※本稿は、本郷和人『軍事の日本史[新装版] お金・戦略・武力のリアル』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■なんだかんだ「三英傑」が一番強かった
歴史談議でおなじみの永遠のテーマ、いわば歴史談議のサステナビリティーみたいなものですけど、「戦国時代は誰が強かったのか」ということがよく議論されます。本当のことを言えば、答えは出ているわけですね。
それは何かというと、じつにつまらない答えになるんだけど、ここまで見てきたように、戦いは軍事力である、軍事力は数である、ということから「戦いは数である」。となれば、歴史が示すとおり、信長、秀吉、家康が一番強かったと言わざるを得ないわけです。
でも、それじゃ面白くないだろうということで、いろいろ考えてみると、この3人の行った軍事活動の中でも、一番面白いのは秀吉という人だろうと僕は思います。
■食料補給を重視した「経済戦争」
秀吉は、きわめて独創的で創造的な人です。
まず一つ目は、秀吉は軍事を経済に置きかえた、ということが言えます。
城を攻めるには、これはいろいろな説がありますけど、一般的には、守っている人間の3倍の兵隊を用意しないと城は落ちない、これが鉄則だと言われています。ですから、攻めるときには相当な数が必要になるわけですが、一方、守るという点で見ても、兵隊の数を増やせばその分、攻める側にプレッシャーを与えることになります。
しかも城を守ることには利点があった。
それから、大勢の人びとが軍事に従事するとなったとき、根本的に必要になるのは食糧です。その補給がままならない状態で戦ったのが、だいたい室町時代ぐらいまでの日本の軍事です。補給をちゃんとしないまま、遠征先で略奪して食糧を調達していました。
そういう意味でいうと、秀吉はきちんと兵隊を食べさせるという方法をとりました。つまりは、補給というものの大切さを徹底的に理解し実践したのが秀吉であると言える。
そうなると、秀吉の戦争というのは、城攻めがとくにそうなのですが、経済戦争になっていく。つまり、相手の食糧をどうやったら効果的に奪うことができるのか。自分たちの軍勢を、兵隊をどうやったら効果的に食べさせることができるのか。そこに注目します。
■敵方の兵糧を買いあさり、飢えさせる
例えば、まだ信長の武将であった羽柴秀吉の時代に中国地方を攻略します。そこで何をしたかというと、兵糧攻めです。非常に考え抜かれた兵糧攻めを仕掛けたのは秀吉です。
それが一番、見事にはまったのが、鳥取城攻めです。
鳥取城を守っていたのは吉川経家という武将でした。彼はこの城の本来の城主ではありません。毛利家に命じられて、城主に就任した。だから、この城はいずれ落とされるかもしれないけれど、それまで一生懸命がんばって守るんだ。落城するまでたっぷり時間をかけさせて、鳥取城を落とす高額な代償を払わせるんだという意気込みで、彼は城に入ったのです。
ところが、実はそれ以前の段階で、秀吉はべらぼうな高値で、鳥取城からお米や備蓄されていた食糧をあらかた買っていたのです。実際、秀吉が攻めて来て吉川が城に立てこもったとき、「食糧はどうした?」「あ、秀吉に売っちゃいました」という話になっていた。
たしかに秀吉は、食糧を買いあさるのに相当高いお金を払ったかもしれないけれど、それを使って、腹いっぱいご飯を自分の兵隊に食べさせることができた。
補給に着目した秀吉は、まさに経済をきちんと理解していた。「戦争は経済が支配する」ということを、このときすでに理解していたことになるんじゃないかと思います。秀吉は、軍事を経済に置きかえた。これが一つです。
■味方の犠牲を最小限に抑える戦略
そして二番目に、秀吉は、戦争を土木工事に置きかえた、と言えます。
お城を攻めるとき、攻撃する側は3倍の兵隊をそろえなくちゃ勝てないわけですから、つまりはそれだけ多くの犠牲が払われる。ふつうの野原で戦うよりもさらに城を攻撃する側に犠牲が出るのは当たり前と考えられています。
そこで秀吉は、お城を攻めるのに、大々的な土木工事を行って、人間の命をなるべく失わないで城を落とすという方法を編み出します。
例えば、さきほど言った鳥取城の場合は、兵糧攻めで追い詰めた以外にも、いわゆる「陣城(じんじろ)」といって砦のようなものをお城の周りにいっぱい作ることによって敵の動きを封じ込めました。
その完成形と言えるのが、1582年(天正十年)の備中高松城攻めです。
