東京の会社でうまくやっていくことができず転職を繰り返した女性は、やがて働けなくなった。昼夜逆転の生活で自宅は荒れ放題に。
「自分のような“ごく潰し”が実家の老親のお金を頼って生活している現実に耐えられなくなり」セルフネグレクト状態となった。そんな女性だが、ある相談員の言葉に救われ人生を再生させていく。ノンフィクションライターの旦木瑞穂さんが取材した――。(後編/全2回)
前編の概要】関東在住の灰谷泪さん(仮名・40代)には6歳上と3歳上に姉がおり、忙しい両親の代わりに、上の姉が三女の灰谷さんの面倒を見ていた。保育園でも小学校でも周囲とうまく馴染めず孤立し、忘れ物や失くしものをして両親や教師を困らせた灰谷さんだが、ポスターで校内の賞や、市の絵画コンクールで特選を取ったり、吹奏楽部のコンクールで金賞を取ったりするなど才能を発揮。ところが両親は「そんなことより普通の生活をできるようになってほしい」と言い、地域で一番の進学校に合格しても、「まさか受かるなんて思わなかった」と言われ、失望。高校で非行に走る真似事をし、卒業後はフリーターになるが、実家にいづらくなり、東京の専門学校に行くことに。その後、広告制作会社に入社したが、社会人としてもうまく立ち回ることができなかった――。
■普通の人に“擬態”して生きる
灰谷泪さん(仮名・40代)は初めて入社した広告制作会社で、半年の間にmacのキーボードを3台壊した。3台ともコーヒーをこぼしたせいだ。毎日遅刻ギリギリで出社していることや、空気を読めないせいで場違いな言動をしていることを、暗に指摘されることもあった。
小さな広告制作会社にありがちなのは、終電までの残業や徹夜がザラにある、いわゆる“ブラック企業”だが、灰谷さんの勤め先は“過酷な重労働でブラック”なのではなく、“女性の仕事”だった。

