■乗っ取られても途絶えなかった織田の血
『豊臣兄弟!』で本能寺の変(天正10/1582)が描かれるのは、予想では7月くらいではないかと思う。織田信長は明智光秀に討たれ、ここで姿を消す。
本能寺の変では信長の嫡男・信忠(のぶただ)も光秀に攻められ、二条新御所で自刃して果てた。
ただし、信忠の嫡男・三法師(のちの織田秀信(ひでのぶ))は健在であり、織田嫡流の血統が途絶えたわけではない。通説では、この三法師が織田家の後継者を決める清洲会議で羽柴秀吉に擁立されたことになっているが、最新の研究では、実際は信長・信忠の存命中から三法師が家督相続者であることは決定していたともいう。
いずれにせよ後継者は三法師であり、まだ幼いゆえに信長の次男・信雄(のぶかつ)と三男・信孝(のぶたか)、つまり三法師の叔父たちが後見人となり、羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興が補佐する体制となった。
だが、結論をいえばこの体制は暫定的な措置に過ぎなかった。翌年の賤ヶ岳の戦いで勝家と信長三男・信孝が秀吉に滅ぼされると、三法師は秀吉の支配下に置かれた。一応、織田宗家当主としての地位を保ってはいたが、秀吉に「庇(ひさし)を貸して母屋を取られた」も同然で、織田家は実質的に秀吉に乗っ取られた。三法師はその後、秀信と名を改め慶長10(1605)年、高野山で没したと伝わる。子はいなかったので断絶である。
では、織田家はその後どうなったのか? 実は信長の長子直系が途絶えただけで、幕末まで大名として存続している。
■茶人として徳川と豊臣を渡り歩いた
秀吉・秀頼の2代で滅亡し、わずかに秀吉の姉・日秀尼(にっしゅうに)の血統だけが後世につながった豊臣とは違い、織田はしぶとく生き残った。豊臣は時代の徒花(あだばな)であり、織田は近世まで足跡を残した名門だったといえるのである。
掲載した略系図が、大名として存続したその後の織田である。なお似たような名前が多く紛らわしいため、この記事で扱う主要人物には1~8まで番号を付けている(※編集部注:外部配信先では図表が表示されない場合があります。その際はPRESIDENT Online内でご確認ください)。
【1.織田長益(ながます)(有楽斎(うらくさい))】
信長の弟。兄の没後は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)(博学さを活かして主君の話し相手をする役)となった。一流の茶人として「有楽流」という茶道の流派をたて、京都・建仁寺の塔頭・正伝院(現在の正伝永源院)に庵を興したことでも著名だ。
武将としては慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に属し、戦後は大和国(奈良県)に3万石を賜りつつ、関ヶ原後も豊臣家を補佐した。
慶長19(1614)年の大坂冬の陣では大坂城に籠城したが、もとより和平を推進していた穏健派だったことから、徳川家康とも独自の交渉ルートを持っていたと考えられ、翌年夏の陣に向けて再戦の機運が高まると、密かに大坂城を脱したという。元和7年(1621)没。
■城なき一万石の小藩
【2.織田長政(ながまさ)】
有楽斎の長男・長孝は関ヶ原の戦いの軍功を認められて美濃国(岐阜県)に野村(のむら)藩を立藩したが、わずか2代で子が絶え、無嗣改易(むしかいえき)(後継がいないため取り潰される)となった。
四男の長政は父・有楽斎から大和国に1万石を分与され、これが戒重(かいじゅう)藩(奈良県桜井市)となる。藩庁は陣屋だった。陣屋とは城を持たない大名の屋敷で、つまり規模の小さい藩だった。
寛保2(1742)年に陣屋を芝村(同じく桜井市)に移転したことから、以降、芝村(しばむら)藩と呼ばれ幕末まで存続。11代藩主・長易(ながやす)は、戊辰戦争では小大名ゆえに幕府・新政府のどちらに味方するか迷ったようだが、最終的には新政府軍に与し、明治2(1869)年に藩知事に任命された。
明治4(1871)年の廃藩置県に伴い免職となったが、その後、子爵に列している。
■大和と丹波に根を下ろした
【3.織田尚長(ひさなが)】
有楽斎の五男。有楽斎の章で前述した通り慶長19(1614)年当時、父の有楽斎が豊臣に与していたため、大坂冬の陣が終わると和平交渉の証しとして徳川に人質に出されている。だが、このように有楽斎と家康がつながっていたことが、尚長が命脈を保つ鍵となる。
大坂夏の陣の戦後は、兄・長政と同じく父から大和国に1万石を分与され、柳本(やなぎもと)藩(奈良県天理市)の藩祖となった。
柳本藩は幕末維新まで13代の藩主を輩出したが、4代・秀親(ひでちか)が宝永6(1709)年に殺害されたり、享和2(1802)年には重税に反対した農民が一揆を起こしたりと、改易の危機が何度かあった。
【4.織田信包(のぶかね)】
信長の弟。信長の伝記である『信長公記』では、信包は信長次男・信雄と、三男・信孝の間に列していると記されている。その通りだとしたら、織田一門のなかでも序列は上位にあったと考えられる。
理由は不明だが、信長の兄弟でも別格の地位であった可能性があるわけだ。信包の子孫が存続したのは、記録には残らない何らかの功績を評価されてのことだったかもしれない。
兄の死後は秀吉に仕え、天正5(1577)年の雑賀衆攻め、いわゆる紀州征伐などに活躍し、伊勢の安濃津(三重県津市)に15万石を与えられた。しかし、天正18(1590)年の小田原征伐で不手際があり、秀吉の不評をかって改易。
のちに許されて御伽衆となり、慶長3年に丹波国の柏原(かいばら)(兵庫県丹波市)に3万6000石を与えられ、柏原藩を興した。ただし同藩は3代で無嗣断絶。慶安3~元禄8年(1650~1695)まで天領(江戸幕府の直轄地)となり、その後、信長次男の信雄(のぶかつ)(数字5)の子孫に継承される。