■「水攻め」で見事に城を落とした
高松城を見た秀吉は、「これは工事をやることによって水の中に水没させられる」と考えました。
いくつかの地点で工事を行うと、全体として高い堤防を形作ることができる。そこで、足守川という川の堰(せき)を破ると、高松城一帯が川の水で水浸しになる。
高松城の周囲全体を新造の堤防で囲ったわけではないんですね。行ってみると分かるんですけど、ある何カ所かだけに手を加えれば、十分に高松城が沈む。このように、秀吉は土木工事をやることによって、高松城を沈めさせ、落城に追い込むことに成功します。人的な損害はほとんどありません。
まさに秀吉にとってみると、城攻めというのはダメージ覚悟で味方を突撃させるだけではなくて、こうした土木工事という工夫によって、城を落とすことを可能にするものだったのです。
■2万の兵が「高速」で大移動できた理由
それから三番目に、秀吉は、軍事を運動に置きかえた、ということが言える。
秀吉は、1582年(天正十年)、本能寺の変のときに「中国大返(おおがえ)し」をします。
今お話しした備中高松城攻めで今の岡山県に出向いていた羽柴秀吉は、信長の死を知るとすぐに毛利と和平を結び、明智光秀を討つため京に向けて全軍を大移動させます。これは約10日間で約200キロを走らせた日本史上最大の強行軍です(ちなみに世界史を見ると、象まで連れてアルプスを越えた、なんていう、もうとんでもない人物もいましたよね)。
このとき秀吉の軍事の才能がいかんなく発揮されます。それは何といっても運動性能を重視したことです。兵隊をどうやって動かすか。そのことに秀吉は非常に長けていた。秀吉軍はプロの軍人の集団ではありません。農民が多く含まれていた。彼らは戦いたくないわけです。機会があれば逃亡したい。そうした2万の兵を統率して強行軍を実現した。とんでもない手腕です。
このときに秀吉は兵の士気を高めるべく、いろいろと策を立てたのでしょうが、具体的に何をやったかは残念ながら史料が残っていません。一説によると、兵隊たちの鎧兜を全部脱がせて、身軽な格好にして運動性能を高めたという話もあります。
その脱いだ鎧兜は、船に載せて、前もって陣地を構えている所に先回りして送り、その鎧兜を、裸で走ってきた兵隊たちに着せたのだそうです。本当かな?
■賤ヶ岳の戦いでもスピードで優った
これは僕の想像ですが、秀吉は将兵に明確なビジョンを示したんじゃないか。要するにニンジンみたいな餌をぶら下げた。「自分たちのこれからの戦いは何を目指すのか」「その戦いに勝利したら、どういう利益が与えられるのか」ということを、武士や兵隊たちに明示したんじゃないか。
もちろん、駆け足で走り抜けるその途中で立ち寄った、秀吉の本拠地の一つ、姫路城ではおそらく蔵を開け放ち、すべての金銀、あるいは、お米、それらを分配したに違いないと想像できます。
その次の柴田勝家との「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」でも秀吉は、自分の軍隊を機敏に動かすことによって、戦いに勝つ突破口を開きます。
この戦いでは、現在の滋賀県、琵琶湖の北東に、柴田勝家の軍勢と羽柴秀吉の軍勢がにらみ合いを続けていました。すると、さきほども見たように、秀吉は戦争を土木工事にしてしまい、一斉にみんなで陣城を作り始めます。敵が攻め寄せて来たら、自分たちが優勢に戦えるように、自分たちの陣地を小さなお城のような形にするべく土木工事を始める。
■柴田勝家に先制攻撃させて、逆襲に成功
これは太平洋戦争のときに、例えば、硫黄島に配置された部隊が、現地に到着するや否や工事を始めて洞窟の陣地を構築したことと同じです。言ってみれば、兵隊は工事をするのが商売といわんばかりに、野戦築城をします。兵隊さんを工事に使う。
秀吉がやれば当然、柴田もそれに対抗して土木工事を行う。だから、賤ヶ岳の戦いでは、柴田軍も羽柴軍も両軍の部隊がみんな小さな陣地を構築するから、それが積み重なって、とんでもない様相を呈していきました。こうなると先に手を出した方が負けます。守る方が非常に強い。
そこで秀吉はあえて隙を作って敵が攻めてきやすいようにします。そのためにどうするかというと、自分の部隊を動かして兵をいったん引きます。滋賀から岐阜の方へ移動するのです。すると、秀吉の不在を知った柴田軍が攻め寄せる。そこで今度は急いで戦場に戻る(このときの動きは、5時間で50キロ走ったというほどの、きわめて素早い運動性能を示しています)。走って走って賤ヶ岳に帰り、柴田軍と戦いました。