「体力はある方だし、汚れ仕事や力仕事だって気にならない。むしろ女性だからと特別扱いはせずに、対等に評価してもらいたかった。何日か家に帰れなくたって、将来の仕事に繋がるなら我慢できる。そう思っていました」
ところが、実際に入社した会社は「男性と同等の仕事」ではなく、「女性の仕事」を任せた。
「電話番、お茶出し、掃除、コピー、資料のクリップ留めなど、ごく一般的に『女性の仕事』とされてきたこと。つまりは、きつくもないし力仕事も求められない代わりに、毎朝愛想良くコーヒーを淹れるとか、流し台のマグカップをこまめに洗っておくとか、そういう気の利かせ方や、空気を読むスキル、何でも気安く頼めるような可愛がられるキャラクターが求められる仕事だったのです。私は見た目に気を使えず、社交辞令もうまく言えないし、受け流せない。愛想も悪くて、気も利きません。不運なことに、私は女性でありながら、『女性の仕事』にまったく適性のない人間でした」
短くて数カ月。長くて3年ほどで転職を重ね、失敗を繰り返しながらも、どうにか空気を読んで、周りの人と同じように振る舞おうと試行錯誤の毎日。灰谷さんは、“普通の人”への“擬態”が達者になればなるほど、「また失敗するのではないか」という不安と、本来の自分を抑圧するストレスが溜まっていった。
そして31歳になった時、やっと理想的な会社への転職に成功。
新しい会社の人たちは、灰谷さんを温かく迎え入れてくれた。
「個性を大切にする風土で、社内サークルやSNSでの交流も盛んでした。私はさっそくニックネームで呼ばれ、『趣味は?』『休日何してるの?』と質問攻め。費用は会社持ちのランチミーティングに、使い放題の本格的なコーヒーマシン、休日はバーベキューと、福利厚生やイベントも充実していて、至れり尽くせり。上司は有能で常識人。これまでの会社とは大違いで、徹夜どころか残業もほとんど求められず、指示も丸投げじゃなく、丁寧でわかりやすかったです」
ところが、皮肉にも灰谷さんが会社に行けなくなったのは、その会社に入社して約半年後のことだった。
「仕事中、『私は今、何をやってるんだろう』『なんでこんなことをしてるんだろう』そんな言葉が頭に浮かんで、キーボードを打つ指が動かなくなりました。ブラック企業の社長のご機嫌取りのために資料を作るよりも、よっぽどやり甲斐があるはずの仕事を目の前にして、なぜか私には自分がそれをやる意味がよくわからなくなってしまったのです」
■「正しく生きる」には弱すぎる
その会社の同僚から、「うつだと思うから、病院に行ったほうがいいよ」と職場近くの心療内科を紹介されたが、電話をかけてみると予約が取れるのは1カ月先。灰谷さんは門前払いされたような気持ちになり、会社を休みがちになった。
そしてとうとう退職してしまうと、「早く再就職しなければ」と頭では考えながらも、体が動かずにいた。
当時は、上の姉や両親と連絡をとっていたが、だんだん働けないことが後ろめたくなり、着信があっても無視するようになっていく。
そこから灰谷さんは、セルフネグレクトのような状態になった。
1カ月以上入浴や洗髪をせず、換気扇があるユニットバスに閉じこもって喫煙ばかり。洗面台は吸い殻で埋まり、壁や天井は煙草のヤニだらけ。ユニットバスの中も外も、床じゅうにゴミが何層にも堆積していった。
部屋の電球が切れても、電気がつくユニットバスにいるか、真っ暗な部屋でスマホを見て自殺について調べながら涙を流しているかのどちらか。明るい時間は「誰かに会うかも」「人に見られるかも」と不安で外に出られなくなった。昼夜逆転し、カーテンも開けず、深夜のコンビニに煙草と食べ物を買いに行く他はまったく外に出なかった。
そんな中で灰谷さんは、上の姉にメールを送った。
「親にも迷惑をかけていてすみません。私は臆病者で、自分で死ぬこともままならないのですが、死ねる機会が来たら迷わずに死のうと思います。その時は、私の家にあるものは全て業者に任せて処分してください。葬式も要りません、誰も呼ばないでください」
上の姉は大学進学を機に上京し、そのまま関東で働いていたため、専門学校進学のために上京した灰谷さんを、よくご飯やドライブに誘ってくれた。
やがて上の姉は結婚し、出産。
灰谷さんは、初めての姪の誕生を心から喜んだ。
それからしばらくして、上の姉は夫と娘とともに故郷に戻り、実家の敷地内に家を建てて暮らし始めていた。
上の姉からの返信は、24時間経ってもなかった。しかし48時間ほど経った頃、返信が届く。
「そんなこと言われてどうしろって言うの? 助けてほしいならそう言いなよ」
灰谷さんは、絶望した。
「姉は相変わらず正しかったと思いました。確かに、今思えば私が送ったのは泣き言です。相手の良心を試すような、卑怯な言葉だったのかもしれません。けれど、死にたくても死ねなくて苦しいのも、嘘ではありませんでした。何ひとつわかってもらえないんだと思い、それ以上返事はしませんでした」
