本能寺の変という未曾有の事態を、秀吉はどう捉えていたのか。歴史家の磯田道史氏は「残っている書状を見るに、秀吉は主君・信長の死を、即座に自身の飛躍のための天与のチャンスだと捉えていた。
天下人になったのもうなずける、状況の適確な見定めといえる」という――。(第3回)
※本稿は、磯田道史『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)の一部を再編集したものです。
■秀吉を覚醒させた信長からの「重荷」
信長と秀吉の関係をみていると、経団連の会長だった土光(どこう)敏夫さんが唱えていた「重荷主義」を連想します。
土光さんは「私の履歴書」で、「私はだいたい、人は能力以上に働かなければならないという重荷主義を信奉する。その人が100キロのものが持てるとすれば、120キロのものを持たせ、120キロが持てれば、140キロを持たす。(略)人間尊重とは、ヘビー労働をかけ、その人の創造性を高めることだ」と書いています。
いま読むとちょっとパワハラっぽくも感じられるかもしれませんが、まさに秀吉・秀長の兄弟は信長による「重荷」によって、異常な進化を遂げたと言えるでしょう。
秀吉が「中国大返し」で毛利に背中を向けて京都に戻っていったとき、なぜ信長の死を知った毛利が秀吉を追撃しなかったのかがよく論じられます。
「追撃しようとする吉川元春に対し、小早川隆景が止めた」といった説もありますが、現実問題としては、この時の毛利家には、秀吉を追撃する意図も理由も能力もなかったと考えられます。
■毛利が秀吉を追わなかったワケ
この戦いは、毛利家にとっては織田軍団の侵略に対する防衛戦争にほかなりません。
戦闘が一段落して、「ここからは入ってこない」という境界線が確定しました。消耗も激しく、上原元将のような身内の裏切りの可能性さえも残っていました。

このうえ、リスクの高い追撃戦を戦わなければならない理由は、毛利家にはなかったのです。
実際、高松城の講和の後、毛利家がやったのは、秀吉追撃ではなく家臣統制で、裏切り者への対策や処置でした。
親類のなかにも秀吉と通じた者が少なからず出ました。
裏切った上原元将ものちに変死していますが、家臣の結束と裏切り者の対策のほうが、毛利家にとっては急務だったのです。
天正10(1582)年6月13日、秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討ちます。秀吉が備中高松城を後にしてからおよそ9日しか経っていません。
秀吉軍のスピードのみならず、これほどの強行軍の後に決戦を行える戦闘力がいかに凄かったかがわかりますが、ここで注目したいのは秀吉の宣伝戦です。
■変の直後に放った“戦略的虚偽”の手紙
高松城を落とした翌日の6月5日付で、秀吉は摂津の中川清秀に対して書状を送っています(以下、書状の引用は『豊臣秀吉文書集』〔吉川弘文館〕に拠る)。
中川は、一時、荒木村重とともに信長に敵対しますが、その後再び織田軍団に加わっていました。
この書状は〈ただいま野殿(のどの)(いまの岡山市)まで打ち入り候のところ、御状披見(ひけん)申し候〉と始まります。
つまり、中川清秀から秀吉に書状が送られ、その返事を書いているわけです。
秀吉は次のように続けます。

〈ただいま京よりまかり下り候者たしかに申し候〉、京都より下った者の確かな話によれば、〈上様(信長)ならびに殿様(信忠)いずれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所(ぜぜ)が崎へ御退きなされ候〉。すなわち、信長も信忠も無事に難を切り抜け、近江膳所(いまの滋賀県大津市)まで逃れた、というのです。
もちろん、これは嘘です。
では、なぜ秀吉はこんな嘘の手紙を書いたのでしょうか。
■光秀側を孤立させた「嘘のディテール」
おそらく中川清秀は、本能寺で起きた変事を知り、織田軍団の中国方面指揮官である秀吉に、どうなっているのか、この後どうするつもりかを書状で問い合わせたのでしょう。
秀吉としては、明智を討つために、中川をはじめとする摂津衆を味方に引きつけておかねばなりません。
もし中川たちが、信長、信忠が死んだ、つまり光秀の叛乱が成功したと知れば、光秀側につくこともありえます。
そこで、信長公はまだ存命だ、というフェイクニュースを流して、秀吉側の陣営に引き留めたのです。
中川としては、信長が死んだと聞いていたのに、秀吉は否定して、京から確かな話が届いて信長様は生きているというのです。
これでは中川は光秀側につきにくい。もし光秀側に回ったあと、万が一、本当に信長が生きていたら、ただでは済みませんから、信長健在の情報は、摂津衆に相当な効き目があったはずです。

