■信長の父は12男13女の子だくさん
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)では織田信長(小栗旬)と妹・お市の方(宮﨑あおい)の仲睦まじい姿が描かれているが、桶狭間の合戦当時、お市の方は満13歳、中学2年生くらいで、あんな風な会話があったかは疑わしい。それはさておき、信長の兄弟・姉妹は何人くらいで、どんな人物がいたのだろうか。
信長の兄弟・姉妹には諸説あるが、多くて12男13女の計25人兄弟らしい。信長自身も子だくさんだったが、父・織田信秀もそれに劣らず子だくさんだったようだ。織田研究の谷口克広氏によれば、出生順も巷間伝わっている順番でない可能性が高いという(柴裕之編『織田氏一門』谷口克広「信長の兄弟と息子の出生順」)。ただし、ここでは煩雑さを除くため、『寛政重修諸家譜』の出生順で述べていく。
■大河にも出てこない「信長の長兄」
信秀の長男・織田(津田)三郎五郎信広(のぶひろ)は、天文9(1540)年6月に信秀が三河安城城(安城市)を攻め落とすと信広がその城代となり、小豆坂の合戦では先鋒を務めていたとの記事が『三河物語』にある。実際には信秀からかなり目を懸けられていたと推察できる。しかし、天文18(1549)年11月に今川軍が大軍で安城城を囲み、信広が捕虜とされてしまい、凡庸の烙印を押されてしまったのだ。
安城城から帰還した後の動向は定かでない。弘治2(1556)年頃、斎藤義龍(「豊臣兄弟!」ではDAIGO)が信広に対して、信長に謀叛を起こすようにそそのかしたが、未遂に終わったといわれている。
■信長が同母弟を殺した真相は…
信秀の三男・織田勘十郎信勝(中沢元紀)の母は、信長と同じ土田(どた)御前(信長の母)。
父・信秀は那古野(なごや)城から古渡城・末盛城へ移転する際、信長を那古野城に置いて、それ以外の子女を連れて行ったらしい。天文21(1552)年3月に信秀が死去すると、末盛城の主は信勝となった。
信秀の死後、信長附きの筆頭家老・林秀貞(諏訪太朗)が信長から離反し、信勝や柴田勝家(山口馬木也)ら末盛城附きの武士を仲間に引き入れ、信長・信勝兄弟を不和に導いた。林・柴田らが連合して信長と稲生(いのう)で合戦に及び敗退、蟄居を余儀なくされた。柴田勝家が信長方に信勝の謀叛(むほん)を告げ口。永禄元(1558)年11月に信長は仮病を使って信勝を清須城に招き入れ、暗殺した。
■弟たちは討ち死に、自害、急死
信秀の五男・織田九郎信治(のぶはる)は元亀元(1570)年9月に森可成(水橋研二)とともに近江宇佐山城を守り、討ち死にした。
信秀の七男・織田彦七郎信興(のぶおき)は伊勢長島の抑えとして、尾張小木江城(古木江。愛知県愛西市森川町)に置かれる。元亀元(1570)年11月に伊勢長島一向一揆に襲われ、自害した。
信秀の四男・織田三十郎信包(のぶかね)は、信長が北伊勢を攻略して長野家の婿養子になった(のち織田に復姓)。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦では毛利・石田方につくが、なぜか丹波柏原4万石を与えられる。晩年は大坂城で秀吉の側室となった淀殿(姪に当たる)に近侍するが、大坂冬の陣の前年に喀血し急死する。暗殺の噂がある。
■最も有名な弟、織田有楽斎
信秀の11男・織田源五郎長益(ながます)は号を有楽斎(うらくさい)といい、東京都の有楽町(ゆうらくちょう)は有楽斎の邸宅があったことに由来する。茶人として有名で、「利休の七哲」の一人。本能寺の変の際には甥・信忠に従って二条城にいたが、周囲を欺いて安土城に逃亡。
関ヶ原の合戦では家康方について参陣。大和国山辺郡のうちに加増され、都合3万石の大名となった。
■姉妹の6人は織田一族へ嫁ぐ
