再開発が進むJR渋谷駅周辺には、歴史スポットが数多く存在する。ノンフィクションライターの本田不二雄さんは、「豊栄(とよさか)稲荷神社には『庚申塔(こうしんとう)』と呼ばれる石塔が13基並んでいる。
これは、江戸時代の渋谷で行われていた夜通しイベントの名残だ」という――。
※本稿は本田不二雄『東京異界めぐり』(駒草出版)の一部を再編集したものです。
■大規模開発のはざまに残る古代の痕跡
大規模再開発中の渋谷駅とその周辺。たまにしか訪れない者には待ち合わせ場所もままならない状態(2025年11月現在)ですが、まずはJR渋谷駅の南東に位置する「金王(こんのう)橋広場(金王橋脇のスペース)」へ向かいます。
ここから渋谷駅の方向を見上げると、正面に渋谷スクランブルスクエア。もはや駅ビルのレベルを越えた地上47階、高さ約230メートルの威容です。向かって左には渋谷ストリーム。「クリエイティブワーカーを魅了するエリア」の触れ込みです。一転して、向かって右は昭和の風情漂う雑居ビルの裏側、そして下部には巨大な排水溝のようなトンネルが出現。渋谷川です。
この光景には、渋谷の原点と近未来(および昭和)が凝縮しています。
原点とは、約2万年前の大海退期であらわれた土地に富士山や箱根の火山灰が堆積し、そこに渋谷川やその支流がシワを刻み、谷をなした。
それがはじまりのはじまりで、その後縄文時代に再び海進と海退が生じ、結果、今ある渋谷の地形ができたことを意味します。
つまり、現在のコンクリートのトンネルは、渋谷川の最終形。北は新宿御苑ふきんを泉源とし、原宿のキャットストリートを経て渋谷に至る隠田(おんでん)川と、北西の初台駅ふきんに発した河骨(こうほね)川と宇田川が合流して台地の縁を東南方向に下った流れ(いずれも現在は暗渠)が渋谷駅ふきんで合流、生まれたばかりの渋谷川が姿をあらわす。そのポイントは昔も今も変わりません。
ですから、このトンネルの奥には封印(暗渠化)された渋谷川の支流があり、渋谷の古代とつながっているのではないか……つい、そんな妄想にかられます。
■ずらり13基が並ぶ庚申塔群
では、明治通りに出て右折し、しばらく歩いて歩道橋を渡り、そのまま南東に少し進むと、スタバとコンビニの間に細い道が左に延びています。途中、結構な傾斜の坂です。その道を上り詰めると、左に豊栄(とよさか)稲荷、正面に金王八幡宮の杜があらわれます。
豊栄稲荷神社は、先ほど見た渋谷川出口の脇にあった田中稲荷と、道玄坂上にあった豊澤稲荷を合祀した神社。東京オリンピック(1964年)に向けた開発のために立ち退きを迫られ、こちらにやってきました。で、圧巻はずらり13基並んだ庚申塔(こうしんとう)群です。
庚申塔とは庚申信仰にもとづく石塔のことで、東京では寺社の境内や路傍でよく見かけますが、これほどの数が集まった例はほかでは知りません。

境内の石碑「庚申塔略記」には、こう書かれています。
「……ここに建てられている庚申塔は、江戸時代、金王八幡神社を中心とする地域に住んでいた人々が建てたものです。そのころ人々は大変盛んだった庚申信仰を受入れ、近隣相集い講を結んで六一日目毎に廻ってくる庚申(かのえさる)の日に勤行、飲食、談笑し、しばし日頃の労苦を忘れて一夜を過ご(した)」(昭和47年、庚申懇話会)
■60日ごとに神々を祀り、寝ずに夜明かし
この60日おきの夜通しイベントを「庚申待(こうしんまち)」といい、江戸時代(前期~中期)にかけて民間で爆発的なブームとなりました。そのココロは、〈人間の体内には三尸(さんし)の虫がいて、庚申の日の夜、天に登って天帝にその人の日頃の行いを忠告するため、これを阻止すべく、夜通し集まって神々を祀り、寝ずに夜明かしする〉というものです。
その指南書「庚申縁起」には、「1年に6度、3年で18度の庚申待が終ったら、平素よりも供物をたくさんあげて塚を築き、塔を建てて盛大に供養するように」とあり、結果、庚申塔がそこらの巷に残されてきたわけです。
ともあれ、この石像群、たまらないですね。おなじみの青面金剛が中尊のもの、脇侍の二童子を配したもの、三猿(見ざる聞かざる言わざる)を従えたもの、三猿のみのもの、文字だけのもの。カワイイも怖いも含めた存在感。これらも昭和の渋谷大改造で居場所を失い、集められたものですが、残ってくれてありがとうといいたい気分です。
■かつてここには「城」があった
では、金王八幡宮の正面から境内へ。と、その前に、参道の石段の手前を横切る道がやや低くなっており、南西の下り道につづいていることに気づきます。
この窪地は古くは黒鍬谷(くろくわだに)と呼ばれ、かつて川が流れていたといいます。
実は先ほど上ってきた細い坂道は、幻の黒鍬川の流路とされている道でした。
これは何を意味しているか。金王八幡宮は、もとは渋谷城と呼ばれる中世城郭跡に鎮座しており、黒鍬谷(川)はその外堀だったと考えられているのです。
金王八幡宮の歴史は、この地を治めた渋谷氏の歴史と直結しています。
社伝によれば、創祀は寛治6年(1092)。かつて坂東(関東地方)に下向した桓武平氏の流れをくむ武家のうち、秩父氏当主の平武基(たいらのたけもと)は、房総地方で起こった反乱を鎮める武功を立て、「軍用八旒(りゅう)の旗を賜り、そのうちの日月二旒を秩父の妙見山(みょうけんざん)(武甲山)に納め八幡宮と崇め奉りました」(金王八幡宮のHPより)。
「軍用八旒」は聞き慣れないワードですが、要は軍神として崇められた八幡神が宿る八つの旗(幡)のことで、それを褒賞として下賜されたという意味でしょう。
■渋谷の地名のそもそもの由来に
のち、武基の子武綱は、嫡子の重家とともにみちのく奥州を舞台に展開した後三年の役(1083~1087)で源義家の軍に参戦し、奥州の豪族・清原氏を攻略。その軍功により、河崎土佐守基家の名と、武蔵谷盛庄(やもりのしょう)を賜ったとあります。
谷盛庄とは、谷の多い地形を意味し、現在の渋谷を指します。
「源義家は、この勝利は基家(武綱)が信奉する八幡神の加護なりと、基家が拝持する妙見山の日月旗を乞い求め、月旗をもってこの地に八幡宮を勧請しました」(同上掲)。
勧請とは、神の分霊を新たに建てられた神社に迎えて祀ることです。

