※本稿は、本郷和人『軍事の日本史[新装版] お金・戦略・武力のリアル』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■「あとは朝倉を攻めるだけ」と思いきや…
このとき、織田信長は3万人と言われる大軍を率いて越前になだれ込みます。現在の敦賀市にあった金ヶ崎城という城を攻め落とします。越前に入るには必ず防衛拠点である金ヶ崎を通ります。南北朝時代にも戦いが繰り広げられた重要な地点です。
金ヶ崎城を落として敦賀を手に入れ、「さあ、越前平野になだれ込んで朝倉義景を攻めるぞ」といったまさにその時、織田信長のもとに衝撃のニュースが飛び込んできます。自分の妹婿である浅井長政が裏切って信長軍に向け挙兵したのです。
浅井は琵琶湖の東側、今で言えば滋賀県長浜市の小谷城あたりに勢力をもっていた大名家です。浅井を味方につけることによって、信長は岐阜から京都への道、つまり琵琶湖の南側を通る道を安心して往来できるようになりました。信長は浅井家を味方に取り込むために、美人で知られた自分の妹・お市(いち)を浅井長政に嫁がせ浅井と同盟を結んでいたのです。
ところが越前の朝倉を攻めたまさにそのとき、浅井長政が同盟を裏切って織田信長に攻めかかることが知れたわけです。
■3万人を率いる信長を裏切った浅井の戦力
浅井家の規模は実はそれほどのものではありませんでした。というのは、この裏切りのあと信長は浅井家を滅ぼし、その領地をそのまま受け取ったと言われるのが羽柴秀吉です。浅井を潰すとき一番の働きを示した秀吉に対して、信長が「猿に全部やる」とその領地を羽柴秀吉に与えた。小谷城は山城で使い勝手が悪いことから、羽柴秀吉の作った町が今の長浜です。
長浜城を築き秀吉がそこの殿様になった。このときの領地がだいたい十万石ちょっとだと言われています。となると、浅井領はそんなに多くはない。だとすると、浅井家がどれくらい兵隊を出せるかというと、僕がこれまでずっと提唱している「数がすべて」の法則で考えてみても、せいぜい5千人の兵士を出すのが精いっぱいといった程度の領地だろうと思います。実際にはそれぐらいの力しか浅井長政は持っていなかった。
さてここで問題になるのが、地理的な関係です。
■東大教授の疑問「信長はなぜ逃げたのか」
京都から福井に至るといったとき、敦賀と長浜の位置関係がみなさんの頭に浮かんだでしょうか。地理的な感覚を頭に浮かべると僕の疑問が腑に落ちると思います。
福井県の敦賀のすぐそばに金ヶ崎があります。そこはすでに朝倉領です。その南側に浅井がいます。小谷城があります。その東側の岐阜に信長は本拠地を持っていて京都を押さえています。だから、信長は京都と岐阜を行ったり来たりするときには、その中間地点である浅井を味方につけることで、いつ襲われるか分からないリスクを取り除き、その道の安全を確保したはずでした。
もう一度整理すると、京都から3万の大軍を率いて信長は、敦賀に向かって金ヶ崎城を落としました。そしてそのまま、越前平野を攻撃しようとしたところで、浅井の裏切りを知った。そこでいったん兵を引いて岐阜へ帰るためには浅井を蹴散らさないといけない。
■2倍の兵がいる信長は勝てるのではないか
一方、京都へ出るにしても、琵琶湖の南を通ると浅井とぶつからなきゃいけない。すると信長は、浅井と朝倉の挟み撃ちに遭う恐れがある――とみなさん案外スラッと言ってしまうのですが、ちょっと待ってください。
浅井家はさきほど言ったように5千ぐらいしか兵隊がいません。
ここで不思議に思いませんか? 僕の疑問を先に言ってしまうと、「挟み撃ちに遭う」といっても信長軍の前方から来るのは朝倉軍の1万です。後ろから来る浅井軍は多く見積もっても5千です。合わせて1万5千です。
けれども信長には3万の大軍がいるんだからそれを二つに分けて、2万で1万と戦い、残りの1万で5千と戦えば、数的優位にあるはずです。その信長がどうしてあわてて逃げる必要があるのか? ということが僕には昔から謎なんです。
■しんがりをやり切った秀吉の評価は急上昇
信長の本隊が引き上げるとき、背後から攻め込まれないように、しんがりとして金ヶ崎城に置かれたのが当時の木下藤吉郎秀吉でした。
このとき、残された木下藤吉郎、明智光秀、池田勝正らが、攻めてくる朝倉軍を何とか食い止め、がんばるだけがんばり、まさに九死に一生を得て信長のうしろを追いかけて退却します。そのお陰で織田軍は京都に帰ることができたのです。
司馬遼太郎さんに言わせるとそれまで信長は、木下藤吉郎「猿」が使える男だとは思っていたけれど、まだ一軍の大将にするだけの評価はしていなかった。ところがこの命がけの退却戦をやり遂げたことによって、「こいつは一角の大将として使えるな」と秀吉に対する評価を一段階上げたということです。それはいろいろなところに書いてあります。
これまで歴史学でこの話になると、「信長は挟み撃ちに遭うと分かったとたん一目散に逃げた」とさらっとやり過ごしてきていました。
けれども僕のこの疑問に答えるならば、
・なぜ3万の軍勢を二つに分けて戦わなかったのか?
