※本稿は、渡邊大門『論争 本能寺の変』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
■「6月2日」という決行日の謎を解く
天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が勃発した。
明智光秀がこの日を選んだ理由は、今のところ明確ではない。
光秀がこの日になって、急に信長を討とうと思い立ったとは思えず、前々からチャンスをうかがっていたのは間違いないだろう。
そして、日頃から信長の動きを探っていたと推測される。
信長が上洛し、本能寺に入ったのは5月29日であり、しかもわずかな手勢しか率いていなかった。
この千載一遇のチャンスを逃すことなく、光秀は信長討ちを決断したと考えられる。
上の見解に異議を唱えたのは、藤田達生氏である(『明智光秀伝 本能寺の変に至る派閥力学』小学館、2019年)。藤田氏は「自家の滅亡につながるような重大な意思決定が、主君のとっさの判断でできるとでも考えているのであろうか」と批判する。
藤田氏は「光秀が好機を逃さず行動に移した」という見解を否定し、あくまで6月2日である理由があったと指摘する。以下、藤田氏の見解を取り上げ、検討することにしよう。
■四国攻撃軍の渡海阻止は可能だったか
藤田氏は以下のとおり、光秀が6月2日に挙兵した一つ目の理由として、織田信孝(信長の三男)が率いる四国攻撃軍の四国渡海を阻止するためだったと述べる。
6月2日、信長の命を受けた信孝は、大坂から四国に渡海し、長宗我部氏を討とうとした。
藤田氏によると、「光秀は、長宗我部氏を危機から救い、その軍事力を活用するべく、四国攻撃軍の渡海を阻止せねばならなかった。そのためには、信孝が出陣する前にクーデターを起こす必要があった」と指摘する。
「軍事力を活用するべく」というのは、クーデターの成功後、長宗我部氏を味方として、その後の事態(反光秀勢力との戦い)に備えるということなのだろうか。
変後の展開について藤田氏は、以下のとおり述べる。
クーデターが成功した一報が大坂に伝わると、四国攻撃軍は混乱し、信孝は四国に渡海できなかった。
先陣として阿波に渡海した三好康長は、孤立し撤退した。
長宗我部軍が上洛するための通路となる淡路は、菅道長が洲本城(兵庫県洲本市)を占拠したので確保された。
■あまりにお粗末な光秀の計画
藤田氏は、ここまで光秀のねらい通りになったと指摘する。
しかし、四国攻撃軍との戦いに備え、阿波に駐留していた長宗我部軍は土佐国に退却していた。
香川親和(元親の次男)は一番近い西長尾城(香川県丸亀市)にいたので出陣したが、秀吉の動き(中国大返し)の方が早く、間に合わなかったという。
結局、長宗我部軍は上洛して、明智勢と合流できなかったということになろう。
この指摘を読むと、矛盾があることに気付く。
クーデターの成功後、光秀が長宗我部氏の助力を得たいのならば、決行前に元親と十分に打ち合わせておく必要があろう。
藤田氏が指摘するとおり、四国攻撃軍が渡海できなかったのは間違いないが、その動きに対応した長宗我部軍は土佐国に退却して上洛できなかった。
この事実を考慮すると、光秀に計画性があったと指摘するには、あまりにお粗末であるといわざるをえない。
このような杜撰な計画では、6月2日に決行した理由にならないだろう。
■上洛中にあり得た征夷大将軍任官
藤田氏は、光秀が6月2日に挙兵した2つ目の理由として、信長の征夷大将軍への任官を阻止するためだったと述べる。
以下、藤田氏の指摘を検討しよう。
朝廷は信長に対し、三職(関白、太政大臣、征夷大将軍)のうち征夷大将軍を与える意向を示した。
藤田氏は、信長が上洛中の6月2日から出陣予定の6月4日の間に回答する可能性があったと指摘する。
光秀は近衛前久などから、その情報を知らされており、信長の意志がどこにあるのか正確に理解していたという。
そこで、義昭の陣営に属していた光秀は、信長に征夷大将軍を受ける意思表示をさせないため、6月2日にクーデターを決行したと指摘する。
なお、光秀が義昭の陣営に属していたというのは、藤田氏の説である。
そして、6月2日には徳川家康らの臨席のもと、信長は一大儀式を挙行する可能性があったという。