ここで秀吉が一味違うのは、この嘘情報に、〈福平左(福富平左衛門(ふくずみへいざえもん))三度突き合い、比類無き動にて、何事も無き由〉といかにもありそうなディテールを書き込んでいる点です。
■山崎の戦い以前に勝敗は決していた
織田の馬廻衆などを統率する福富平左衛門が敵を三度も打ち払い、比類ない働きをした、としたうえで、自分も城に帰るから、油断なく待っていてくれ、と。
もし後になって嘘だとわかっても、秀吉は「あのときは本当にそういう情報が入ったんだ」としらを切ればいいだけです。秀吉はなかなかズルい。そういう人が天下を獲ったのでしょう。
おそらく、この秀吉からの偽情報は、高山右近ら他の摂津衆にも広まったはずです。
結局彼らは明智討伐軍として、秀吉とともに山崎に向かうことになるのです。
それで、光秀の味方をする者はあらわれませんでした。
いきなり寝込みを襲って主君を討ったのですから、そもそも大義がないうえに、奇襲なので、事前に誰とも同盟工作をできていませんでした。
変のあと、光秀は必死になって、味方してほしいと各所に文書を書き送るのですが、ほとんど誰も応じません。
ともに足利将軍の近くで働き、縁戚関係も結んでいた光秀の“盟友”細川幽斎ですら、「信長様を弔うために髪を落として出家した」という手紙をよこして、逃げてしまいます。
つまり、山崎の戦い以前に、情報戦、外交戦において、光秀はすでに秀吉に負けていたのです。

■本能寺を「天与のチャンス」と定めた
秀吉の文書集を読んでいて興味深いのは、このあとも中川清秀とは、よく手紙を交わしていることです。
そのすべてが残っているわけではありませんが、6月10日付の中川への書状には、〈一両日無音候のところ、御状本望候〉とある。両日、すなわち1日か2日、音信がないだけで、心配になって、手紙が届いてよかった、と書いているわけです。戦を控えた武将のリアルな心情ですね。
そして、明石に着陣したことを、「昨晩、高右(高山右近)の飛脚にも書状を言い伝えた」とあるように、中川と秀吉側の陣営の間では飛脚が盛んに行き来していたことがうかがえます。
11日になると、秀吉は堺の代官で、本能寺の変の際には徳川家康の接待役をつとめていた松井友閑(ゆうかん)への書状で、〈明智め〉と呼び捨てにして、〈かの悪逆人、首をはね、鬱憤(うっぷん)を散らすべく候〉といいます。
光秀を討つのは〈天の与えたるべく候〉、天が与えたものだとしている。つまり、秀吉は明確に本能寺の変を、自身の飛躍のための天与のチャンスだと捉えていたことがわかります。
この状況の適確な見定め、新たな目標設定の早さも、秀吉の大きな特徴といえるでしょう。
■光秀の陣地に漂っていた「心理的防御」
秀吉軍は、四国攻めのための派遣部隊として大坂にいた織田信孝や丹羽長秀、そして信長の乳兄弟(ちきょうだい)(母が信長の乳母で、信長の父信秀の側室)でもある池田恒興(つねおき)らと合流し、いよいよ決戦の地、山崎に向かいます。
中川清秀や高山右近はすでに天王山(てんのうざん)のふもとを押さえて、相手側を包むように進撃を開始、池田恒興らが川手(右翼)に陣取ります。
秀長は黒田官兵衛らとともに山手(左翼)に配置されました。
いわば秀吉の直属軍といっていいでしょう。
これに対して光秀側は、猛将として知られた家老の斎藤利三らが先鋒をつとめ、光秀は恵解山(いげのやま)古墳を改造して本陣を据えました。
私は現地を訪れたのですが、光秀が非常に消極的だったことが見て取れます。
たとえば濠を古墳から約100メートル西側に掘っているのですが、当時の火縄銃の射程距離からすると少し遠すぎます。
弾に当たることを怖がっているとしか思えない布陣で、光秀の心理は相当に防御に傾いていたと思われます。実際、この墳丘からは変形した弾丸がたくさん出てきています。
■襲撃時、光秀は本能寺にいなかった
そもそも光秀は、信長襲撃の際にも、自分は本能寺に行っていません。
最近注目されている『乙夜之書物(いつやのかきもの)』という史料があります。これは江戸時代になって加賀藩(いまの石川県南部)の兵学者である関屋政春がまとめたものですが、これから紹介する話の出どころは、明智の陣にいた斎藤利三の息子の証言ですから、十分検討に値します。
それによれば、襲撃隊を指揮したのは斎藤利三で、光秀自身はかなり南の鳥羽(とば)(いまの京都市南区・伏見区)にいました。
鳥羽に陣取ることで、丹羽や池田ら大坂にいた四国派遣部隊が京都に来るのを防ぎ、また信長らを討ち漏らした場合の逃走ルートを押さえようとしたと考えられます。
つまり、光秀は自ら信長襲撃の陣頭指揮を執ったわけではないのです。

山崎の戦いでも、光秀の本陣はかなり後方で、先備えの斎藤利三が援軍を送ってくれといっても、なかなか送りませんでした。
もともと2万から4万の秀吉軍に対し、光秀軍は1万から1万6000と数的劣勢は初めから明らかで、光秀としては援軍を送りたくても送れなかった、というのが実状でしょう。

----------

磯田 道史(いそだ・みちふみ)

歴史家

1970年生まれ。歴史家。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程修了。国際日本文化研究センター教授。『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞受賞)、『天災から日本史を読みなおす』(日本エッセイスト・クラブ賞受賞)、『日本史を暴く』『徳川家康 弱者の戦略』など著書多数。

----------

(歴史家 磯田 道史)
編集部おすすめ