信長の姉妹のうち6人が織田一族(津田、飯尾を含む)に嫁いでおり、父・信秀もしくは当時の信長が一族重視の婚姻政策を取っていたことがわかる。
・小田井殿 小田井城(愛知県清須市西枇杷島町小田井)の織田又六郎信直の妻
・犬山殿 犬山城(愛知県犬山市犬山)の織田十郎左衛門信清の妻
・(名不詳)小幡城(名古屋市守山区小幡)の津田市介信成の妻
・野夫(のぶ)殿 野府城(一宮市開明)の津田九郎次郎元嘉(もとよし)の妻
・(名不詳)津田出雲守(詳細不明)の妻
・(名不詳)奥田城(稲沢市奥田)の飯尾隠岐守尚清(なおきよ)の妻
■美人で有名な、もうひとりの姉妹
その一方で、信長の姉妹のうち3人は尾張国内の有力者に嫁いでいる。
・おくらの方 奴野(ぬのや)城(津島市天王通)の大橋清兵衛重長の妻。
おくらの方が嫁いだ大橋家は津島(愛知県津島市)の商人的色彩の濃い有力者で、信秀の父・信貞と津島衆の間で大永年間(1521~27)に大規模な争乱があり、信貞は武力制圧した後に大橋家に娘を嫁がせ、津島四家、津島七党と和議を結んだという伝承が残っている。しかし、実際は信貞の武力制圧と信秀の娘の輿入れを同時期のものとして混同したのであろう。
・小林殿 小林城(名古屋市中区上前津)の牧与三右衛門(まきよそうえもん)長清の妻。
・お犬の方 大野城(愛知県常滑市金山)の佐治八郎為興(さじはちろうためおき)(信方ともいう)の妻、のち細川昭元に再縁。
為興の子・佐治与九郎為次(一成ともいう)は、お市の方の娘・江(ごう)(のちの徳川秀忠夫人)と結婚している。お犬の方は肖像画が残っており、美人の誉れが高い。そのため、為興の死後、管領家の細川右京大夫(うきょうたいふ)昭元(信元、信良)に再縁した。お犬が未亡人になった元亀2(1571)年頃、信長は細川家の執事だった三好家と敵対し、主(あるじ)である足利将軍家とも微妙な関係にあり、政治的に利用価値を見出したのであろう。
■隣国美濃の有力者とも婚姻
信秀の娘は、隣国美濃の有力者と婚姻したり、信長の領土拡張にともなって近江や越中にも輿入れした。
・(名不詳)美濃苗木城(岐阜県中津川市苗木)の苗木勘太郎(遠山直廉)の妻。美濃の苗木勘太郎は遠山一族で、その娘は信長の養女となって永禄8(1565)年に武田勝頼に嫁いだ。
・(名不詳)美濃小島(おじま)城(岐阜県揖斐(いび)郡揖斐川町六合)の斎藤兵衛尉秀龍の妻。美濃で齋藤秀龍といえば、斎藤道三(麿赤兒)のことを指すが、道三は兵衛尉を名乗ったことがなく不詳。
・(名不詳)越中守山城の神保(じんぼう)安芸守氏張の妻、のち稲葉貞通(一鉄の子)に再縁。
■皇室に繋がった「お市」の娘
・お市の方 (近江小谷城の浅井長政の妻、のち柴田勝家に再縁。お市の方)は、信長が同盟を結んだ浅井長政のもとに永禄4(1561)年頃に輿入れしたらしい。
お市の方の長女・淀は秀吉の側室となり、嫡男・秀頼を生んだ。次女・初は浅井家の旧主・京極高次に嫁いだ。三女・江は前述のとおり、はじめ佐治与一郎一成と婚姻したが、一成が改易されて離縁。秀吉の甥・豊臣小吉秀勝(こきちひでかつ)と再縁。一女・完子(さだこ)をもうけたが、秀勝が戦病死して、徳川家康の嫡男・秀忠と結婚した。
なお、秀忠・江夫妻の長女である千姫は秀頼と結婚。娘の初姫は京極高次の庶子と結婚。息子の徳川忠長は、江の強い希望で織田家直系の娘と結婚している。近親で婚姻関係を固めようとする江の気持ちがよくわかる。
そして、江と秀勝の娘・完子が関白の九条幸家に嫁ぎ、約300年後の明治の世に、九条家から大正天皇の妃(節子皇后)が出たことから、その血脈は現在の天皇家にも繋がっている。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)

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