それからも2カ月に1度くらいの頻度で、上の姉からメールが届いたが、灰谷さんは無視し続けた。
しかし、実家で飼っていた老猫が死んだという報せが届いた時、灰谷さんは打ちのめされる思いがした。
「姉からは、『大往生だよ。
かっこよかったよ』とありました。与えられた命を生ききるのは立派で、自分で命を絶つとか、死のうと考えるのは『かっこ悪いこと』『みっともないこと』だと姉は伝えたかったんでしょう。姉が言うことはやはり正しい。でも私は、身の周りの掃除さえできない、食事もできない、死にたいと思いたくなくても死にたいと思ってしまう。『正しく生きる』には私は弱すぎて、姉の正論や叱咤激励が、プレッシャーにしかならなかったのです」
灰谷さんが無視をし続けていると、上の姉からのメールは来なくなった。
■溺れているところに手を差し伸べてもらう
2017年、希死念慮が強まり、睡眠薬を処方してもらおうと初めて心療内科を受診し、「うつ病」と診断され、その後、ASDとADHDとも診断された。
その2年後、連絡していなかった上の姉の夫の他界の報に触れ、灰谷さんの精神状態は悪化した。
「私は自分のような“ごく潰し”が老親のお金を頼って生活している現実に、耐えられなくなりました」
だが、すぐに就労できるような状態ではない灰谷さんは、藁をもすがる気持ちで発達障害社支援センターの相談員に泣きながら相談すると、「生活保護」という選択肢の存在を教えてもらう。
その相談員の勧めに従い、自治体の障害福祉課の窓口へ。灰谷さんはそこでは奇跡的な言葉に出合うことになる。
「経済的な問題で悩んでいて、相談に乗ってほしいのですが」
と言い、発達障害支援センターで担当相談員にアドバイスされた内容を話した。すると、
「支援センターの方が言う通り、生活保護を受けるのも方法の一つだと思いますよ。
一度、保護課で話だけでも聞いてみますか?」
と言われ、話を聞くことに。
間もなく保護課の担当者が現れると、相談室に促される。
そこで灰谷さんはまた、自分の状況を説明。うつ病で失業したこと。主治医からまだ復帰は無理だと言われていること。それでも、いつまでも親を苦しめているのに耐えられないこと。そして発達障害のこと。
それを聞いた保護課の担当者は、灰谷さんに配慮して、紙に書きながら話をし始めた。
「発達障害のある人は、口頭での会話に難があることが多く、聴覚情報の処理がうまくできないタイプだったり、ワーキングメモリが少なく、ついさっきまで何を話していたかさえ忘れてしまったりすることもあります。そのため、支援センターでも紙に書いて情報を整理しながらコミュニケーションを取るということが通例になっているのですが、区役所で同じ配慮をしてもらえるとは思いませんでした。『そういう特性を持つ人間がいる』と理解してくれていることが何よりもありがたかったです」
保護課の担当者は、
「親御さんには、こんなふうに伝えたらどうですか? 『自立するために生活保護を利用しようと思うので、仕送りはもう大丈夫です』と。親御さんも、ただ援助を断るだけだと心配するでしょうが、自立するためと言えば、わかってくれるんじゃないかと思うんですよ」
そう言って、『』内の言葉も紙に書いて渡してくれた。
「生活保護と言えば、家族の扶養を強要されて、水際で断られることが多いとばかり聞くのに、その担当者さんは、あくまで『私が病気を治せる状況になること』を一緒に考えてくれました。それは私にとっては、溺れているところに手を差し伸べてもらったようなものでした」
■「死ぬか、働くか」ではない3つ目の選択肢
現在灰谷さんは、障害年金をもらいながら、アルバイトをして生活している。
「私は保護課の担当者のアドバイス通り、親からの援助を断りました。主治医に勧められた障害年金の申請が通り、遡及分まで支払われたことで、経済的にも精神的にも余裕ができたからです。何より、親に負担をかけているという心苦しさから解放されたことで、病状は目に見えて改善しました」
約3年引きこもっていていた灰谷さんのアパートを訪れた家族は、たった一度、母親だけだった。灰谷さんが高校生くらいの頃からネットワークビジネスにハマっていた母親は、東京で開催される幹部会のついでに訪れた。家族からの連絡を無視していた灰谷さんは、アポなしで現れた母親に「会えません。帰ってください」と伝えると、母親は、「時間をかけて自分に合った仕事を探せばいいんだから」と優しく言って去っていった。
