■八雲は“とてつもない高給取り”
借金返済したら、突然同情が嫉妬に変わる松江の人々……NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」第18週は、とんでもない展開だった。
ついに借金を返済したトキ(髙石あかり)がヘブン(トミー・バストウ)らに感謝を述べてパーティーをするまではよかった。それをたまたま取材に訪れた梶谷(岩崎う大)が記事にしたものだから、突然事態は一変。トキは頭に石をぶつけられ、松野家の前にはゴミがぶちまけられることに。
これは、街を挙げて「ばけばけ」を楽しんでいる現代の松江市民に対する風評被害‼
史実でも、八雲と結婚した後にセツが「洋妾」呼ばわりされたわけで、やっかみがあったのは事実だろう。
確かに、一般市民からみれば「上手いことやりやがって」と嫉妬する面は否めない。なにしろ、八雲は月給100円の高給取りなのだ。しかも、アメリカでは文豪として知られていることも新聞を通じて知っている。
月給100円はとてつもない高給だ。教員でも役人でも、給料が高くて20円程度な人はザラにいる。それでも家族を支えている。
■人々の邪推、噂話が広まっていたと推測できる
そうなると、矛先になるのは、一緒に暮らしている(奥様と認識しているとは限らない)セツであろう。
当時、大抵の松江の人々にとって、八雲は「町で見かける外国人の先生」でしかない。道ですれ違ったことはあっても、話をしたことなどない。英語教師として学校に勤めているらしい、という噂は聞いている。月給100円という破格の待遇らしい、ということも耳に入ってくる。
そんな八雲の家に、いつの間にか若い女が住み着いている。
そうなると「あの娘はなんだ」と思い、当時の常識として「ああ、妾か」と考える。しかも、没落した士族の娘ともなれば、邪推は尽きない。勝手に想像した噂話が真実として広まっていく。
「借金を返すために、身を売ったんだろう」
「月給100円だからな。いい暮らしができるわけだ」
とにかく口さがない噂がどんどん広まっていったはずだ。
■「完全に困窮していた」稲垣家
明治維新で武士の身分は失われた。禄を失った元士族たちは、慣れない商売を始めたり、日雇いの仕事に出たり、なんとか食いつないでいる。プライドだけは高いが、懐は寒い。そんな元士族が松江には大勢いた。
その中で、稲垣家だけは娘が月給100円の高給取りの外国人の家に入った。そうなると、嫉妬、蔑み、そして密かな羨望が渦巻くようになっていたはずだ。
本当にそんなに楽で裕福な暮らしだったのだろうか。
八雲がセツと結婚するにあたっての家族関係を整理してみよう。
まず、稲垣家の状況。一雄はセツが前夫との離婚騒動になった際の稲垣家について、こう記している。
無財産の上に尚借金のある家、しかも男は働く術を知らず、働き手とては仕立物する姑と機織る己が妻セツのみ……
つまり、稲垣家には借金があり、男手は働けない。収入源は姑の仕立物とセツの機織りだけ。完全に困窮していたのだ。
■「借金はないが、常にカツカツ」な小泉家
一方、小泉家はどうか。一雄は祖父の小泉湊についてこう書いている。
ほかの親戚に比べればまだよい方で、明治25年(1892年)リューマチスが高じて死ぬる迄、自費で医者にもかかり、妻子達をも何不自由なく食べさせ借金等は一文もなかったという。
一見すると、小泉家は「まだマシ」に見える。
だが、実態はそう単純ではない。ドラマ「ばけばけ」では、トキの実母であるタエ(北川景子)が物乞いになる姿が描かれ話題になった。
これは脚色ではなく、史実である。小泉家は士族の商法で始めた事業で困窮し、実母のチエが物乞いまがいのことをしていた時期があったのだ。その後は持ち直したとはいえ、八雲がセツと結婚する際、実母チエは経済援助を要求している。実態は「借金はないが、常にカツカツ」という状態だったのだろう。つまり、八雲はセツと結婚したことで、これだけを養わなければならなくなった。
○八雲・セツの世帯
・最愛のセツと女中を雇って生活
○稲垣家
・養父母と祖父
・母親以外は壊滅的に生活能力のないニートを抱えた家
○小泉家
・食えないとなれば物乞いも辞さないパワフルさ
・しかも伝説のニート・藤三郎も
■1世帯あたり約33円でも「十分ではなかった」
つまり、八雲の月給100円を3世帯で割ると、1世帯あたり約33円である。
小泉八雲研究者の広瀬朝光の『小泉八雲論 研究と資料』(笠間書院、1976年)には、こう記されている。
ヘルンの給与月額百円は当時としては高級であり、米一升三銭、尋常中学校木村牧氏は月俸70円、西田千太郎氏は月俸45円くらいであり、月給35円ぐらい取ると妾宅を置いたものであったという。
つまり、月に35円も稼いでいれば妾を養えるくらいに裕福な生活を送ることができる。
ここで参考にしたいのが、夏目漱石の随筆『文士の生活』だ。これは、年俸1500円(月給125円)に印税も稼いでいた漱石が、金がないとかひたすらボヤいている文章である。漱石は冒頭からこう書く。
私が巨万の富を蓄えたとか、立派な家を建てたとか、土地家屋を売買して金を儲けて居るとか、種々な噂が世間にあるようだが、皆嘘だ。
■作家は「外へ出かけて見聞を広める」必要がある
そして、住んでいる家についてこう続ける。
此家は七間ばかりあるが、私は二間使って居るし、子供が六人もあるから狭い。家賃は三十五円である。
