※本稿は、渡邊大門『豊臣秀吉と秀長 天下取り兄弟の真実』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■「温厚な天下人」は虚像
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、青少年期の秀吉・秀長兄弟が、逆境の中でも力強く生き抜く姿が描かれている。これまでの豊臣秀吉といえば、明るくひょうきんな人物像が強調されることが多かった。しかし近年の大河ドラマでは、秀吉が持っていた冷酷で苛烈な一面にも光が当てられるようになった。本稿では、その一例として、秀吉が行ったとされる残酷な処罰の事例を取り上げてみたい。
■秀吉を揶揄した「落書き」事件
秀吉は、自身や政権を揶揄する行為を決して看過しなかった。天正17年(1589)2月、聚楽第南側の鉄門に、秀吉を揶揄する「落書き」が貼り出される事件が起こる。落書きの具体的な内容は一次史料には残されていないが、当時の落書きとは、匿名で人目につく場所に政治風刺や批判、揶揄を内容とする文書を掲示する行為を指していた。
落書きを知った秀吉は激怒したものの、犯人を特定することはできなかった。そこで秀吉は、警備に不備があったとして門番衆17人の責任を問い、死罪を命じる。その刑罰は、初日に鼻を削ぎ、翌日に耳を削ぎ、三日目に逆さ磔とするという、常軌を逸した極めて残酷なものであった。
門番衆に直接の落ち度があったわけではない。それでもこのような刑が科された背景には、秀吉の怒りの激しさがあったと考えられる。その後も秀吉は執拗に犯人捜しを続け、その結果、尾藤道休という人物が容疑者として浮上する。ただし、道休は来歴などが不明な人物であった。
やがて道休が天満の本願寺に逃げ込んだとの情報が入り、秀吉は顕如に身柄の引き渡しを要求する。命を受けた石田三成と増田長盛が本願寺に赴くと、願得寺顕悟という僧侶が、落書きに関与したと思われる牢人をほかにも匿っていたことが判明した。いわば芋づる式に関係者が次々と明らかになったのである。
■京都六条河原で磔刑
顕如はただちに道休と顕悟に切腹を命じ、その首を秀吉に差し出した。しかし、これでも秀吉の怒りは収まらなかった。秀吉は両者の屋敷を破却し、さらに寺内町を焼き討ちにして、関係者を次々と捕縛していく。
同年3月9日、道休の妻子を含む63人が、犯人を匿った罪で京都へ連行された。このうち3人は切腹を命じられ、残る60人は六条河原で磔刑に処されている。
天下人となった秀吉は、自身や政権を嘲笑されることを決して許さなかった。落書きという匿名の批判に対しても、徹底的に犯人を追及し、過酷な処罰を加えたのは、人々に強烈な恐怖と服従を植え付けるためだったと考えられる。
■石川五右衛門の釜茹で
秀吉が見せしめにしたのは、盗賊らに対しても同じだった。中でも石川五右衛門を釜茹でにしたことは有名である。釜茹でとは、文字どおり釜に水あるいは油を入れて煮立たせ、その中に人を放り込んで殺す刑罰である。
石川五右衛門といえば、江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎でも演じられ、人々に広く知られるようになった大泥棒である。架空の人物のように思われているが、実在したことが明らかにされている。ただし、大泥棒だけに、五右衛門の生年や出自は不明な点が多い。
『鹿苑日録』文禄3年(1594)8月23日条の記事には、京都の三条橋の下で、十人の罪人が釜茹でにされたと書かれている。『言経卿記』同年8月24日条の記事にも、京都の三条橋南の河原において、盗人、スリ10人と子供1人が釜茹でにされたと記されている。さらに、首謀者の仲間19人は、同じ場所で磔にされたという。
名前こそ書かれていないが、このとき釜茹での刑にされたのが、石川五右衛門だった。その事実を裏付けるかのように、スペインの商人アビラ・ヒロンの『日本王国記』にも詳しく書かれている。次に、その内容を示すことにしよう。
