ナチス・ドイツはユダヤ人をどのように収容所へ送ったのか。大阪大学の鴋澤歩教授は「約300万人を効率的に運ぶために、鉄道が使われた。
長時間すし詰めの貨車内は劣悪な環境で、赤ん坊をはじめ弱い者から死んでいった」という――。
※本稿は、鴋澤歩『鉄道のドイツ史:帝国の形成からナチス時代、そして東西統一へ』(中公新書)の一部を再編集したものです。
■「死への列車」で運ばれたユダヤ人
第二次世界大戦のほぼ全期間にわたったライヒスバーン(ドイツ帝国鉄道)によるユダヤ人移送(デポルタツィオーン)は、ユダヤ人迫害とその虐殺に、不可欠であった。ホロコーストによる死者の数は推定600万人におよぶ。その半数にあたる300万人が鉄道による輸送の対象となっていたといわれている。
東部の絶滅収容所への鉄道による大量移送がなければ、「ユダヤ人問題の最終的解決」(1941年7月、ゲーリングによって保安警察ハイドリヒ中将に下命)をはかるジェノサイドは、ユダヤ人がまず集められていた居住区、ゲットーでか、さもなければライヒや欧州諸国の各地で個々に実行するしかなかったはずである。
そうした加害も大規模となり、ガス室に劣らぬ残虐さをもっただろうが、数的な達成では現実をいくらか下回ったに違いない。
つまり鉄道は、ホロコーストの効率的な運営と達成に貢献した。また、デポルタツィオーン自体が、生活の場所からの強制的な突然の引き剥がしと、「動く獄房」と呼ぶべき移送中のきわめて過酷な処遇をともない、被害者の苦しみを死の直前までいや増すものだった。
■1100万人の欧州ユダヤ人が殺害対象
第二次世界大戦の緒戦の勝利によって、ナチス・ドイツは征服した東欧・西欧で、ライヒとその周辺から排除すべきユダヤ人をさらに大量に抱えこんだ。ウラル山脈を越えたはるか東方や、あるいはマダガスカル島への、将来の全滅の期待を織りこんだ空想的な追放計画が、しばらくはなお検討された。
戦況の深刻化でこうした企てに実現可能性が完全になくなると、たちまち組織的虐殺への転換が起きた。
戦争遂行の途上で、食糧問題と労働力不足問題とのバランスによって、ユダヤ人の生死が左右されるという残忍なメカニズムができあがる。
「ヴァンゼー会議」(1942年1月20日)は、「ユダヤ人問題の最終的解決」として、この大虐殺にいたる構造が決定された明示的な記録が残っている点でも重要である。
議事記録には「総統のそれに関する事前の許可」への言及があり、これ以前の独ソ戦の途中、おそらく戦況悪化の秋以降にヒトラー本人による殺害方針の決定があったと考えられている。
対象となったのは、ヨーロッパで総勢1100万人とされた全ユダヤ人である。
■すべての道はアウシュヴィッツに通ずる
これに先立ち、ライヒスバーンはすでに多数のユダヤ人を移送していた。戦前の1938年10月にはドイツから多数の「無国籍」ユダヤ人を移送し、ポーランド国境に置き去りにしている(この仕打ちが、「11月ポグロム」の前哨となった)。
開戦後はライヒ各地からポーランドへの移送を繰り返し、1941年春にはワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人居住区)に7万人以上を送りこんでいる。このときは迫害と食糧難にあえぐゲットーで、隔離したユダヤ人を徐々に死滅に追い込もうとするものであった。
ドイツ(ライヒ本体)から東方へのユダヤ人移送は、記録にある限りでは1941年9月・10月により組織的に進められるようになった。各地大都市を起点に、ライヒに残存するユダヤ人を対象とする、リッツマンシュタット(ポーランド名ウッジ)などの中継収容所や、東部大都市のゲットーへの移送がなお主だった。
■ピーク時は、270本の列車が14万人以上を移送
独ソ戦開始の41年秋から、絶滅収容所の建設がはじめられていた。ヴァンゼー会議の決定は、42年春にはじまった「ラインハルト作戦」で実行に移された形となる。
ポーランド総督府内のゲットーが次々と撤去され、ベウジェッツ、ソビボル、トレブリンカといった新設の絶滅収容所への強制移送が開始された。
記録が残されたライヒからの移送の件数・人数のピークも、この42年である。270本の特別列車が、約14万人以上を移送したことがわかっている。同じ年、フランス、オランダ、ベルギーなど西欧の占領地からも同様の列車による移送が開始された。
デポルタツィオーンは、親衛隊ことSS(全国指導者ヒムラー)がライヒスバーンに委託し、三等車運賃を移送規模に応じて支払う契約を結ぶ形でおこなわれた。ライヒ、西欧、南欧からの絶滅収容所への死の移送は、東欧での虐殺と異なり、分業による行政的な手続きという外見を崩さなかったとされる。
■「死の列車」の時刻表を作成
SSの国家保安本部に七局ある国家保安本部各局(RSHA)中の第IV局が、国家秘密警察ことゲスターポ(ゲシュタポ)であった。そのB4課すなわち「ユダヤ人課」の課長がアドルフ・アイヒマン(1906~62)。戦後、イスラエルによって逮捕され、「アイヒマン裁判」で世界の注視を受けることになるSS中佐である。
その部下であるa係長ロルフ・ギュンター(1913~45?)SS少佐が輸送問題の課内の責任者であり、移送計画ごとにガイドラインを作成、各地保安警察とのやりとりをおこなった。各地からは移送人数とともに必要な列車本数、出発駅、期日が上がってくるので、ギュンターのa係がこれをまとめ、ライヒスバーンへの発注をおこなう。
a係のフランツ・ノヴァクSS大尉はここからライヒスバーン担当者との詳細をつめる協議を定期的におこない、発着駅決定と業務時刻表を作成した。

