大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)では信長(小栗旬)が秀吉(池松壮亮)に美濃の鵜沼城攻略を命じ、尾張領内の犬山城を落とそうとしている。鵜沼城跡や犬山城を訪れた今泉慎一さんは「なぜ信長はまっすぐに犬山城を攻めず、迂回して木曽川を渡り、美濃領内に入ったのか。
実際に城の跡に行って理由がわかった」という――。
■美濃攻めなのになぜ犬山城へ?
第3回 犬山城(愛知県犬山市)・鵜沼城(岐阜県各務原市)・伊木山城(岐阜県各務原市)
桶狭間の大勝利を成し遂げ、松平元康(のちの徳川家康)と清州同盟を締結。後顧の憂いを絶った信長(小栗旬)は、いよいよ隣国の「美濃攻め」へ。秀吉(池松壮亮)・秀長(仲野太賀)兄弟もその最前線へと派遣される。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)では、秀吉が人質となる危険を冒してまで、鵜沼(うぬま)城(図表1①岐阜県各務原市鵜沼南町7-221)の寝返り工作を画策する。秀吉が鵜沼城調略を任されたのは史実とみてよいだろうが、「人質になった」というエピソードはオリジナル要素が強い。鵜沼城ははたして「命を賭けてでも落とす価値のある」城だったのだろうか。
この時、信長が最終的な標的にしていたのは犬山城(図表1②愛知県犬山市犬山北古券65-2)、美濃ではなく尾張の城だった。
「美濃攻めなのになぜ尾張?」「尾張は信長の支配地では?」と疑問を持たれる方もいると思うので、まずは当時の状況を確認しておきたい。
犬山城の城主は織田信清。信長からみるといとこにあたる。一時は信長方についていたものの、1562(永禄5)年に反旗を翻す。
しかし徐々に押され、最後の砦となったのが尾張国の北端にある犬山城だったのだ。
■木曽川を挟み睨み合う国境の城
犬山城は木曽川にせり出す断崖上に立つ。見るからに難攻不落。木曽川を挟んで南岸が尾張、北岸が美濃。犬山城はその南岸に立つ「境目の城」なわけだが、実は対岸にも同様の城がある。そのひとつが、ドラマ内で秀吉が人質となり、城主の大沢次郎左衛門(松尾諭)を説得しようとした鵜沼城。さらにもうひとつ、伊木山城(図表1③岐阜県各務原市鵜沼1491-18)という城もある。
当時の信長の居城・小牧山城から犬山城までは、直線距離で約10km。陸路を北上して攻めるのが当然のように思える。しかし信長は、わざわざ木曽川を越えて敵国にある二城をまず先に手に入れる戦略をとる。信長は、いったいなぜそんな危険を犯したのか。
■戦う城として見た犬山城
謎解きの前に、犬山城自体がどんな城なのか、攻略する側の視点で見ておきたい。
ただし現在の犬山城は、後世の改修を経たもの。信長が攻めた頃の姿は、あくまで「想像」の域を出ないことを留意しておきたい。
南西側からゆるやかな登りの大手道を登ってゆくと、左手に幅数メートル(m)の堀が見えてくる。隣接する切岸と、それに沿うように弧を描いて伸びるこの堀は、戦国時代の名残では? と思わせる地形。犬山城は、北と東に比べて、南と西側の傾斜がゆるやか。弱点をカバーするための遺構といえるのではないか。
大手道はその先、石垣により何度か屈曲しながら登ってゆく。
立派な石垣は江戸時代に築かれたものと思われるものの、基本的な導線は変わっていないのではないか。城の中央部を進む大手道を、両サイドの曲輪から挟撃。大手道の終点まで到達しても、今度は正面の本丸も加えて三方から叩く。落とすには相当の犠牲を強いられることだろう。
■犬山城から見た敵の二城
犬山城といえば、全国に12しかない現存天守のひとつ。
しかも、1601(慶長5)年築で現存最古(諸説あり)。
こちらも建物自体は信長時代ではないが、最上階まで登ると、鵜沼城、伊木山城との位置関係がよくわかる。
伊木山城のさらに右奥には、当時、美濃を領していた斎藤家の本城、稲葉山城のシルエットも見える。敵の敵は味方。信長と対立している信清にとっては、斎藤家との連携は必須だったはずだ。
■秀吉が人質となった城の今
大河ドラマでは、2話にわたって登場することになった鵜沼城。だが、史実ではあまり記録が残っていない。城主の大沢氏は斎藤家に従って信長と戦い、のちに降伏したことはわかっているが、詳細は不明だ。
その落差は犬山城には劣るものの、鵜沼城もまた木曽川べりに立つ断崖絶壁の城。比高(麓からの高低差)は約50m。むきだしの岩盤はほぼ垂直といっていい。
残念ながら城域は現在、立ち入り禁止。
余談だが、かつて山上には「城山荘」という料理旅館の別館があったが、1972(昭和47)年に火災により閉館。太平洋戦争後しばらくは、進駐軍の専用クラブだった時代もあったとか。
鵜沼城自体へは立ち入れないので、直下に架かる犬山橋から木曽川の下流、つまり西方を眺めると、相互の位置関係がよくわかる。
南岸の犬山城を、北西から鵜沼城、北東から伊木山城が挟むような格好。木曽川を挟んで、三城が睨み合っているというわけだ。
では、もう一つの伊木山城を覗いてみよう。
■信長が陣を構えた山城の利点
伊木山城の標高は173mと、実は犬山城のそれより高い(犬山城は82m)。現在「伊木の森」と名付けられた自然公園になっている伊木山一帯が城域だとすると、東西約600m、南北約300mはあり広大。犬山城や鵜沼城のように断崖ではないものの、比高は約110mとなかなかだ。
伊木山城には、美濃攻めの際に信長が陣を敷いていたという。位置的にみて、犬山城攻めの際にも、ここを押さえていたとみるのが自然だろう。城内にはあまり城らしい遺構は見られないが、それなりの兵数を置くのにふさわしく思える地形も確認できる。

■伊木山に登ると分かる信長の軍略
特筆すべきは城内からの眺望だ。
城域の東端には、「キューピーの鼻展望台」という突出部がある。ここに立てば、信長がなぜ、伊木山に陣を敷いたのかがよくわかる。
眼下に木曽川の流れをはさんで、犬山城が丸見えだ。しかも、標高差があるので上から見下ろす格好になっている。これなら犬山城内の動きが、手に取るようにわかったのではないだろうか。城攻めのための陣を敷くに、実に理想的な立地だといえる。
以上は戦術的な視点からの分析だが、もう少し視野を広げて戦略的に考えてみると、信長が鵜沼城、伊木山城を先に押さえた意図が見えてくる。犬山城は尾張に属するが、信長と対立している犬山城主の信清は、美濃の斎藤家の支援が必須。ならば、稲葉山城ほか斎藤家の諸城と連携を断ち切るために、あえて敵国・美濃側へと乗り込んで、二城を押さえてしまえばよい。
信長がそう考えたのであれば、(あくまでドラマ内での話だが)秀吉が体を張って鵜沼城を調略しようとしたのもうなずける。そして、1565(永禄8)年、信長の思惑どおり犬山城は落ち、信清は甲斐の武田家を頼って落ち延びて行った。
信長は尾張一国を統一し、美濃攻めを本格化させる。天下統一へと大きな一歩を踏み出す戦いが、ここで起こったのだ。

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今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)

古城探訪家

1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。

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(古城探訪家 今泉 慎一)
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