一大儀式というのは、征夷大将軍に就任する際の儀式だろうか。
信長が征夷大将軍を受けると、義昭は解任されてしまう。そうなると、義昭方の毛利氏や長宗我部氏ら中国四国の諸大名は正統性が失われて瓦解し、信長方が有利になると、藤田氏は述べる。
■有力家臣が不在「一大儀式」の矛盾
はたして、この見解を妥当なものとして認めてよいのだろうか。
朝廷が信長に征夷大将軍を与える意向があったのは事実であるが、信長に回答する意思があったのか否かは不明である。
結局、信長は回答しなかった(あるいは回答した記録が残らなかった)。
光秀が近衛前久などから、その情報を知らされたとか、光秀が信長の考えを知っていたというのは史料的な裏付けはなく、藤田氏の想像に過ぎない。
それは、6月2日に一大儀式を挙行する予定だったというのも同じことである。
本能寺の変の時点において、子の信忠が上洛しており、徳川家康も京都に来る予定だった。
ところが、重臣の羽柴秀吉、柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀らは、それぞれの任地で反信長勢力と戦っていたので、儀式に参加するのは不可能だった。
儀式を挙行するならば、有力な家臣が参列しないと意味がないのではないか。一大儀式というにもかかわらず、「兼見卿記」といった公家の日記にすら、そういう計画があったとは書かれていない。
■計画性があるにしては杜撰すぎる
たしかに、信長が征夷大将軍になれば、義昭にはダメージが大きかったかもしれないが、変以前に光秀と義昭がつながっていたという確証はない。
それは、信長が征夷大将軍に任官する気持ちがあったこと、6月2日に一大儀式が催される予定があったことも同じである。
あくまで想像の話である。
したがって、藤田氏の2つの説は、成り立たないと考える。
光秀には信長襲撃の緻密な計画もなければ、その後の展望も政権構想もなかった。
ただ、変以前から信長を討とうとしたのは、疑いの余地がない。
光秀はチャンスを虎視眈々とうかがい、信長がわずかな手勢で本能寺に泊まったことを知り、急いで実行に移したのである。
光秀は信長を討つことに成功したものの、細川幽斎・忠興父子、筒井順慶らに味方になることを拒否された。
長宗我部元親については、先述のとおりである。
計画性があるにしては、杜撰といわざるをえない。
■なぜ義昭と毛利は即座に動かなかったか
結局、光秀は十分に態勢を整えることができないまま、秀吉との戦いに臨んだ(山崎の戦い)。
結果は周知のとおりで、光秀は大惨敗を喫して討たれたのである。
光秀が信長の征夷大将軍への就任を阻止すべく襲撃したという点に関しては、私は変以前に光秀と義昭が通じていなかったと考えているので、賛意を示すことはできない。
そもそも光秀と義昭が通じていたならば、信長が討たれたあと、なぜ義昭が毛利氏ら反信長勢力を率いて、即座に上洛しなかったのか疑問である。
結局、毛利氏らは義昭のたび重なる上洛要請にもかかわらず、ついに応じなかった。
光秀が義昭と通じていたとするならば、なぜ毛利氏はその事実を知らなかったのか疑問が残る。
それどころか、毛利氏は本能寺の変後の正しい状況すら、十分に把握していなかったのである(谷口克広『検証 本能寺の変』吉川弘文館、2007年)。
今、残っている史料からは、藤田氏の指摘に首肯することはできず、光秀に計画性があったとは思えないのである。
それは、変の決行日が6月2日でなければならなかったという点も同じことで、まったく従うことができない。
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渡邊 大門(わたなべ・だいもん)
歴史学者
1967年生まれ。1990年、関西学院大学文学部卒業。2008年、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。
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(歴史学者 渡邊 大門)

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