■運行調整を行ったベテラン鉄道員
この定期会合にライヒスバーンから出たのは、交通省鉄道部門ドイツ・ライヒスバーン本部第Ⅱ局(EIIこと営業運行部)第21課(大型輸送担当)第1係(旅行特別列車係)係長オットー・シュタンゲ(1882~1950)であった。
高官というにはあたらない。もう20年も同じポストにいるベテランの鉄道事務官であった。よく自室で電話に向かって声を荒げている姿を、同僚に記憶されている。
彼がユダヤ人課a係ノヴァクSS大尉との会合での受注をもとに多くの国境、占領区や鉄道管区をまたぐ長距離運行の調整をおこなった。
調整による策定結果は、まず第21課長パウル・シュネル(1883~1958)に上げられ、ライヒ内の三管理総局に列車の割り当てと時刻表的な確定がここから命じられた。もっとも役割を果たしたのは、東部管理総局(Gedob Ost)である。
■ユダヤ人移送列車は「Da」「Pj」
管理総局は特別列車の周行計画表(ウムラウフブラーン)を確定し、これを各鉄道管理局に伝え、最終的な時刻表(運行計画)をつくらせた。周行計画表では、ユダヤ人移送特別列車には、「Da」や「Pj」の略号と番号が振られた。
「Da」は「急行列車(D-Zug)」でもあり、「デポルタツィオーン(Deportation)」、あるいはユダヤ人を示す「ダビデ」でもあるといわれる。「Pj」は総督府すなわちポーランドのユダヤ人(Juden)である。
しかしシュタンゲの第1係が運行する「特別列車」は、この「Da」や「Pj」だけではなかった。
平時の当たり前の団体旅行用列車は戦時にはほぼなくなっていたが、戦時ナチス・ドイツでは、児童などの疎開列車や、あるいは東部からの強制労働力を運ぶ列車も「特別列車」であった。
シュタンゲはデポルタツィオーンの促進役であり監視役であったとされるが、のちにいう「死への特別列車」の計画は、一日中執務室にとじこもっていた第1係長にとっても、忙しい日々の業務の一部でしかなかった。
■列車は10両編成、およそ1000人を詰め込む
ライヒスバーンは1日に2万本の列車を運行していた。1日10本ほど走るくらいのデポルタツィオーン列車は、経営の観点からも幹部たちなどが眼中に入れなくてもよい存在であったといえる。
デポルタツィオーンがユダヤ人にいかなる惨苦を与えているのかを考慮にのぼらせる人間は少なかった。大量の悲惨や死はすぐ身近にありすぎたので、他者の運命への同情や共感の能力は鈍麻せざるをえなかったのだろうか。
「死への特別列車」の編成も1回に運んだ人数もかなりばらつきがあるが、1列車で10輌程度の貨車におよそ1000人を詰めこんだ場合が多く、これをモデル・ケースとできる。
明り取りの窓には鉄条網がまかれ、出入り口には外から鍵がかけられた。車内で1人が占有できる面積を単純計算すると、信じがたい数字が出る。長時間すし詰めの貨車内には、排便用のバケツが置かれているだけで、それ以外の設備は、暖房はおろか座席すらない。
■救いを求めて窓から手を突き出す人々
東部の交通事情は早くから混乱渋滞し、そのなかで軍事輸送が優先されたから、デポルタツィオーンの列車は走行を停止し、しばしば長い待機をおこなった。その時間だけ、「乗客」(とライヒスバーンはなお呼称した)の苦しみは増した。

