「働きすぎ」は家庭にどのような影響を与えるのか。社会心理学者のデヴォン・プライスさんは「激務をこなし、子育てをしながら、部下からは話のわかる信頼できる上司として奮闘していた女性は、働きすぎが原因で夫婦崩壊の危機に陥った。
スローライフを手にしたことで夫婦関係は改善された」という――。
※本稿は、デヴォン・プライス『なぜ休むことに罪悪感を覚えるのか』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の一部を再編集したものです。
■仕事も家庭も順調だった女性に起きたこと
知り合った当時、ジュリーはシカゴを拠点とするNPOの代表をしていた。そのNPOは、シカゴの公立校、特に財務状況や教員数に問題の多いサウスサイドとウエストサイドの生徒を対象に、クリエイティブ・ライティングの授業を提供していた。生徒の多くと同じ黒人やラテン系の俳優や作家、パフォーマーが授業を行い、生徒たちはその機会を楽しみにしていた。書くことを通じて子どもたちの創造力を開花させるのがNPOの目標で、毎年、数百人がこのプログラムを受講し、短編小説や対話劇、あるいは本人の興味あるテーマについて説得力のあるエッセイを書けるようになっていた。
NPOの代表として、ジュリーは助成金の申請書類を大量に作り、物資不足やスタッフ解雇にならないよう健全な経営を行い、今後に向けて安定的な財政基盤を築いた。職員向けの専門研修も実施し、好評だった。スタッフの私的な問題への支援や緊急医療が必要な場合にはサポートもしていた。シカゴの公立校で教育経費が削減され、閉校が相次いだときには、教師のストライキやデモの現場にジュリーも駆けつけて連帯を示し、子どもが教育にアクセスできる環境を守るために闘った。バリバリと仕事で大活躍していたジュリーだが、同時に不安障害を抱えながら乳児を育てていた。
当時のジュリーは、まさに人間発電機とも呼ぶべき生産性の塊だった。
激務をこなし、正義を求めて闘い、子育てをしながら、NPOのメンバーにとっては話のわかる信頼できる上司として奮闘していた。言ってみれば、ジュリーは「怠惰のウソ」が命じたゲームに全参加して連戦連勝している状態で、まさに「ハブ・イット・オール」(仕事も家族もすべてを手に入れる女性像)を体現していた。
■他の女性と関係を持ち「自殺したい」と言う夫
だが、娘が1歳の誕生日を迎えた翌日の夕方、帰宅したジュリーに、夫のリッチは言った。
「もう君への愛情がなくなった」
ジュリーの人生は一気に崩壊しかけていた。以降2年間は、夫婦向けのカウンセリングに通い、精神科医など各種の医者にかかり、転居し、ヨガをたくさんして、いくつも仕事を辞めた。
ジュリーにとっての優先順位が、がらりと変わったのだ。以前より「怠惰」なスローライフを受け入れるまでの、長い旅が始まったのだった。ジュリーに「もう愛情がない」と告げた後の数カ月で、リッチはひどく不安定になり衝動的な行動が増えた。ジュリーのNPOの女性スタッフとも関係を持った。明らかに抑うつ的になり、自殺したいと言い出すようになった。ジュリーは離婚を考えず、リッチを支えて、彼の態度が激変した原因を一緒に探そうとした。彼がわざとひどい態度を取っているわけではない、という直感がジュリーにはあった。

