なぜ豊臣政権は長続きしなかったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「史料には書き残されていない当時の社会状況を考える必要がある。
それを知れば、家康はもちろん、石田三成や福島正則といった秀吉恩顧の武将たちでさえ早期の政権崩壊を感じていたと想像できる」という――。
■秀吉の死後たった2年で関ヶ原合戦が勃発
ほぼ底辺に近い身分から出世を重ね、関白まで上り詰めた豊臣秀吉。そして、兄の秀吉を支えて権大納言にまで出世した弟の秀長。いくら戦国の世とはいえ、ここまで極から極への下剋上は、この兄弟のほかには日本史上に類例がない。
このため、いったいどうしたら、どんな人物なら、これほどの出世が可能だったのか、という興味がわく。だから、いまなお秀吉は歴史上の人物のなかでも、飛びぬけて関心を持たれ、NHK大河ドラマでは再三取り上げられてきた。しかも、多くは主人公かそれに近いあつかいで、2026年の「豊臣兄弟!」も同様である。
だが、秀吉が秀長と手を携えながら、たった一代で築いた豊臣政権は、崩壊するのも早かった。
慶長3年(1598)8月18日に秀吉が死去すると、すぐに政権内部で激しい政治抗争が生じ、生前の秀吉が整備した体制は、すぐに崩壊へと向かった。浅野長政、前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家の五奉行が実務を執り、それを徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景(のちに上杉景勝)の五大老が監督するという体制である。
そして2年後の慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原合戦が勃発するに至った。
■なぜ簡単に崩壊したのか
この合戦は豊臣政権内部の権力闘争であったものの、家康は慶長8年(1603)2月に征夷大将軍に就任し、2年後の同10年(1605)4月、将軍職を嫡男の秀忠に譲り、徳川による権力の世襲を天下に示した。
そのうえで同20年(1615)5月、大坂夏の陣で豊臣氏は滅ぼされた。
このように豊臣政権は儚かったが、秀吉が築いた絶対的な権力構造は、なぜこうも簡単に崩壊してしまったのか。
これに関して2025年12月末、NHK・BSで「豊臣政権サミット2026 ~なぜ豊臣政権は崩壊したのか~」という番組が放送され、研究者らが討論した。そこでは豊臣政権崩壊の要因についていくつかの説が提示され、意見が述べられた。
最初に示されたのが「史上最強最高の弟を失った説」、すなわち、軍事面でも大名との外交においても政権を支えた秀長が、小田原征伐の翌年の天正19年(1591)1月、早すぎる死を迎えたからだという説だった。次に「秀吉があまりに天才すぎた説」、つまり先見性がありすぎて世の中とのギャップが生じたという見方も示された。
続いて、國學院大学の矢部健太郎氏が提示したのが「秀吉コミュニケーション不足説」だった。秀吉は甥の秀次に関白職を譲ったが、実子の秀頼が生まれると、秀次とのコミュニケーションにズレが生じ、秀次は切腹してしまう。朝廷の最高位の関白がその地位を血で汚したとあっては、豊臣政権は朝廷への体面をたもてない。そこで秀吉は「謀反を企んだので切腹させた」と大名に通達して秀次を大罪人に仕立て、その妻子ら30人を処刑した――。これが豊臣政権の終わりのはじまりだ、という説である。
結果として後継者が幼い秀頼だけになってしまえば、たしかに政権はもたない。

■乳幼児の死亡率がカギ
ほかにも「朝廷とのパイプを失った説」や「民の支持を失った説」、「関東・東北を軽んじていた説」が提示された。むろん、政権崩壊はさまざまな要因が複合した結果だと思われるが、やはり筆者は「秀次事件」により、後継者がまだ数え3歳の秀頼しかいなくなった影響が大きいと考える。
秀吉には天正17年(1589)5月に、実子の鶴松が生まれたが、同19年8月に没している。それ以前には、同4年(1576)の記録に石松丸という名が見られ、実子の可能性もあるが夭折している。実子に恵まれなかった以上、血のつながりのある養子が後継者候補になるが、姉の子である秀次は、文禄4年(1595)7月15日に切腹し、その後、その子息も斬首されてしまった。
それ以外では、秀次の弟の小吉秀勝は、文禄元年(1592)に出兵先の朝鮮半島で病没。その弟の秀保は、秀長の跡を継いでいたが、秀次死去の2カ月前に病死していた。つまり秀次事件の時点で、秀吉と血縁がある男子は、名実ともに幼い秀頼しかいなかったのである。
そうである以上、のちの五大老や五奉行にせよ、福島正則や加藤清正のような秀吉との親類または子飼いの大名にせよ、豊臣政権が今後も続くことを信じていなかったのではないだろうか。戦国時代には、乳幼児の死亡率がきわめて高かったからである。
■秀頼が成人する可能性
江戸時代中期から後期で、1歳未満の乳幼児の死亡率は10%台後半といわれ(※1)、成人つまり15歳程度まで生き残るのは半分程度だった。たとえば11代将軍の徳川家斉は、53人もの子をもうけたが、成人できたのは半数に満たなかった。

