣だった。島津義久の一門だった伊集院忠棟も秀吉に臣属している。
■「政権を安定させる」スカウトとは
彼らを、倫理観のない卑怯者だと見るのは間違いだ。繰り返しになるが、「二君に仕えず」といった武士道は、藩主の絶対制が確立した江戸時代に確立した考え方。戦国時代は下剋上の世であり、無能な主君であれば家臣は容赦なく見限ったし、あるいはこれに取って代わった。
もちろん、良い奉公先へ移ることは珍しい話でも、非難される行為でもなかった。ひとかどの武将たるものは皆、現実に満足せず、己を最大に評価し、活かし切ってくれる主君の存在を探していたのである。極言すれば、その機微をよく把握していたからこそ、秀吉は天下人になれたともいえるのだ。
なお、秀吉は天下人になった頃から、他大名の重臣たちをスカウトするふりをして自らの政権を安定させるという、なかなか手の込んだ手法を用いるようになっている。

その対象になったのは、徳川家康の家臣である本多忠勝や大久保忠世、伊達政宗の重臣・片倉小十郎景綱、上杉景勝の参謀・直江兼続、島津義久の猛将・新納忠元、細川藤孝の一門格・松井康之らである。
■秀吉の口説き文句
秀吉は堂々と彼らに「家臣にならないか」と勧誘しているのだ。皆、申し出を固辞するが、天下人に声をかけられたということは、逸材と認定されたことを意味する。当然うれしいだろうし、秀吉に対して好感を抱くことになる。つまり、諸大名家の支柱たる人物を籠絡し、敵中に味方をつくり、自らの政権を維持しようとしたのだ。
たとえば秀吉は、家康を東海地方から関東へ移封した際、「大久保忠世は勇将だから四万五千石を与えて小田原城を守らせよ」と命じている。また、上杉景勝を会津(現在の福島県西部)百二十万石に加増移封したおり、「直江兼続に米沢(現在の山形県南部)三十万石の地を与えろ」と述べた。このように他家の人事に干渉してまでも、大名の重臣を優遇したのである。
そこまで自分を買ってくれた人間に、感謝しないはずがない。事実、兼続は秀吉亡きあと、豊臣家を守るために家康と敵対するよう、上杉家を誘導している。
まことに巧妙な、秀吉の人心掌握術といえよう。

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河合 敦(かわい・あつし)

歴史作家

1965年生まれ。
東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史作家 河合 敦)
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