武士たちはなぜ戦ったのか。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「刀で戦うというのは、技術的にも心理的にも難しいことだった。
それでも自分の命を懸けられたのは、『自分のお家繁栄のために』という功利計算があったからだ」という――。
※本稿は、本郷和人『軍事の日本史[新装版] お金・戦略・武力のリアル』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■刀で命を奪うのは難しくてつらい
時代劇ではおなじみのチャンバラシーンですが、実はこれほど非現実的なものはありません。人と人とが刀で斬り合って、相手の命を奪うのは至難の業と言えます。それは技術的にも心理的にも相当なダメージを残すものです。刀で斬り合って相手を打ち倒さなければ自分が殺されるのだからそれは必死です。
でもプロの戦士でない農民たちには、この必死さを要求できないと思うのです。また、相手を殺せばホッとすると同時に、「俺はなんてことをしてしまったんだ」という気持ちが生まれるだろうと僕は思います。なにしろ生きている人間を殺すというのは想像以上に(いや想像通りとも言えますが)大変なことです。人一人の命を奪うことがどれだけ大変なことか……。
実は、戦国時代にもそういう考え方は生きていたと考えられる史料があります。
■「首二つ」取るなんて例外中の例外
当時、「兜首(かぶとくび)一つ取れば、一生安泰」という言い方がありました。
それなりに名が通った武士を一人討ち取れば、その後、自分が一生食っていくだけのサラリーが保証されるということです。
僕が読んできた史料の中でも印象深いものの一つに「毛利家文書」という文書があります。鎌倉時代の終わりから南北朝時代までを含む毛利家伝来の古文書です。毛利家が戦国大名として大きくなっていく過程を伝える史料であり、毛利元就・隆元親子の自筆の書状が多く残されていることで知られます。
実はこの中に、「この戦いにおいて首をどれだけ取ったか(何人殺したか)」という「首取り注文」と呼ばれるものが相当数書き残されています。読んでいくと「首一つ誰々(が討ち取った)」「首一つ誰々」「首一つ誰々」ということがずーっと書いてある。ちょっと異様な感覚にとらわれてくるものです。
それがひたすら続いていく中に、ごくごくまれに「首二つ」というのが出てくる。でもそれは本当に例外中の例外というくらいに少ない。
■「死にたくない」という本能的な恐怖
首二つ取っている、つまり二人の武士を殺している人はほとんどいなかったということが分かります。つまり、この頃ですら「一人殺すのも大変なことだった」。それが戦いのリアルだということになります。
人の命を奪うのはもちろん、自分の命を奪われるのはイヤだ。痛い思いをするのもイヤだ。
そういう自分自身の体にもとづく感覚(身体性)は、人間にとって普遍的なものじゃないのかなと思います。そこから発想してみると、一体どういう状況になれば人間は「自分の命を差し出そう」と思うのでしょうか? まさに強い軍隊というのは、兵隊が命を投げ出しても構わないと思えるような環境の整った軍隊なのでしょう。それが次の問題です。
ときは、平安後期から鎌倉はじめにかけてのことです。
このころ武士の戦いはプロの戦士の「一騎討ち」でした。まさに自分と相手が一対一でぶつかりあう肉弾戦です。現代のほとんどの人は一部のマニアの人以外、真剣なんて見たこともないでしょう。先ほどもお話ししたとおり、時代劇の斬り合いはフィクションです。あれを見て、昔は日本も斬り合いが普通だったなんて思ったら大間違い。人を殺す、あるいは自分が死ぬという一対一の戦いは、我々の想像をはるかに超えるしんどいことでした。

