※本稿は、磯田道史『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)の一部を再編集したものです。
■秀吉秀長が天下を狙うきっかけになった「天空の城」
天正5(1577)年10月、秀吉・秀長は但馬に攻め入ると、竹田城(いまの兵庫県朝来(あさご)市)を落とし、秀長が城代となります。
『信長公記(しんちょうこうき)』には、竹田城を落とした秀吉が「普請申しつけ」、大規模な城の工事を命じた、とありますから、現在、「天空の城」で知られ、多くの観光客を集めるあの美しい山城は、秀長が手掛けた可能性があります。
現存する竹田城は、天正13(1585)年に赤松家が建てたとされていますが、発掘調査では、階段なども全面張りの石畳となっていたことが分かりました。石垣を積む技術は豊臣家の得意技です。
この竹田城を得たことが、秀吉・秀長にとって決定的に重要でした。それはこの城が近くにある生野銀山の警備の拠点だったからです。
生野銀山を押さえることで、秀吉は天下を狙うことが可能になった、といっても過言ではありません。
これには、戦国大名の財政構造を踏まえておく必要があります。大名たちの経済基盤といえば、まずは領地です。そこから上納される年貢が財政を支え、そこに暮らす領民たちは労役を課したり、足軽として動員したりする人的資源でもあります。
■戦国大名はとにかく銭がいる
しかし、たとえば毛利家百十万石といいますが、毛利家の当主が持っている領地自体はそんなに大きくはありません。家臣たちに分け与えなくてはならないからです。
「毛利領」といっても中身は大半が家臣団に配分された土地なのです。
これは兵力についてもいえます。戦国大名とは、家臣団の連合体です。家臣たちはそれぞれ兵を養い家臣団をもっており、それが集合して「武田軍」や「上杉軍」を形成しているのです。
戦国大名は自領の年貢だけでは戦争には勝てません。銭が要ります。ことに鉄砲が普及すると、鉄砲や弾薬などを買い付けなければなりません。
秀吉が得意とした戦場での土木工事にも、「銭」が要ります。そうした軍費は、武将自身が身銭を切るほかありません。
その資金は、どこから調達するのか。
■信長が秀吉に贈った2つのご褒美
そして、もうひとつが鉱山でした。たとえば毛利家の強さを支えていたのは、尼子(あまご)氏との戦いに勝利して、永禄5(1562)年に手中に収めた石見銀山の銀にほかなりません。毛利元就はわざわざ遺言にも、石見銀山を死守し、軍資金とせよと書き残しています。
当時、生野銀山は石見と並ぶ、日本有数の銀山でした。秀吉・秀長が竹田城を落とし、生野銀山を押さえると、信長はこれを自分の直轄地にします。
この時期、生野銀山関連の文書を見ると、秀吉は自ら信長への銀の上納を担当し、秀長は竹田城城代として、生野銀山に接近する敵を打ち払うガードマンの役割を担っていました。
三木城を落とした秀吉に、信長は二つのプレゼントを与えます。
ひとつは、茶会を開く権利でした。たかがお茶というなかれ、これは信長の「御茶湯御政道」と呼ばれる家臣統制政策でした。
信長は功績をあげた家臣に茶道具を与え、さらに貢献を認めた者にだけ「御茶之湯」、すなわち茶会開催を許しました。
お茶は信長の信頼の証であり、家臣団のランキングを明示するものだったのです。事実、秀吉より先に茶会を許されたのは、嫡男である織田信忠、明智光秀などごく少数でした。
■なぜ高松城の水攻めができたのか
しかし、秀吉にとって茶より嬉しかったと思われるプレゼントが生野銀山です。信長は秀吉に生野銀山の上りを与えたようで、秀吉は莫大な独自財源を手にしたのです。
生野銀山を手にしたのち、天正10年4月には、秀吉は難攻不落とされていた備中(びっちゅう)高松城を包囲し、有名な水攻めを行います。
5月のはじめから堤防工事を行い、わずか2週間足らずのうちに完成させると、城内まで浸水した高松城は兵糧を絶たれ、6月4日に落城しました。
このとき、秀吉は土囊(どのう)一俵に付き銭百文、米一升という超高額報酬で、人を集めたという言い伝えが後世にあるほどです。
20カ月かかった三木城攻めと、1カ月余りで終わった高松城攻めで、何が違ったのか。その答えのひとつは、生野銀山です。
高松城の水攻めに要した膨大な戦費は、生野銀山からの収入によるものが大きかったに違いありません。お金がなくては天下は獲れません。秀吉が天下を獲れたのは、この生野銀山をおさえていたのも一因でしょう。
■支配の条件は「治安維持」と「判の徹底」
このように「銭」に着目して、秀長の文書をみていくと、なかなか興味深いことが書かれています。
たとえば但馬の山口郷の「百姓中」にあてた文書をみてみましょう。日付は5月4日付、年代は不明です。
〈壱所へ奉公人進入、悪党仕(つかまつり)候由候、搦捕可令(せしむべく)注進候、隠置候者、其在所之百姓共、悉(ことごとく)可令成敗候、自然(おのずからしかり)用儀於(おいて)在之者、我等墨付(すみつき)にて可申付(もうしつく)候〉
まずは、「奉公人」、秀長の支配下で武家奉公していた者が侵入して、悪いことをしたとのことだが、搦め取って「注進せしむべく候」、こちらに連絡してほしい、匿う者があれば、山口郷の住人でもことごとく「成敗」する、殺します、と書かれています。
これは悪いことをした者は秀長が責任をもって処罰する、という治安の維持を約束したものです。