戦国時代には、乳幼児死亡率はさらに高かったと考えられる。事実、秀吉の実子も、すでに鶴松が数え3歳で没し、その前には石松丸が夭折していた。死亡率が高かったのは、戦乱による栄養不足などもあるが、医療が未発達で衛生環境が悪く、感染症などのリスクも高かったからだ。
したがって秀頼が成人する可能性、つまり15歳程度まで生き延びる可能性は50%に到底およばず、たとえ成人できても、その後も成長する保証はどこにもなかった。
当時、大名たち自身が上記のことを深く認識していたに違いない。秀吉と血縁のある男子が1人の幼児しかいない状況で、豊臣政権の存続をだれが確信できただろうか。当然、自分が後継者の座に就く可能性を考えた人物も、いたに違いない。
※1 鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』(講談社学術文庫)
■家康に野心がないわけない
そこで多くの人の脳裏に浮かぶのは徳川家康だと思う。「豊臣政権サミット 2026」では、東京大学の本郷和人教授が「豊臣秀吉ほどの優秀な人が、家康の危険性にまったく鈍感だったってとても思えない」と発言した。すると、駿河大学の黒田基樹教授が「どこに危険性があるのか、私はわからない」というので、本郷教授は説明を続けた。「豊臣の直轄地が225万石。そのときになんで徳川家康に250万石もの石高を誇る関東を任せちゃったのか。
このあたりが僕にはいまだにどうしてもわからない」。
守本奈実アナウンサーが「素朴な疑問なんですけど、家康はいつごろから野心を?」と疑問をはさむと、黒田教授は「いや、野心を持ってないですよ」と言い切り、「それは小説家がつくったものですよ」と付け足した。矢部教授も「秀吉が死ぬまでは(野心は)持ってない」という。黒田氏は「それは歴史小説の読みすぎなんですよ」とまで言い及んだが、テレビカメラの前で本郷教授を侮辱するかのような物言いには、筆者はかなり驚いた。
本郷教授は「野心ってさあ、だれだって持ってない?」といったあと、「歴史観というのも、根底に人間があるんでしょうね」と続けると、黒田教授がまた「いや、史料ですよ」と揶揄する。本郷教授は「史料なんてもんはいくらでもウソをつけるんですよ」と反論したが、筆者は本郷教授に同意する。
現政権の後継体制がはなはだ不安定で、いつ潰えるかわからない状況で、事実上の政権ナンバー2が野心をいだかないなど、筆者には想像がつかない。
■歴史学者に決定的に欠けている視点
実際、史料は書く立場によって内容が大きく変わるし、為政者は内容を操作したり、都合が悪いことは消したりと、簡単にコントロールできた。それに、史料に書く必要がない事柄や、あえて書かなかった事柄も、無数にあったはずである。たとえば、自身に野心があるかどうかなど、だれも書きはしないが、史料にないからといって「野心がなかった」と断定できないことなど、人間を知っていればわかる。
そうしたら、磯田道史『豊臣兄弟 天下を獲った処世術』(文春新書)に、我が意を得た表記が見つかった。
「日本の学問としての歴史学は、史実のピックアップにおいては水準が低いものでは、ありません。
しかし、大抵の歴史学者は政治や外交、戦場指揮の現場を踏んだわけではなく、政治記者のように政治家と会う機会も少ないものです。ですから、政治の裏読み、感情で動く政局分析などが得意分野ではありません。得意なのは史実の羅列です。しかし、豊臣兄弟などの分析をしようとすれば、古文書に書かれている文字だけを鵜呑みにせず、史料の行間まで、しっかり読む必要があります」
日本の歴史学の限界を鋭く突いている。
当時の乳幼児の死亡率の高さや成人率の低さを認識している武将たちが、家康にかぎらず野心を持つのは自然なことだと思われる。石田三成のような側近の吏僚も、福島正則のような親戚筋の子飼いも、豊臣政権の存続を希望していたかもしれないが、存続できる可能性が高いと信じていたとは思えない。
■史料に残すはずがないこと
関ヶ原合戦の前後から、日本の城郭の構築技術は急速に高まり、西国大名を中心に、高石垣で固められ広い堀で囲まれた堅固な城郭が数多く築かれた。加藤清正の熊本城などはその典型だが、それはふたたび戦乱の世が訪れると、大名たちが実感していたからである。
その判断の背景にあったのは、秀頼が成長する可能性は高くなく、野心をむき出しにする大名が現れるという読みではなかったか。だが、秀頼が夭折する可能性についてなど、だれも史料に残すはずはない。そういう判断は、史料の行間を読み、当時の社会状況を史料以外からも判断し、さらには、そこで活動した人間の心理を読むことからしかわからない。
豊臣政権が短期間に崩壊したのは、やはり秀次事件を経て、後継者が1人になったことで、だれもその存続を確信できなくなったからではないだろうか。
そういう状況で野心をいだくのが人間という生き物である。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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