「戦争を運動にした」というのがまさにそこで出てくるのです。しびれを切らした柴田軍は先に攻撃をしかけたものの逆襲に遭い、秀吉の軍隊の運動能力の前に、ついに打ち破られてしまいました。
■一枚上手だった家康には完全に敗北した
さらに秀吉は、徳川家康との「小牧・長久手の戦い」でも、まず陣地を構えてにらみ合います。家康が小牧山に陣地を築く。それから秀吉は犬山城、もしくは、楽田城(がくでんじょう)というところに前線基地を設けたと言われます。秀吉も家康も、例によって陣地を築きます。
そこで秀吉がやったのが、「おとり部隊」による陽動作戦ですね。
2万人のおとり部隊(実質的な指揮官は池田恒興)を作って、三河の方へその軍勢を動かします。そのおとりに家康がぱくっと食いついたところで、またしても秀吉は自分の部隊を素早く動かして、家康を捕捉して一挙に討ち取るという計画をおそらく立てたのだと思います。
ところがこのときは、家康の方が一枚上手で、秀吉のおとり部隊を全滅させてしまいます(池田とその聟(むこ)の森長可は戦死)。たぶんそこまでは秀吉は想定内。ところが、家康はこのあとすぐに兵を自陣に引き返してしまった。
家康のこの俊敏な軍事行動によって、秀吉は、家康の本隊をつかまえることができず、言ってみれば、餌だけ取られたのです。つまりこの戦いに秀吉は見事に負けてしまったということになるわけです。
■「家康より自分が上」と示すために…
四番目、秀吉は、戦争を政治に置きかえた。
この小牧・長久手の戦いでは、秀吉は局地戦では家康に負けてしまいましたけれど、そのあと秀吉は、朝廷を動かしました。
それまで秀吉は、まったく朝廷と関係を持たず、自分が貴族として昇進しよう、出世しようなんてことはさらさら考えていませんでした。けれども家康に局地戦で敗れたことを踏まえて、「よしそれじゃ、家康が頭を下げやすいような状況を作ればいいじゃないか」と考え、秀吉は、朝廷の中で関白という地位を獲得するわけです。
自分が関白になることによって、家康には大納言という官職を与える。これの意味するところは、「秀吉と家康は朝廷の序列においては、同じ貴族である」ということです。
だから、そこには上下関係はあるわけですね。上司と部下の関係はあるけれど、主従の関係はない。そういう形で、自分たちの位置関係を明らかにしながらも、主従の関係は曖昧なままにしておくというやり方を用いる。
■朝廷を巻き込んでの壮大なインチキ
天皇なり朝廷なりという政治権力を得て、家康が頭を下げやすいような条件を整える。このあたりが政治家・豊臣秀吉の真骨頂と言えます。
これは実に面白いところですが、朝廷というのは先例をうるさく言うところで、「今まではああだった、こうだった」というルールがガチガチに重んじられていました。
だから秀吉が例えば、一足飛びに関白になることを朝廷としてはなかなか受け入れがたい。「関白になるためには、こういう手順を踏んでくれないと困ります。最低でも、この官職とこの官職についてから関白になって下さい」と朝廷は言います。
すると、なんと秀吉は、「自分は1年前にすでにそういうしかるべき官職を得ていた」というインチキを公然とやる。自分は1年前にこれこれの官職を得ていたから、次の官職はこれ、次の官職はこれ、と短時間でかけ昇り、「だから次は関白です」といちおうの理屈をつけてまんまと関白になる。
自分は関白になったから、官位が下の家康は自分に頭を下げるように、という形式をつくって、家康を家臣の中に組み込むことに成功しているわけです。
秀吉という人は、戦争を経済に変え、戦争を土木工事に変え、戦争を運動に変え、戦争を政治に変える、非常にアイデアマンであると言えるのではないかということになります。
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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。
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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)

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