そしてつづく重家の代に、「堀河天皇より渋谷の姓を賜り、当八幡宮を中心に館を構え居城とし、渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めました」(同上掲)。
これが渋谷氏および渋谷城と金王八幡宮の発祥(諸説ありますが、ここは社伝に沿っておきます)で、「渋谷」の地名由来にもなっているんですね。
■歌舞伎の題材にもなった渋谷の英雄、金王丸
ところで、「金王」とは何? ですが、上の渋谷重家の子で、「金王丸(こんのうまる)」と呼ばれる人物に由来するといいます。
その伝説的生涯をざっとおさらいしましょう。
渋谷重家にはしばらく跡継ぎの子がおらず、氏神の八幡神に祈願したところ、妻の胎内に金剛夜叉明王(密教で奉じられる五大明王の一尊)が宿る霊夢を見て、子を授かった。そのため金剛夜叉明王の上下の2字をいただいて渋谷金王丸と称された。
17歳のとき、源義朝に従って保元の乱(1156)で大功を立て、その名を轟かせた。『平治物語』には、戦いに破れた義朝の愛妾・常盤御前にその死を伝えた義朝の郎党・金王丸としてその名を残しています。
のち剃髪し、土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)として諸国を行脚。義朝の御霊を弔う一方、義朝の子である頼朝が挙兵の折は、密かに当八幡宮に参籠して平家追討の祈願をした。やがて頼朝に従い武勲をあげたのち、謀反の疑いをかけられた義経を討つようにと頼朝に命令され、義経のいる堀川御所(邸宅)に夜討ちを仕掛けたものの、常盤御前とともにいた幼い頃の義経を覚えていたため討つことができず、逆に討たれてしまった……と伝わっています。
まさに劇的な、いや劇的すぎる生涯ですが、実のところ、金王丸(渋谷金王丸常光)と土佐坊昌俊が同一のものとする史料は確認されておらず、金王丸が実在したとする確実な史料も存在しないといわれています。

■秘仏のように祀られる伝説のヒーロー
しかし江戸時代、渋谷の八幡宮は徳川将軍家の信仰を得て社殿が造営される一方、「渋谷金王丸伝説」は歌舞伎などで広く知られることとなり、その名声に後押しされて社名も金王八幡宮と称されるようになります。
境内には、そんな金王丸を神のように祀る建物があります。
金王丸御影堂です。堂内には金王丸が17歳の初陣の折、自分の姿を彫刻し母に形見として残したという木像が佩用(はいよう)の長太刀とともに奉納されています。
渋谷の伝説のヒーローが、秘仏のように祀られている。それだけでも萌えますが、3月最終土曜日の金王丸祭(金王丸御影堂の例祭)で特別開帳とのこと。是非もなく、筆者は令和7年のそれに馳せ参じました。思いのほか多かった参列者とともに並び、ようやく拝観。きりりと凛々しい少年のお姿でお鎮まりだった、とここではお伝えしておきます。

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本田 不二雄(ほんだ・ふじお)

ノンフィクションライター、編集者

1963年熊本県生まれ。学研発行の一般向け宗教概説書の編集・制作に長く関わり、仏像や神社、神仏信仰をテーマに執筆制作した書籍(雑誌、ムック含む)は多数にのぼる。単著では『弘法大師空海読本』(原書房)、『ミステリーな仏像』『神木探偵』『異界神社』(いずれも駒草出版)、『日本の凄い神木』(学研・地球の歩き方)、『神社ご利益大全』(KADOKAWA)ほか。


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(ノンフィクションライター、編集者 本田 不二雄)
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