だから一騎討ちという、まさに自分の体を使って相手を殺すのは相当難しいことなのですが、鎌倉時代初期の武士はそれを実際にやったわけですね。
■自分の「お家」のために命懸けで戦った
そのときになぜそんなことができたのか。逆に言うと、なぜ自分の命を捨てることができたのかというと、武士の場合、自分が戦場で主人のために命をかければ「奉公を果たした」として、主人は自分の家族に土地(御恩)を与えてくれる(このあたりについては本書の第4章でお話しします)。
殿様と家来(主従)というのはこの契約関係で結ばれているからこそ、自分が命を捨てることによって、自分の家族に土地が与えられる。自分は死ぬけれど、自分の家族は生き残って繁栄できる。当時の重要な単位は「家」になりますから、例えば、「本郷家」が栄えることを目的に、自分(本郷和人)は苛烈に戦う、という構図になります(現在の価値観からすると、なかなかそこまでできる人は少ないような気はします)。
勇敢な軍隊を作るためにはどうしたらいいのか。それを科学的に分析すればするほど、「殿のために」という忠誠心の裏側には、「自分のお家(いえ)繁栄のために」という功利計算があり、実は、ロマンとは程遠いものになっていることが分かります。
ところが、意外にもロマンを彷彿とさせる希有な例もあるんです。
■日本一強いと言われた「愛され武将」
「戦上手」として知られる戦国武将に、立花宗茂がいます。筑後の国(今の福岡県)の柳川の城主で、2、3千人規模で戦えば、おそらく日本一強いと言われる人でした。
ところが、関ヶ原の戦いで立花宗茂は豊臣秀頼の西軍につき、すべての領地を失ってしまいます。
それでもなお立花家の家来たちは主従の関係を重んじて、殿様を食わせるためにあらゆることをしました。
ある者は、今で言うところの日雇い労働をし、計算が得意な者は商人の家で働いて日銭を稼ぐ、ある者は山に入って狩猟をしながら肉や野菜を取ってくる。こうして収入のない殿様を皆で支えて食べさせたという話が残っています。家来から愛されていた傍証といえるかもしれません。最強部隊を誇る武将の中には、こうした人間的な魅力で家来たちを従えていた例があったかもしれない。
そんなふうに立花家の戦いを見てみると、近現代でいうところの将校さん、つまりプロの軍人である家来たちの戦死率がきわめて高いことが分かります。後ろの方にいる農民たちからすれば、自分たちを統率している城主やその家来が自分たちよりも前で戦っている。プロの軍人である家臣団が率先して突撃していくとなれば、その背後に控えている農民たちだっていやいやながらもそれについていかざるを得ない。
こうして士気の高い軍隊が組織されていた。立花家の軍事力が強かった秘訣は、家来たちを無理やり前線に押し出したことでも、強権による怖れで従えたことでもなく、主君の人間性で家来たちを惹きつけていたことではなかったか。そうした仮説を立てることができるくらい、家臣の忠誠心が厚く、結束の固い家の軍事は優れている、と言えそうです。
■「最強の武器」は弓矢から鉄砲へ
武士の世の戦いにおいて、武器となるのは刀です。
1543年(天文十二年)、ポルトガル船が種子島に漂着し日本に鉄砲が伝わります。
鉄砲伝来までは、弓矢で射殺すことが相手を100%確実に殺す方法でした。しかも遠くから攻撃できるから、ほとんど危険が自分に及ぶこともなく相手を殺せる効果的なやり方だった。返り血を浴びず、刀を使ったときほどの力技も罪悪感もなく人を殺せる。弓矢こそ殺戮兵器の王道でした。
その延長線上に鉄砲が登場しました。一瞬で相手を撃ち殺せるから、これまでよりはるかに短時間で大勢を殺すことが容易になりました。これが日本人の死生観というものを大きく変えてしまった可能性があります。
■武田勝頼軍が鉄砲で戦えなかった理由
もちろん、人を殺すことに軽重があってはならないのは言うまでもありません。でも、自分の持つ刀を振り回してみずからの体を通じて相手の命を刈り取ることと、鉄砲や大砲をぶっ放して敵をなぎ倒すこととの間には、罪の意識という面で相当な違いがあると僕は思います。
1560年(永禄三年)、織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を破ります。その8年後に将軍・足利義昭を奉じて京都に入ります。
こうして京都を支配下に治めました。そこから10年も経たないうちに信長は、長篠の戦いで武田勝頼軍を破りました。このとき活躍したのが鉄砲隊です。まさに新兵器の出現です。
信長は、鉄砲を撃つときに必要になる黒色火薬をどう用意したのでしょうか。その主成分となる硝石(しょうせき)と硫黄と、それに鉄砲鍛冶が必要になるのですが、なかでも硝石は日本では採れない鉱物でしたから、堺の交易権を押さえることで国外からこれを独占的に入手できたのではないかと僕はにらんでいます。
逆に言うと、武田も鉄砲に早くから注目していたと主張する研究者がいますが、海をもたない武田では硝石を入手できない→鉄砲を有効利用できない、と考えるのが合理的でしょう。
■鉄砲の出現が平和な時代を導いた?
鉄砲によって大量の人を一瞬で殺せるようになり、刀で斬り合うよりは心身ともに、「殺人のハードル」は下がったのかもしれません。一方で、鉄砲の出現で逆の発想をした人もいたのではないかと思います。つまり「このままいくと、これまでとは桁違いの犠牲が出続けることになる。それなら戦わないでおいた方がいいんじゃないか」。そういう考え方が出てきてもおかしくない。
大勢の人が死ぬようなことが常態化すれば、「もういい加減、たくさんの人が死ぬのは見たくない。人が死ぬのはうんざりだ」という気分が生まれてくるんじゃないか。だからこそ、戦乱の世が続いたあとには必ず平和な時代がやってくるし、武将自身にも大勢の人を殺すことへの倦厭(けんえん)感があったんじゃなかろうか。
そういう問いと仮説を立てて検証してみる。歴史研究を「点」ではなく「面」で見る。歴史の流れをつかむ。僕が提唱する「歴史の見方」において、中学生でも考えつくような質問をつねに持ち、それに対する答えを考える、という姿勢は意味のあることだろうと思っています。

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本郷 和人(ほんごう・かずと)

東京大学史料編纂所教授

1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。

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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)
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