■落書きに怒り油茹での刑に
京都に盗賊が集まり、巾着切り(スリ)をするため、多くの人を殺害した。それゆえ、京都、伏見、大坂、堺などでは、朝になると死体がゴロゴロとしていた。盗賊のうち何人かを捕縛し拷問したところ、15人の頭目がいることが明らかになった。頭目一人につき、30~40人の手下がいた。15人の頭目は、生きたまま油で煮られ、彼らの妻子、父母、きょうだいに加え、五等親までが連座して磔刑に処された。盗賊らも、一族もろとも同じ刑に処されたのである。
『日本王国記』の注記によると、油で煮られたのは、石川五右衛門と9~10人の家族だったという。当時、京都などの主要都市では、盗賊が活発に活動しており、秀吉は頭を抱えていた。
天下人となった秀吉は、自身や政権を嘲笑されることを決して許さなかった。落書きという匿名の批判に対しても、徹底的に犯人を追及し、過酷な処罰を加えたのは、人々に強烈な恐怖と服従を植え付けるためだったと考えられる。この事件は、秀吉の統治が単なる人心掌握だけではなく、恐怖政治の側面も併せ持っていたことを如実に物語っている。
■女中にも容赦しなかった
秀吉が厳罰を科したのは、盗賊や反逆者といった政権に直接刃向かう存在だけではなかった。史料を読み解くと、身の回りで仕える女中や女房衆に対しても、きわめて容赦のない処分を下していたことがわかる。
その実態を伝える史料の一つが、『時慶記』である。文禄2年(1593)10月20日条には、読者の関心を強く引く記述が残されている。そこには、大坂城において、淀殿の女房衆が主の留守中に「とんでもないこと」をしでかしたと秀吉が耳にし、近いうちに処分が行われるだろう、という趣旨の内容が記されている。ただし、残念ながら女房衆が具体的に何をしたのかは明示されていない。原文には「曲事(くせごと)(けしからんこと)」とだけ書かれており、詳細は不明なままである。
この曖昧な表現を補う史料として注目されるのが、宣教師ルイス・フロイスの『日本史』である。
火刑(火炙り)や斬刑(斬首)に処された者は30名を超えたというから、その規模は尋常ではない。単なる内部規律違反として片付けられるものではなく、異例の大量処刑であったことは間違いないだろう。一方で、秀吉は北政所の侍女であったマグダレナがキリシタンであり、かつ品行方正であることを理解していたため、この事件には関与していないと考えられる。
これら複数の史料を総合的に考えると、「曲事」や「不行跡」とは、男女間の乱れた性的関係を意味していた可能性が高いと見るのが自然であろう。
■不貞を犯した女中をノコギリ轢きに
さらに衝撃的な記録が、『時慶記』文禄2年11月4日条に見える。そこには、秀吉に召し抱えられていた一人の女房が、暇(奉公を辞めること)を正式に願い出ないまま、男と結婚したことが記されている。その処分内容は、読む者を震撼(しんかん)させるほど苛烈であった。
三条橋で生まれた子は殺害され(史料には煮殺したと記されている)、女房とその男は土に首だけを出して埋められ、鋸引きの刑に処されたというのである。秀吉の命によって、一組の男女が極めて残酷な刑罰を受けた事実が、ここから明確に読み取れる。
これらの史料を通じて浮かび上がるのは、秀吉の怒りがいかに激しく、また容赦のないものであったかという点である。驚くほど苛烈な処罰は、男女関係の乱れを厳しく禁じるため、見せしめとして行われた可能性が高い。
規律を徹底するための処罰と解釈することは可能だが、なぜここまで苛烈な対応に及んだのか、その真意は判然としない。女房が秀吉の許可を得ず、無断で結婚したこと自体が、天下人の逆鱗(げきりん)に触れたのだろうか。
■キリスト教に向けられた秀吉の強硬姿勢
豊臣秀吉は、国内統治を進める中でキリスト教勢力に対しても強い警戒心を抱くようになった。天正15年(1587)、秀吉はキリスト教の布教を禁じるため、いわゆる伴天連追放令を発布している。しかし、この段階では宣教師の即時処刑にまで踏み込むものではなかった。