「この時の母からは、あくまで私が失業していることを、職場との相性の問題とか、よくある人間関係の悩みとか、そういう普遍的な問題だと思っているのだな、ということがわかり、私は埋めがたい溝を感じました。長年にわたる集団からの排除や、不適応の積み重ねがとうとう限界となった私の状態が、母から見ると『一時的に元気を失っているだけ』『元気になれば再び社会人としてやっていける」という認識になることに、打ちのめされる思いがしたのです」
「努力不足」や「しつけ」の問題とされがちだった「発達障害」という概念が日本で広まったのは、2005年4月の「発達障害者支援法」施行以降だと言われている。そのため、灰谷さんの両親や姉たち、さらには灰谷さん自身がそれを疑うことは難しいことだっただろう。だが、もしかしたら両親は、「親に負担をかけている」という心苦しさを感じる灰谷さんと同様に、発達障害のある灰谷さんを持て余していた自分たちに後めたさを感じていて、灰谷さんの生活援助をすることで、親としての責務は果たせていると思おうとしていたのかもしれない。
体調が回復し、短期のアルバイトを始め、長期のアルバイトに移り、早7年目に入った。
「今のところ、私は生活保護を受けずに何とかやれています。けれど、切羽詰まっても生活保護という選択肢があるのだということ、そして、相談すれば生きていく方法を一緒に考えてくれる人がいることは、私が生きていく上でギリギリの支えになっています」
特に女性で発達障害のある人は、周囲に理解されがいため、生きづらさを抱えているケースが少なくない。その生きづらさが積もり積もると、二次障害として、抑うつ気分、不安、パニック発作などから始まり、うつ病や依存症などを発症してしまう。
灰谷さんは、両親や姉たちから“普通”を強要され、本来なら最も安心してリラックスできる場所である家庭で緊張状態が続き、自己肯定感を削がれていった。そして社会人となり、特性上、最も苦手とする“空気を読んで”“女性らしい気配り”を求める会社に入ってしまったことで、さらに自己肯定感をすり減らしていく。
度重なるブラック企業への転職で疲弊した灰谷さんは、ようやく見つけたホワイトな会社でも、“普通”を演じ続けるあまり、ストレスや疲労が蓄積。自己肯定感が枯渇していた灰谷さんは、「自分なんかに褒められるような部分はない。ダメすぎて可哀想だから気を使って褒めてくれているだけ」と自分で自分を責め、窮地に追いやっていった。
「工場もたたんで、老後に入っている親の脛を齧るどころか、もっとひどい、生き血をすするような私なんて、生きている価値がない。子どもがいるわけでもなく、仕事をしているわけでもない、ただの“ごく潰し”は『早く死ななきゃ』と思っていました。発達センターや保護課の担当さんに励まされなかったら、今頃死んでいたかもしれません」
灰谷さんは、生後間もなく脳性麻痺により手足が不自由となったという東京大学先端科学技術研究センター准教授・熊谷晋一郎氏の言葉を引用して、こう続ける。
「熊谷氏は、『自立とは依存先を増やすこと』と言っていますが、それは障害者に限らず、健常者にとっても同じだと思います。不安定な現実の中で、実際に制度を利用するかどうかにかかわらず、『いざとなったら頼りにできる場所、制度』が複数あることで、人は安心して生活を営めるのではないでしょうか。生活保護はその中の1つであると思います。『死ぬか、働くか』の2択ではなく、『生活保護制度があるから、すぐに働かなくても一旦休んで回復していい』という3つ目の選択肢が持てるのだと思います」
本連載でこれまで3人の生活保護経験者の事例を紹介してきたが、今回の灰谷さんは、生活保護は利用していない。それでも、前回までの事例と同様、生活保護の存在に救われ、一度は詰みかけた人生の「再スタート」が切れた。
「生活保護」は、利用したことがない人にとっては、自分とは無関係の遠い世界のもののように感じられる。筆者も、一度利用したら二度と戻れないのではないかという恐怖を感じていた。しかし実際に利用し、卒業した人は存在する。自分とは無関係の遠い世界のもののように感じるのは、その実態を捉え切れていないからに他ならない。
賃金は上がらず、物価が異常に高騰する昨今、生活が困窮する人の増加が予想される。
生活保護とはどんなものなのか。どんな人が利用し、どんな生活をして、どんな人が卒業し、再び社会に戻っていくのか。

----------

旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)

ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー

愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。

----------

(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)
編集部おすすめ