名鉄グランドホテル内レストラン日本料理「四季」で接客を担当する本田正枝さんは、85歳の今も11時から21時まで、週4日勤務するベテランだ。予約時の指名が絶えないほど顧客から愛され、同僚にも慕われている。
しかし「今が一番幸せ」としみじみ語るように過去には苦労の日々があった――。
■ピシッとした着物姿で働く85歳
名古屋駅近くにある日本料理店できびきびと配膳を行う着物姿の女性がいる。名鉄グランドホテル内レストラン「四季」で働く本田正枝さん(85)だ。着物を着た背筋はピンと伸び、朗らかな笑顔でお客さんを迎えていた。
「四季」は落ち着いた雰囲気の日本料理店で、会席料理や名古屋名物のひつまぶしなどを楽しめる。ビルの12階にありながら、堀こたつの個室からは庭が見渡せる。
本田さんは40歳から四季で働き、44年以上勤めてきた。コロナ禍前までは週5日、午前11時から午後11時まで働いた。コロナ後はレストランの営業時間が短くなったため午前11時から午後9時までに、そして年齢を考慮して週4日に短縮した。
予約の際に「その日、本田さんいますか?」と聞かれるほど、ファンがついている人気者。レストランマネージャーからの信頼も厚く、大事なお客さんは本田さんに任せるという。
「いい人に恵まれて、本当に幸せ。
今は悩みなんて何もない」と語る本田さん。しかし、チャーミングな笑顔の裏側には、過去の苦労が隠れていた。
■大酒飲みの夫に怒られ続ける生活
8人きょうだいの6番目として生まれた本田さん。「徒競走で3位以下になったことがない」と言うほど足が速く、活発だった少女は卒業後、東海農政局(農林水産省の地方支分部局)の事務職に就いた。その職場で出会った夫と19歳で結婚、出産し、若くして母になった。
ところが夫は大の酒好きで、仕事から帰るなり毎晩酒を要求した。
「とにかく早くお酒を出さないと怒られました。つまみよりも、先にお酒。つまみは後でいい! って言って」
困ったのは晩酌だけではなく、夫の監視の目だった。買い物に行っても早く帰らなければならず、家の外に出て腕組みしながら本田さんの帰りを待っていることもあった。友人からコンサートに行こうと誘われても、こそこそ逃げるようにしないと出かけられなかった。事前に言えば、止められるからだ。

夫は怒鳴ってばかりで、「笑顔をほとんど見たことがない」という家庭で育った娘は、本田さんに「爪を擦ってお酒に入れたら」と言った。子ども心に、常に父親に虐げられている母親の姿を見るのが嫌だったのだろう。
「(家に)おればすごく怒るし、おらなきゃまた怒るし、私はどうしたらいいのと思っていました」
■夫ではなく仕事に惚れた
本田さんは家事、育児をしながら、病院の受付として働いた。夫は本田さんが家にいるときは縛りつけていたが、仕事に出る分には問題なかった。本田さんは、幼かった子どもを自分の母親に預けて働き続けた。
「仕事が好きだったね。旦那に惚れなくて、仕事に惚れてるっちゅうか。病院の上司がいい人だったから、私も仕事に一生懸命になりました」
外食があまり一般的ではなかった時代。本田さんは働きながらも、家では家事をして、酒を飲む夫のためにつまみを用意する日々を過ごした。それでも、夫は変わらなかった。
「(ご飯も)全部自分で作って、なんでもちゃんとしてたけど、ダメだった。こんだけ尽くしてもダメなんだなと思って」
本田さんの母親は不憫な娘に「お前は一番苦労した。
同じきょうだいでも運が悪かった。親を恨んでかんよ(いかんよ)」と言ったそうだ。本田さん自身も、「結婚生活で何度も泣いた。涙も枯れ果てた」と当時を振り返った。
しかし、本田さんが45歳のときに、夫は肝臓がんで亡くなった。入院中も、病院を抜け出して酒を飲むほどだったという。
■最重要の会食を任される理由
病院勤務の後、別のホテルで働いていた本田さんは、知人の紹介で40歳のとき、名鉄グランドホテル内の日本料理店「四季」で働き始めた。過去に一度、転んで指を骨折し、手術をしたことがある。このときは、3日間入院し、仕事を1カ月休んだ。「この年にしては治りが早かったみたい」と笑う本田さん。夫の葬式とこのケガ以来、44年以上ほとんど休むことなく元気に出勤している。
「私は風邪も引かないし、熱もほとんど出たことがないの。
動いてればすごく元気っちゅうかね。家でゴロゴロしてると絶対ダメだもんね。じっとしてたら体が固まっちゃう」
現在85歳だが、どこにも不調はないという。四季にはテーブル席と座敷があり、座敷は企業の接待や結婚前の両家顔合わせなど大事な場面でよく利用されている。本田さんは、この座敷を担当することが多い。座敷では配膳のときに座らなければならず、立ったり座ったりで足腰にも負担がかかる。若い人でも「けっこうしんどい」と言うそうだが、本田さんはケロッとしている。
本田さんはお客さんの顔、名前、好みの飲み物などをしっかり覚える。「この人はビールを持っていくと喜ぶ」「日本酒はこのタイミングで」など、お客さんごとの特徴を把握しているのだ。本田さんは「自然と(頭に)入っちゃう」となんてことないように答えるが、30代の筆者でも同じことをできる自信はない。
本田さんはスタッフたちからも頼りにされており、四季マネージャーの岩木さんは「本田さんには安心して任せられる」と、特に重要な座敷の担当にしている。現在も、レストランの主力として欠かせない存在だ。

