※本稿は、渡邊大門『論争 本能寺の変』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
■信長に同行した「関東見物」の真実
次に、武田氏討伐後における光秀の処遇をめぐって、本当に信長家臣団の中で出世競争に敗れたのか確認しておこう。
天正10年(1582)、突如として信濃の木曽義昌が武田勝頼を裏切り、織田信長方に寝返った。
義昌は、武田氏の親類衆だった。驚いた勝頼は義昌を討つため、1万5000の兵を遣わした。
勝頼の出陣を知った義昌は、信長に援軍の要請を行うと、信長は嫡男の信忠を先鋒とする軍勢を派遣したのである。
同年2月、光秀は甲斐への出陣準備を命じられた(『信長公記』)。同年3月、信長は光秀、筒井順慶、細川藤孝らを引き連れて、安土城(滋賀県近江八幡市)から甲斐国へ向かったのである。
信長が甲斐国に向かったのは武田軍を討つためではなく、勝利を確信したうえでの「関東見物」だった(『古今消息集』)。公家の近衛前久が同道していたのは、その証左である。
■なぜ光秀だけ恩賞がなかったのか
同年3月、信忠の軍勢は天目山(山梨県甲州市)で勝頼を死に追いやり、武田氏は滅亡した。軍功を挙げた滝川一益(かずます)は、上野国と信濃国(小県、佐久両郡)を与えられ、「関東管領」というべき地位に躍進した。
同年4月、光秀は甲斐から帰還したが、まったく恩賞を与えられなかったのである。
当時の光秀の心境について、光秀が信長に同道したことは「近畿管領」として当然の職務としつつも、その心中は穏やかでなかっただろうと小和田哲男氏は指摘する(『明智光秀 つくられた「謀反人」』PHP新書、1998年)。
その理由は、光秀が武田氏との戦いでまったく期待されず、戦功を挙げる可能性がない出陣だったからだという。
しかし、光秀は信長に随行しただけであり、戦闘に加わっていなかったのだから、それは当然のことだろう。
一方で、光秀より格下の一益が勝頼の首を取る軍功を挙げ、「関東管領」になったことは、光秀を大いに焦らせたと小和田氏は指摘する。
光秀が甲斐で戦闘に加わらなかったことは、信長に対する不満あるいは不安を生じさせたのである。
■光秀が戦闘に参加しなかった理由
結果、一連の出来事が、本能寺の変につながったということになろう。この見解については、いささか疑問が残る。
先述のとおり、光秀は戦闘に加わるため甲斐国に向かったのではなく、単に信長に同行しただけである。
一益は武田氏討伐で軍功を挙げたのだから、相応の恩賞を授かったのも当然といえよう。
信長の配下の者には役割分担があり、すべての家臣に武田氏討伐を命じるわけにはいかなかった。
当時、光秀は本拠の近江や丹波を含めた、畿内を中心としたエリアが活躍の場だったので、信長は光秀に出陣を命じなかったと考えられる。
光秀が武田氏討伐に出陣しなかったのは、自分の持ち場ではなかったからだろう。
一方で、光秀が信長に同道したことは、2人の良好な関係を意味していると推測される。信長が光秀を嫌っていたら、同道させなかったに違いない。したがって、武田氏滅亡の一件で光秀が後れを取り、大きな不安を抱いたと考える必要はない。
■「秀吉の麾下に入る」という屈辱
次に、小和田氏は、光秀が秀吉との出世競争を意識していたと指摘する。
天正9年(1581)2月、京都で正親町天皇を迎えて馬揃えを挙行した際、準備を担当したのは光秀だった。
小和田氏は秀吉が中国攻めに出陣中だったので、光秀に役が回ってきたが、もし秀吉が出陣していなければ、準備を担当していた可能性を示唆する。
それほど2人の実力は拮抗していたというが、馬揃えの担当を秀吉が担当するという予想は単なる憶測にすぎず、明確な根拠はない。
天正10年(1582)5月、信長は光秀に出陣の命令をした(『信長公記』)。当時、秀吉は備中高松城(岡山市)を水攻めにしており、攻防は最終局面を迎えていた。
光秀は信長の命により、ほかの諸将とともに、秀吉の援軍として出陣するよう命じられたのである。
この点について小和田氏は『明智軍記』の記述をもとにして、次のように指摘する。
光秀が備中国に出陣することは、そのまま秀吉の麾下(きか)に入ることを意味する。
ここまで光秀は「秀吉に勝った」と思っていたが、ここにきて「秀吉に負けた」ことを強く意識することになった。
■「近畿管領」から地方へ左遷された
こうした光秀の思いは、のちに本能寺の変を引き起こす副次的な理由になったと小和田氏は述べる。
小和田氏は信長が光秀に出雲・石見の2カ国を与え、代わりに丹波と近江国志賀郡を召し上げるという『明智軍記』の記述を取り上げ、光秀は信長の意向を聞いて大いに落胆したという。
光秀の配置転換は本能寺の変の怨恨説につながったのだが、小和田氏は怨恨説を否定するのだから矛盾する。
小和田氏は、さらに次のようにも述べる。
光秀が2カ国の大名になるのは、形の上では栄転である。しかし、石見、出雲は京都から遠く離れており、「近畿管領」として政権の中枢にいた光秀にとっては、左遷だったという。
つまり、光秀は日の当たる栄光の座から引きずり降ろされ、しかも秀吉の応援に向かわされたのだから、その処遇に不満を持ったということになろう。
『明智軍記』は史料として質が劣るものであり、小和田氏もその点を熟知しているはずである。その記述内容を否定的に捉える一方で、肯定的にも捉えるというダブル・スタンダードというスタンスを取っている。
■最強の援軍に選ばれた実力者・光秀
『明智軍記』は内容に誤りが多く、歴史史料として問題があるのは周知のことであり、そもそも検討の素材にはならない。
信長が光秀を秀吉の応援部隊として派遣したのは、その実力を買っていたからだろう。これまでも光秀は、信長の指示で各地を転戦し、大いに軍功を挙げていた。
最大の敵の毛利氏との一戦で、局面は大詰めを迎えていたのだから、もっとも力がある家臣を派遣し、信長が勝利を確実なものにしようと考えたのは当然のことである。
左遷を考えていたような武将を派遣するなど逆効果で、あり得ないのではないだろうか。
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渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
歴史学者
1967年生まれ。1990年、関西学院大学文学部卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。
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(歴史学者 渡邊 大門)

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