そして「我等墨付にて可申付候」、秀長の判のあるものだけが命令として効力を持つ、と定めています。
■宿泊料にみる豊臣兄弟の経済センス
普通の武将からの書状ならば、これでおしまいです。秀長の面白さは「次」と記された後半部分にあります。
〈次誰々成共、宿をかり候者、一人ニびた五文、馬一ツニ十五文宛取可申候、令用捨候ハゝ、曲事(くせごと)候也〉
次に誰でも、宿を借りた者からは一人当たり五文、馬一頭あたり十五文徴収せよ、というのです。
用捨して無料で宿泊させたら、「曲事」、けしからぬことなので罰する、と税的な宿泊費徴収のすすめです。
山口郷は生野銀山に近い、但馬と播磨を結ぶ宿場です。当時、宿場が栄えてとりやすい税は、家一軒あたりに課税する棟別銭(むねべつせん)でした。
このような文書は多くはありません。私はこうした儲けの着眼に、他の武将とは異なる、豊臣兄弟の経済センスを感じます。
単に命令を徹底させ、治安を回復するだけではなく、金稼ぎにも結び付ける発想があるのです。
秀長は「奈良借(ならかし)」と呼ばれるローンをおこない、莫大な資産を形成します。その端緒は、但馬時代からすでに現われていたといえるでしょう。
■「鮎を獲る権利」という絶妙なボーナス
もうひとつ、非常に面白い秀長文書を紹介しましょう。天正8年5月15日付で、但馬を流れる円山(まるやま)川沿いの市左衛門ほか3名にあてたものです。
〈今日十五日より、於何方ニも、あゆ取可申候、不可有異儀候、次誰ニあミをかり候共、かし候ハハ可為(なるべく)曲事候、此四人之外之者召つれ候事、不可有□、仍如件(よってくだんのごとし)〉
今日、5月15日から、(あなた方4人は)どこで鮎を取っても構いません。その鮎漁に対して「異儀あるべからず」、誰も邪魔をしてはならない。次に、鮎を取る網を誰に借りてもいいが、誰かに網を貸すことは「曲事なるべし」、貸してはいけない。4人以外の者を召し連れて漁をするのもいけない、としています。
つまり、4人の者に特権として鮎漁を許可しているのですが、興味深いのは、鮎を取ることができるのはこの4人だけ、という点です。
つまり彼ら4人が、ほかの誰かに鮎を取っていいよ、と許可する権利は与えていません。鮎漁を許可できるのはあくまで秀長1人なのです。
■「網を貸すな」に宿る現場のリアリティ
この鮎漁を許された4人は名字もないことから、足軽などとして参戦し、個人的に手柄を立てた人たちかもしれません。
その功績は、領地を与えるほどではないけど、何かを与えたいと考えると、「鮎を取る権利」という絶妙な報酬を与えています。
与えても、秀長の損にはあまりなりません。一方、貰った者の喜びは大きいでしょう。
出世する人は自分には損がないが、人が喜ぶものを思いついて与える才能をもっているものです。鮎を取って売れば、結構な収入になるでしょう。
さらに秀長の特徴といえるのは、事前に起こりうる事態を想定して、具体的に指示を下していることです。
彼らが網を持っていなかったら困るだろうから借りるのはいいけれども、網を貸したり、他人を漁に連れてきたりするのはダメ。このリアルな想定力は、いかにも現場を知る者という感じがします。
おそらく長い農村での生活のなかで、こうした権利の線引きが、どのように効力を発揮するか、よくわかっていたのでしょう。
■銭儲けのアイデアを与え尊敬を集めた
私はここにも、豊臣兄弟らしさを感じます。彼らには当然、もともとの家臣はいません。では、どうやって自分たちのために働いてくれる人々を集めていくか。
そのキーワードは「ギブ・アンド・テイク」であり、「知恵の分配」です。
何かをしてもらったら、それに対して、相手が満足するような、もらったものに見合う、あるいは上回る報酬やサービスを与える。お得な知恵を与える。それによって人心を掌握し、忠誠心を高めていったのです。
そのとき、豊臣兄弟が提供したのは、銭や領地だけではありません。
彼らは「銭の儲け方」のアイデアをすぐに思いつく天才でした。そして、その知恵を、自分たちについてきてくれた人々に分け与えたのです。
アイデアは低コストのプレゼントです。与えれば尊敬が返ってきます。豊臣兄弟はそれで天下に近づいたのです。
本能寺の変までに、秀長が残した手紙はわずか20通。その内容もほとんどは断片的なものばかりですが、そこからだけでも、彼ら豊臣兄弟の特異な才能、そして彼らが置かれた時代状況がうかがえます。
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磯田 道史(いそだ・みちふみ)
歴史家
1970年生まれ。歴史家。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。国際日本文化研究センター教授。『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞受賞)、『天災から日本史を読みなおす』(日本エッセイスト・クラブ賞受賞)、『日本史を暴く』『徳川家康 弱者の戦略』など著書多数。
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(歴史家 磯田 道史)

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