その姿勢が大きく転換する契機となったのが、慶長元年(1596)10月に起こった「サン・フェリペ号事件」である。この事件は同年、スペイン船サン・フェリペ号がメキシコへ向かう途中、嵐に遭遇し、土佐国の浦戸に漂着したことに始まる。船は嵐のため難破し、積んでいた船荷が船外に流出する事態となった。
秀吉はこの報告を受け、増田長盛を長宗我部元親のもとに派遣し、サン・フェリペ号の乗組員を拘留するとともに、積荷を没収するよう命じた。もともと秀吉は、乗組員の身の安全を保証するとスペイン側に伝えていたが、実際に取られた措置はそれとは正反対のものであった。このため、スペイン側は激しく抗議することとなる。
抗議の過程で、スペイン側は自国の領土がいかに広大であるかを強調し、反対に日本が小国であることを述べたうえで、まず宣教師を派遣し、その後に軍事力によって侵略を進める、という趣旨の発言を行ったとされる。
この発言は、秀吉にとっては脅迫めいたものと受け取られた。天下統一を成し遂げた秀吉が激怒したのは、言うまでもない。その後、秀吉は石田三成に命じ、京都にいたフランシスコ会員とキリスト教徒を一斉に捕縛させるという、強硬な措置に踏み切った。
■両脇を槍で刺されたキリシタン
捕らえられた人々に対して、秀吉は耳や鼻を削ぐ刑を命じたと伝えられている。京都で捕縛されたキリシタンたちは、一条戻橋において左右の耳や鼻を削がれたという(『義演准后日記』など)。その後、彼らは雑車(雑用に使う車)に乗せられ、罪人同然の扱いで京都市中を引き回された。これは単なる処罰ではなく、明確な見せしめであった。
それから約1カ月をかけて、捕らえられた宣教師や信徒たちは西国へ移送され、同年12月、長崎においてキリシタン26人が処刑されるに至る。いわゆる「二六聖人殉教事件」である。彼らは長崎へ送られる際、大坂から徒歩で移動させられたとされている。処刑当日、混乱を避けるため長崎では外出禁止令が出されたが、それにもかかわらず、4000人を超える人々が処刑場である西坂の丘に集まったという。
死を目前にしたパウロ三木は、集まった群衆に向かって自らの信仰の正しさを語ったと伝えられている。そして、多くの人々が見守る中、キリシタンたちは両脇を槍で突かれ、命を落としたのである。
宣教師や信徒を単に処刑するだけでは、十分な抑止効果は得られない。秀吉が耳や鼻を削ぐ刑といった苛烈な処罰をあえて行ったのは、キリスト教勢力に対する断固たる姿勢を国内外に示すためだったと考えられる。
この一連の出来事は、秀吉がキリスト教を単なる宗教問題ではなく、国家秩序や安全を脅かしかねない存在として捉えていたことを物語っている。
秀吉の統治は寛容さだけでなく、恐怖と強制力によっても支えられていた。恐怖政治の側面も併せ持っていたのである。一連の出来事は、それらを如実に示す象徴的な事件だったと言えるだろう。
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渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
歴史学者
1967年生まれ。1990年、関西学院大学文学部卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主要著書に 『関ヶ原合戦全史 1582‐1615』(草思社)、『戦国大名の戦さ事情』(柏書房)、『ここまでわかった! 本当の信長 知れば知るほどおもしろい50の謎』(知恵の森文庫)、『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)ほか多数。
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(歴史学者 渡邊 大門)

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