「必死だったわよ。こんなの私の知ってる夫じゃない、リッチはこんな人じゃないって。20歳の頃からずっと一緒なんだから、お互いのことはよくわかってるもの」
精神科医の受診を重ねて、ジュリーの直感は正しかったと判明した。リッチには双極性障害があり、出張の多いフルタイムの仕事と育児を両立するストレスで発症したのだった。リッチは長年、病気があるのを知らずに自力で症状を抑え込もうと頑張ってきたが、生活のストレスは増え続け、症状が悪化していった。こうしてジュリーは夫リッチとの夫婦関係の修復に加えて、彼がちゃんと生きていられるようサポートに奔走することになった。
■こころのホットラインに助けを求めた
ある夜、リッチの精神状態が極めて悪化したため、ジュリーは彼を病院に連れていった。支援を求めてジュリーは「こころのホットライン」にも電話をかけた。予想外にも、相談員はジュリー自身の状態について確認した。
「あなた自身はどうしているの? 大変でつらい時期だけど、自分の心をいたわるために何かできている?」
答えられるようなことは何もしていない、とジュリーは気づいた。自分のメンタルを気にする余裕など皆無だった。
「それでやっと、こんなの無理って気づいたの。
2人ともフルタイムで働きながら、私一人で娘と夫と会社とスタッフ全員のケアもやるなんて。ストレスだらけで、続けられるわけがない」
夫婦で優先順位を考え直さなきゃいけない、とジュリーは気づいた。仕事や娘の世話、2人の関係、心の病など、多忙な上にストレスも多く、無理がたまっていた。そこでジュリーは計画を立てた。リッチの仕事はシカゴでなくても中西部にいればできるから、生活コストの安いところへ引っ越せばいい。家賃や物価が高くないところに住めば、ジュリーは家で娘とリッチのために時間を使えるし、リッチも休んで治療と向き合えるはずだ。都会の喧騒を離れて郊外に住めば、ジュリー自身にも自分をいたわる余裕ができるはずだ、と。
やってみよう、とリッチも同意した。ジュリーはNPOの代表を離職し、持ち家を売って引っ越しの資金にあて、ウィスコンシン州に居心地のよい値ごろな家を見つけて転居した。
■他の人を思いやる心の余裕ができた
「私たちは恵まれていたから、かなり鼻につく話だよね」とジュリーは言う。「持ち家を売ればかなりの金額になるとわかっていたから踏み切れたの。すごくラッキーだった」
現在のジュリーは「専業ママ」を自称しつつ、自宅で複数のビジネスを立ち上げている。
ウィスコンシンに移住して4年で、小規模ながら3社を起業した。相変わらず猛烈に働く癖は抜けていないようだが、それでも、以前と違って息をつく余裕ができたとジュリーは言う。
「今は自分のことや他の人を思いやる心の余裕ができた。だから前よりはずっと優しく寛容になれたと思う。シカゴにいた頃は、さあ出勤だ、お迎えだ、ひどい渋滞だけど娘をどこで降ろそう、どこに車を停めよう、って考えてばかりで周りが見えてなかった」
今では、ジュリーは自分の仕事量にリミットを設定し、家族にストレスがたまらないよう気をつけている。そこを間違うと取り返しがつかないと知っているからだ。ダンススタジオでパートタイム講師の仕事を始めたジュリーだが、講師間で人間関係の争いがあり、それが自分のストレスになっていると気づいた。ダンス業界は性差別や体型差別が根強く残っており、そのような環境に娘や自分を置きたくなかったこともあって、彼女はすぐに仕事を辞めた。数年前のジュリーだったら、仕事を始めてすぐにノーの意思表示をするのは困難だったろう。
■働きすぎから脱して得たもの
ジュリーにはすでに、自分自身の優先順位でスケジュールを組み直し、自分なりの生活ルールを守る感覚が身についていた。自分にとって良くないことは避けられる。
「これは本当に陳腐な物言いだけどね、ヨガでバランスのポーズをするたびに、バランスを取るってこんなに大変なんだと思うの。
常に意識して、重心を保てるよう変化し続けなきゃいけない」
ジュリーとリッチは結婚生活でも健やかなバランスを取れるようになった。家族や友達にこれまでの経緯を隠さず率直に伝えて、困ったときに助けてもらえる関係を構築していった。2人の間のコミュニケーションも見事なほどに変わっていった。
「ある日の夕方、私はメンタルがやばいなと思っていて、リッチもそうだった。2人とも家のことをしていたのだけど、私はリッチに、『多分このままだと喧嘩になるよ』って言ったのね。
緊張が高まってきているのに気づいて、『これを口に出して伝えてみたらどうなるかな』と思ったわけ」怒りが湧いてくるのに気づいたジュリーは、リッチと話して、感情を鎮めることができた。
「リッチはね、『僕は喧嘩したくない』と言ったの。で、『私もだよ』って伝えた。この逃げ出したいやばい感じを口にするのは怖かったけど、おかげで喧嘩せずにうまくいなすことができた」
ジュリー、リッチと話していると、お互いに率直に洗いざらい話せる心地よい関係だな、といつも思う。2人の間の穏やかさ、誠実さというのは、他のカップルの間にあまり見ないものだ。一度はずたずたになった関係を彼らは立て直し、剥き出しだけれど、辛抱強く続けられる関係へと変えていった。2人ともが働きすぎのままだったら、この関係性は作れなかっただろう。

■豊かな人生のために
ジュリーの話を逃げや諦めだと受け取る人もいるかもしれない。実際、ジュリーの母親は、娘が生き方を変えたことをなかなか受け入れられなかったという。ジュリーは自分の変化を「サレンダー」(降伏、身を委ねるの意)と呼んで、腕にそれを表すタトゥーを入れた。それを見た母親は困惑した。
「タトゥーについて母親にあれこれひどいことを言われたよ。なんて情けない言葉なの、とか」 でも、ジュリーの新しいタトゥーや生活のあり方は、「何もかもをコントロールできるわけじゃない」という、彼女が自分で見つけた考え方を表したものだ。自分を心身共に健康で幸せに保ちながら、フルタイムの仕事と子育てをこなし、夫婦関係の再構築も同時にやるなんて、できるわけがない。自分に必要なことを差し置いて、他のみんなのニーズを優先するわけにはいかない。豊かな人生のためには、何かを諦めなくてはならない。機会を逃したとか仕事を断ったからといって、いちいち罪悪感を持たなくていい。そう彼女は学んだのだ。

----------

デヴォン・プライス
社会心理学者

オハイオ州立大学で心理学と政治学の学士号を取得後、シカゴ・ロヨラ大学で応用社会心理学とデータ・サイエンスの講義を行う。近著に『Unmasking Autism: Discovering the New Faces of Neurodiversity』(未邦訳)、『Unlearning Shame: How Rejecting Self-Blame Culture Gives Us Real Power』(未邦訳)などがある。

----------

(社会心理学者 デヴォン・プライス)
編集部おすすめ