月給125円で家賃35円。つまり収入の約3分の1が家賃に消える。さらに漱石はこう嘆く。
書画だけには多少の自信はある。敢て造詣が深いというのでは無いが、いい書画を見た時許りは、自然と頭が下るような心持がする。(中略)骨董も好きであるが所謂骨董いじりではない。第一金が許さぬ。
月給125円に印税収入もある漱石でさえ、「金が許さぬ」のだ。
結局、漱石が求めるのは「明窓浄机。閑適を愛する」ことだけ。つまり、明るく静かな書斎で執筆に打ち込むこと。それ以外の贅沢は諦めている。どういうことかといえば、文章を書いて糧を得ているのだから、食うだけで十分、では足りない。様々なところに出かけて見聞を広めたり、人と議論して思想を深めなければならない。
それらが、作品となり印税が入るまでにはタイムラグがある。いや、そもそも、わざわざ出かけて取材したけど1円にもならないもののほうが多い。そこにめちゃくちゃ金がかかるのだ。
■八雲「月給100円でも足りない」と話したが…
実際「山陰新聞」1891年6月28日付では、八雲が月給100円でも足りないと話していることが報じられている。八雲の場合、あちこちに出かけているのに加えて、煮炊きの煙が嫌だからと、食事は全部旅館や料理店から運ばせている。しかも、夕食は常に洋食だ。そりゃあ、金がかかってしようがない。
もしも、漱石が同じような状況だったら「まったくウチの奥さんの実家のせいで」とか、随筆を書き散らし、ついには小説のネタにまでしそうだ。ところが、八雲はそうしたボヤきを一切残していない。
あえて残さなかったのか、いや、自分の収入がセツの実家に削られていくことをまったく、苦にしていなかったのだろう。その理由は、家族への憧れだ。
八雲は2歳で両親が離婚し、母とも生き別れた。父の親族に引き取られたものの、そこでも愛情に恵まれることはなかった。孤独な少年時代、19歳でアメリカに渡ってからも、家族というものを持つことはなかった。当然、家族というものに憧れがなかったとは思えない。
■憧れた“母の故郷”の家族観
そして、八雲が憧れたのは、もはや僅かな記憶の中で思い出すしかない母・ローザが生まれ育ったギリシャのような大家族であったろう。
地中海世界の家族観は、近代化された英米のそれとはまったく異なる。
祖父母、父母、子供、そして親戚までもが一つ屋根の下、あるいは近隣に住み、日々顔を合わせる。誰かが困れば助け合い、喜びも悲しみも共有する。血縁が生活の基盤であり、一族郎党が運命共同体として生きていく。
働けない者がいれば、働ける者が養う。
老いた者は若い者が面倒を見る。
金を稼げない者がいても、一族全体で支える。
それが当たり前。それが家族。
近代的な核家族観=夫婦と子供だけの独立した世帯から見れば、非効率で煩わしいかもしれない。だが、地中海世界ではこれが「家族」の本来の姿なのだ。
松江で八雲が手に入れた稲垣家と小泉家は、まさにこの地中海的大家族そのものだった。働けない養父母、物乞いまでした実母、後から転がり込んでくる厄介な義弟……これらすべてが、八雲にとっては「ようやく手に入れた家族」の証だったのだ。
(参考:だからセツとの距離が一気に縮まった…「ばけばけ」では描かれない、小泉八雲が重ねた「生き別れた母」の面影)
■“負担”こそが「家族を実感する瞬間」だったか
金がかかる? 当然だ。家族を養うのは、家長の務めである。
働けない養父母を養う? それが何か? 家族なら当たり前だ。
物乞いまでしていた実母を支える? 家族の恥を雪ぐのは当然だ。
厄介者の義弟が転がり込んでくる? 家族だから仕方ない。受け入れるしかない。
しかも、八雲は受け入れるだけではない。本気で説教もする。なぜなら家族だからだ。家族だからこそ、真剣に向き合う。
こう考えると、八雲にとって家族から負担をかけられることこそが、「家族を実感する瞬間」だったのではないか。養父母の世話をし、実母に仕送りをし、義弟の面倒を見る。その一つ一つが、八雲にとっては「自分には家族がいる」という実感であり、幸福な時間だったのだろう。そうして「ああ、やっぱりセツと結婚してよかった」と幸せを噛みしめていたに違いない。
八雲は松江を愛していた。だが、セツが「洋妾」呼ばわりされ、家族が侮辱される状況は我慢できなかった。加えて、より高い給料で家族をもっと幸せにできるなら――熊本への転任は、八雲にとって当然の選択だった。
■家族を全力で守り、誇りを持って養っていた
そして注目すべきは、熊本に移る際、八雲は稲垣家の面々もみんな連れていったことだ。養父母も祖父も、まとめて熊本へ。これこそが、八雲の大家族的な感覚をよく表している。
町の人々は「稲垣家はうまいことやった」と囁いた。だが八雲本人は、ようやく手に入れた家族を、全力で守り、誇りを持って養っていたのである。
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昼間 たかし(ひるま・たかし)
ルポライター
1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。
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(ルポライター 昼間 たかし)

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