■信長の血統――プライドが災いした波乱の生涯
【5.織田信雄(のぶかつ)】
信長の主要な子どもは長男・信忠、・次男・信雄、三男・信孝が知られているが、この内、後々まで存続したのは信雄の子孫である。
信雄の生涯は紆余曲折があった。清洲会議で三法師の後見となったのは前述したが、その直後に尾張・伊賀・南伊勢に約100万石を知行し、立場は安泰と思われた。
しかし、徳川家康と結託して天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いを起こして秀吉に反し、また小田原征伐後の所領配置において家康の旧領(三河・遠江)への移封を命じられると、信長の息子として尾張にこだわりがあったのか、これを拒否。秀吉から怒りをかって追放されている。
その後、家康が秀吉との間を仲介してくれたため御伽衆に就くものの、秀吉没後は関ヶ原で東西どちらに与するか曖昧だったせいか失脚。そして大坂の陣では今度はまた徳川に与するといった具合であり、プライドが高かったのか、クセの強い一面が読み取れる。
ともあれ最終的には家康の支配下に収まり、大坂の陣後は大和国と、飛地(とびち)(地理的に分離した領地)として上野国(群馬県)に、合わせて5万石を与えられ、江戸幕府から相応に遇せられる存在となった。
■失脚、降伏、没収も耐えしのぐ
【6.織田信良(のぶよし)、8.織田信浮(のぶちか)】
信雄は何人かの男子をもうけたが、そのうちの2人が後世に血をつなげた。1人が四男の信良である。前述の通り父の信雄が起伏に富んだ生涯を送った関係で、信良も少年期は苦労した形跡がうかがえる。例えば、信雄が秀吉から追放されていた天正18~19年(1590~1591)頃、行き場をなくして一時的に細川忠興のもとに身を寄せていたともいわれる。
苦労を重ねたからこそ、のちに粘り強く生きたともいえよう。
信良の系統は明和3(1766)年、7代藩主・信邦(のぶくに)が失脚し、幕府から強制的に隠居させられてしまう。苦労して藩を興したのを、子孫が台なしにしてしまったわけだ。
だが代わりに弟の信浮が家督を継承し、小幡藩から出羽国高畠(山形県東置賜郡高畠町)への移封を命じられ、高畠藩を立てた。藩庁は陣屋だった。天明の大飢饉(1782~1788)などによって、財政はつねに厳しかった。
領地が現在の山形県天童(てんどう)を中心としていたため、文政11(1828)に陣屋を移転。以降、天童藩と呼ばれた。戊辰戦争では奥羽列藩同盟に参加し、新政府軍の攻撃にさらされ降伏する。所領も没収された。
しかし明治時代に入ると、藩知事は天童藩から出た。名門・織田の権威は失われてはいなかった。
■御家騒動を乗り越え、京を守る
【7.織田高長(たかなが)】
最後に取り上げるのが、信雄の血を後世につないだもう1人の息子、五男・高長だ。この人は父の信雄の領地のうち、大和国宇陀松山(うだまつやま)(奈良県宇陀市)3万石を相続した。
ところが元禄7(1694)年、高長の子孫たちが家督をめぐって御家騒動を起こした。当時の幕藩体制において、御家騒動は御法度である。
名門・織田の血統ということから御家取り潰しは避けられたものの、石高は2万石に減らされ、丹波国柏原藩へと減移された。柏原藩は前述の信長の弟・信包が立て、わずか3代で無嗣断絶した藩である。
柏原藩の藩政は厳しかったが、8代藩主・信敬(のぶたか)(のぶのりと読む説もある)が倹約を旨とする改革を行い、9代藩主・信民(のぶたみ)が藩校を設立して藩士の教育に力を入れるなどして存続をはかった。
幕末期は早くから尊皇攘夷に共鳴し、大政奉還後の京都守備などを担った。最後の藩主・信親(のぶちか)は明治維新後、柏原藩知事に就任している。
■野望を持たず、目立たず、矜持は持って生きよ
こうして見ると、信長という英傑の血を引きながらも、一族では地味な存在だった人物(有楽斎)や、または立場が二転三転して苦労した武将(信雄)の末裔が、織田の家を維持したことがうかがえる。
歴史研究家の河合敦は江戸時代の藩の数を、「江戸初期から後期に向かって緩やかに増加していくが、おおむね260~280藩で推移していった。ただ、無嗣断絶や不始末などで改易された藩を合わせると、およそ500藩程度になるだろう」という。約200以上の藩が消滅していったわけで、生き残るのは並大抵ではなかったといって良い。
信長の末裔の大名たちは、いずれも藩庁は「城」ではなく「陣屋」の小藩だった。数十万石を有する大藩でも財政難で四苦八苦していたのだから、小藩の経営は試練の連続だったろう。
織田の子孫は、そうしたなかを生き抜いた。正式な文献史料はないため想像に過ぎないが、先祖・信長のように野望を持たず、目立たず、しかし織田の矜持は持って生きよといった処世術が、極秘に家訓として伝わっていた可能性すら思わせる。
「家」を末代に残すとは、歴代の主(あるじ)と家老たちが地道に経験を積み重ねた結果なのかもしれない。
参考文献
・『江戸三百藩大全』(廣済堂出版、2015年)
・『サライの江戸 江戸三百藩大名列伝』(小学館、2018年)
・『江戸の500藩全解剖』河合敦(朝日新書、2022年)
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小林 明(こばやし・あきら)
江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表
編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。
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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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