ライヒ内の駅で停車時にはドイツ赤十字の人びとが、護送監視役のSSにコーヒーやスープを振る舞ったが、渇きの救いを求めて明り取りから手を突き出す人びとに、与えられる水はなかった。
SSによる監視は手薄気味だったので、闇夜にまぎれた「飛び降り(ジャンパー)」と呼ばれる決死の脱出者はたしかにいた。少なからぬジャンパーが「常習犯」すなわち複数回の脱出経験者であった、というのはその不屈の意志に驚くべきだが、「飛び降り」が当時のナチス・ドイツでは完全な逃亡成功にはならなかったという意味でもあろう。
移送中に赤ん坊をはじめ弱い者から死んでいったが、ときに三昼夜におよぶ移送の責め苦に耐えて生き残ったとしても、収容所での労働不可能と思われた老人、子ども、多くの女性には、運ばれた先に、選別とすみやかな虐殺が待っていた。
■鉄道員たちはユダヤ人の運命を傍観した
列車の車掌や機関士はライヒスバーンの鉄道員だった。彼らは業務に専念し、「乗客」たるユダヤ人の味わっている悲惨とその果ての運命に対しては傍観をつらぬいた。もしも東部鉄道の従業員であれば、総督府内の駅員や駅労働者の多数はポーランド人である。
彼らはもちろん、ドイツ人のライヒスバーン鉄道員も、デポルタツィオーンの任務中は自分たちもSSの監視対象であることを意識していた。へたに移送ユダヤ人に情をかけて水でもやろうとすれば途端にSSに銃を向けられたのだ、と戦後証言した者もいる。
■ナチスに抵抗した鉄道員もいた
東方での移送や虐殺に関与した経験を重い心の傷にしていた機関士に戦時中に会ったという、ユダヤ少年の素性を隠して潜伏していた演出家の、小説的な回想録の記述もある。また、ナチス・ドイツに公然非公然に抵抗した鉄道人たちもいたことは記録されている。
しかし、総じてライヒスバーンがユダヤ人になんら救済の手を差し伸べず、まずはその迫害と虐殺に必要不可欠の要素として機能したのは、やはり誰にも否定できないことであろう。

戦争のなかでドイツ国鉄は、近隣諸国住民を攻撃する兵器となるとともに、多数の自国民を殺害する機構の一装置とも化したのであった。

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鴋澤 歩(ばんざわ・あゆむ)

大阪大学経済学研究科教授

1966年、大阪府生まれ。博士(経済学)。大阪大学大学院経済学部卒,同大学院経済学研究科博士後期課程中退。滋賀大学経済学部助手、在ベルリン日本国総領事館(当時)専門調査員、大阪大学経済学研究科助教授などを経て、2010年より現職。著書に『ドイツ工業化における鉄道業』(第50回日経・経済図書文化賞)、『鉄道人とナチス』(第44回交通図書賞、第20回鉄道史学会・住田奨励賞)ほか。

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(大阪大学経済学研究科教授 鴋澤 歩)
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