■「まーちゃん」だからこそ
勤続44年ともなると、お客さんの中には、幼稚園児の頃から通い、現在は大きくなった子どもを連れて来てくれる人もいる。小さな頃から本田さんのことを「まーちゃん」と呼び、長年通い続けてくれるそうだ。
マネージャーの岩木さんに本田さんが愛される秘訣を聞くと、「キャラクター」という答えが返ってきた。
「本田さんはお客さんの懐にスッと入っていくタイプ。結構ぐいぐいいくんですよ。先日も、上着を着せることを断っていた男性を遮ってまで着せてあげていて、皆さん笑っていました。本田さんだからできる熟練のトークみたいなものを感じますね」
本田さんは、職場の同僚にも慕われている。周りのスタッフ、特に大学生とは「孫とおばあちゃん」のような関係性で壁を感じさせないという。
本田さんは、これまで10人以上のマネージャーのもとで働いてきたが、岩木さんのことを「今までで一番相談に乗ってくれる人」と話す。実際、本田さんは最近まで兄の介護をしていたこともあり、病院に連れていくための休みなどを岩木さんに相談していた。
「岩木さんは物腰がやわらかくてね、何でも相談できる人。やさしいからやる気も出てくるね。
もうどこにでも岩木さんについて行きたいって感じ」
顔を見合わせて笑う2人の間には、まるで本物の母と息子のような温かい空気が流れていた。
■意外な「健康の秘訣」は…
現在85歳の本田さんに健康の秘訣を聞くと、「晩酌」だと照れくさそうに笑った。なんと、毎晩欠かさず2本のチューハイを飲むのが日課で、仕事終わりに一杯やるのが何よりの楽しみだという。
しかも、本田さんはお米もたくさん食べる。朝と夜で、合計2合の米を平らげるというから驚きだ。
「ご飯が大好き。パンより米だね。つまみもたくさん食べる。にんにくが好きでね、何にでもにんにく入れちゃうの。買い物行ったら、いっぺんに塊を3つくらい買う」
周りの人との関係性にも、健康のヒントがあるように思えた。本田さんは「週に2回は友だちと飲みに行く」という。仕事終わりの21時から24時まで飲むこともある。それを聞いた岩木さんは驚いて、「大学生みたいだね」と笑った。
本田さんの周りにはたくさんの「遊び仲間」がいる。飲み、銭湯、カラオケなど。数年前まではゴルフのホールも回っていた。本田さんは一人暮らしだが、家の電気がつくと「まさちゃんおるわ」と、近所の人が訪ねてくる。玄関に野菜が届いていることもあるという。
「一人暮らしで寂しいと思ったことない。夫との暮らしが大変だったからね。今が一番幸せ。職場も近所の人もいい人ばっかで、本当に幸せ」
かつてお父さんに虐められる母の姿を見ていた娘は、小さな頃からずっと本田さんの味方だ。同じ愛知県内に住む彼女は、「もし働けんようになったら、私がちゃんと見てあげるでね」と声をかけているそうだ。
■次の目標は「PPK」
四季は名古屋駅周辺の再開発計画によって、2026年3月22日のランチタイムを最後に、営業を終了することが決まっている(名鉄グランドホテルの宿泊と一部レストランは営業を継続する)。
本田さんは「退職後はゆっくりしようかな」と考えているようだ。しかし、きっと家でじっとすることはなく、たくさんの友だちとあちこちに出かけるだろう。
本田さんに働き続ける理由を聞くと、「居心地がいいから」と笑う。いい人に恵まれ、人に会えることが楽しみだから働く。本田さんを見ていると、周りの人からパワーをもらい、本田さんもまたそれを周りに返しているような心地よい空気を感じた。
最後に、本田さんは冗談っぽくこんなことを言った。
「あとは、あれね。PPK」

「PPKってなんですか?」

「ピンピンコロリ。ピンピンしとって、この年でコロッといっちゃうのが一番いいでしょ」
ウフフと少女のような笑顔で笑う本田さん。この愛らしさを見て、ファンになってしまうお客さんがいるのも頷ける気がした。

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中谷 秋絵(なかたに・あきえ)

インタビューライター

名古屋市在住。インドでの就業や事務職などを経て、2021年よりライターとして活動。経営者インタビューや地方創生、地域企業の挑戦をテーマに取材を重ねている。熱意を持って行動する人々の物語を発信し、社会をよりよくするヒントを届けることを目指す。インドダンスのパフォーマーとしても活動中。

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(インタビューライター 中谷 秋絵)
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