・金ヶ崎城という防衛拠点は押さえてあるのだから十分に戦えたのではないか?
・ 信長の軍勢3万を全部「回れ右」をさせて、浅井を蹴散らして岐阜に帰るという手はなかったのか?
少なくともこうした疑問が浮かぶはずです。そんな素朴な問いを持たない研究者がなぜ多いのか、僕には分からないなあと思う。でもそういう質問をするからには自分なりに答えを想定してなきゃいけませんね。僕が考えたのは次のようなことです。
■信長は「兵站問題」を考えていた?
「歴史事実だけを見ると戦いは数の多い方が有利である。しかしその有利さを放棄してでも信長が逃げたのはなぜか」――まずこう問いを立ててみます。
一つの考え方として、やはりここに兵站の問題があるのではないか。つまり、本書の第1章で見た戦争の三要素、(1)戦術、(2)戦略、(3)兵站のうちの「兵站」です。
3万人の軍勢をきちんと食べさせるために信長は、自分の本拠地である岐阜から米や物資を金ヶ崎城まで運んでいたのではないか。この防衛拠点に物資を運び込んでいたからこそ信長の大軍は軍事行動ができたのではないか。しかし浅井長政が裏切った時点でその補給路は絶たれる。もたもたすれば、なまじ兵が多いだけに干上がってしまう。腹が減っては戦はできぬ。だからここは退却した。
つまり、信長が退却を選んだ理由の裏側には「兵站が大事なんだ」という考え方があったのではないか。信長は軍事行動を起こすにあたり「兵站」の問題をすでに考慮に入れていた――これが仮説その一です。
■兵力で優っていても挟み撃ちが恐かった?
ただ、室町時代に兵站の概念はまだ確立していません。だからこそ、「行った先で略奪すればいい」と上杉謙信は略奪を繰り返したと藤木久志先生は唱えているのです。上杉謙信の軍事行動に兵站という発想はなかった。であればこそ、同時代人である織田信長が、上杉謙信をはじめ、他の武将たちを圧倒するほどの先進性をもって、兵站も視野に入れた軍隊を構想できていたのかといえば、実はそれも考えにくいんですよね。
「うつけもの」と評され、奇想天外さが伝えられる信長ですが、だからといって他の大名たちとはまったく別次元の、いわば近代的な軍事を考えることができたかというと、そう考える根拠は見つけられないのです。
そこでもう一つ、「信長はなぜ逃げたのか」に答える別の考え方として、「挟み撃ちは相当に効く」という仮説その二を立ててみます。
つまり、仮に信長が3万、朝倉が1万、浅井が5千で戦ったとしても「信長軍3万対浅井・朝倉軍1万5千」ですね。相当な兵力差があったとしても、挟み撃ちをされると、兵力差がひっくり返るほど挟まれた方のダメージが大きいのではないか。そう考えると、信長が戦いを放棄してさっさと兵を引いた理由が分かります。
■挟み撃ちの効果を科学的に検証する方法
すると今度は、「挟み撃ちという戦術は有効だったのか?」という問いが生まれてきます。
この本の冒頭で申し上げたように、歴史学の中では軍事に関する研究がタブーになってきました。その「学問的空白」をまさに直撃するのです。僕が「まずいなあ」と思っているのがまさにそこです。
例えば、「豊臣秀頼は本当に秀吉の子どもなのか」という問いを立てたとき、僕らが史料をつきあわせて考えたところであまり意味はないですね。それなら現代の産婦人科の先生に聞くのが一番科学的にすっきりします。
僕が産婦人科の先生方に折にふれて聞いたところによれば、みなさん「秀吉が淀殿という女性とのみ、しかも二人も子どもを作れる確率は天文学的な数字になりますよ」という回答でした。つまり、「秀頼は秀吉の子どもじゃなかっただろう」という認識が常識的に導かれます。
それと同じで、挟み撃ちが戦術として効果的かどうかという問題は、机上でああだこうだといっているよりも、科学的に検証できることじゃないかと思うんです。
■仮説を仮説のままで終わらせない
例えば、防衛大学校や自衛隊などに専門家がいるのですから、そういう人たちと歴史研究者が共同研究してみればいいだろうと僕は思います。
軍事行動に関して向こうは専門家です。実例も豊富にもっていらっしゃるわけでしょう。だけど、そういう方法論が歴史研究者にはないんですね。それもこれも、戦後にわかに、皇国史観から転換したマルクス主義的な発想があまりに強く浸透したために、「自衛隊」とか「防大」と聞くだけでアレルギー反応を起こしてしまうためです。
そろそろ共同研究によって歴史上にあった軍事を科学的に分析したい。そうすれば少しはこんな疑問も解決できるんじゃないか。とりわけ僕は、この「挟み撃ち」がどこまでキツイのかをとても知りたい。軍事の専門家に説明されたら一発で解決するかもしれないし、ぜひその知見を取り入れたいと本気で思っています。
というわけで、なぜ信長が金ヶ崎から撤退したか、今のところ僕の中では「仮説その二」、挟み撃ちを恐れたから、というのが有力です。
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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。
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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)

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