※本稿は、倉山満『嘘だらけの日本近世史―皇室から見た江戸時代―』(扶桑社)の一部を再編集したものです。
■秀吉が直面した「皮膚感覚の差別意識」
天皇は、政治の勝者を承認する存在です。織田信長が日本の最強実力者でありながら、何者でもない存在となっていました。かつて存在した天皇家を凌駕する権力者は、藤原氏が関白、平清盛は太政大臣、鎌倉と室町の両幕府は征夷大将軍と、天皇から官職を与えられて日本を支配しました。天皇は政治の最高権力者の任命権を持っているのです。
しかし、信長はその枠外にいる。一時は「信長は朝廷の権威を否定している」とされ、挙句は「自分が天皇になろうとしていた」との説を唱える人までいたのですが、さすがに修正・否定されています。
ただ、晩年の信長が不気味な存在だったのは間違いありません。この状況に決着をつけようとしていた時に起こったのが、天正10(1582)年6月2日の本能寺の変です。
突如として権力の空白が生まれます。これを収拾したのが、信長の家臣だった羽柴秀吉です。
秀吉は、信長以上に朝廷の権威を利用しつくしました。その過程は、名著『秀吉再考』(ワニブックス、2025年)をどうぞ。言ってしまえば、秀吉には朝廷の権威を利用する動機(モチベ)があるのです。
農民から大名になった秀吉は、周りのすべての人間から差別されている存在です。戦国大名とは、「なんで俺がお前の言うことを聞かねばならないんだ」と思ってる連中に、言うことを聞かせてのし上がっていった人たちです。力でねじ伏せるし、時に権威も使う。
しかし秀吉は「そもそもお前は同じ空間で俺と対等に口を聞ける存在ではない」と思われている存在なのです。
『秀吉再考』で書いときましたが、小田原北条氏など、信長には力の差を認めて臣従の姿勢を示しました。しかし秀吉には、滅ぼされるまで抵抗しました。その差は何なのか。滅ぼされてでも抵抗した北条氏の論理は、あまりにも不合理です。
秀吉はそういう「すべての人間が自分を差別する世界」でのし上がったのです。
■「開かれた皇室」を閉ざし天下人へ
最近では日本中世史研究の「レジェンド」と紹介される今谷明先生にお聞きした話なのですが、戦国時代の御所は庶民が入れたそうです。御進講した際に、驚かれたともお聞きしました。誰に驚かれたかは、控えますが。
だから、後奈良天皇が宸筆(しんぴつ)の書や和歌なんかを置いておくと、庶民がお金を置いて持って行ったのです。ちなみに宸筆とは、天皇が自分で書いた字のこと。後奈良天皇は不正な金を受け取るのが嫌で、貧乏でも自分で稼ごうと内職(バイト)していたのです。無人販売で。庶民の方も、「ここまではいいけど、こっから先は入っちゃダメ」ってのを心がけていたようで。
それを秀吉が立ち入り禁止にしました。もちろん、「開かれた皇室」をやめ、権威を高めるためです。
秀吉の天下統一戦略において、朝廷は中核になります。
もちろん戦国時代ですから、武力を持っていなければ、誰も言うことを聞きません。しかし武力だけでは長続きしないのも、戦国時代の特徴。天下人になる必要条件が武力で、十分条件が権威による承認なのです。
■秀吉は天皇から認められた
それがよくわかるのが、1584年の小牧長久手の戦いから、翌年までの流れです。
小牧長久手の戦いとは、羽柴秀吉と徳川家康が直接戦った戦いです。徳川史観では「徳川が勝った」ことになっていますが、そんなのは後に家康が天下を取ったからのプロパガンダにすぎません。実際は、秀吉の勝ちです。どうやって勝ったか。
家康は信長の遺児の織田信雄と組んで、さらに越中(富山県)の佐々、紀州(和歌山)の雑賀、四国の長曾我部を巻き込み、秀吉に戦いを挑みます。そして秀吉がいない局地戦では勝利を収めます。秀吉と家康の一騎打ち自体は、睨み合いの膠着状態。
その間に秀吉は同時並行で翌1585年にかけて、信雄、佐々、雑賀、長曾我部を各個撃破。家康を孤立させます。6月から8月にかけて長曾我部を攻める四国征伐を行っているのですが、圧倒的有利な状況の7月、元関白で准三后の近衛前久(このえさきひさ)の養子となり、藤原に改姓し、藤原秀吉(ふじわらのひでよし)を名乗ります。そして従一位関白に。
要するに、秀吉は正親町天皇から天下人として認められました。大勢は決していたからこその、承認です。ほどなくして、家康は秀吉に忠誠を誓いました。
■漁夫の利で「藤原」になる
秀吉を養子にした近衛前久、非常にユニークな人で、とてもお公家さんとは思えない人です。人生の半分を京都におらず、全国を駆け巡っています。上杉謙信と血盟を誓って、一緒に戦に参加したりしています。
近衛家と言えば、五摂家筆頭。
天皇が成人したら、関白が置かれます。関白は、最初は摂政の前官礼遇で始まったのが、天皇の第一の臣下で定着しました。ちなみに大河ドラマ『麒麟がくる』では本郷奏多さんがコミカルに演じていましたが、前久ってあんな人だっけ?
近衛前久の政敵が二条晴良(にじょうはるよし)。『麒麟がくる』では、よしもと新喜劇の小籔千豊が嫌味ったらしく演じていました。まあ、あんな感じの人だったしょうね。知らんけど。
■家康が頭を下げざるを得なかった理由
前久の息子の信輔と晴良の息子の昭実(あきざね)が、関白の座を争いました。関白相論と言われます。
信輔が昭実に関白を譲れと要求して、争いが泥沼化します。そこで妥協案として「秀吉に関白になってもらおう!」との意見が飛び出し、前久が飛びつきます。秀吉を養子にして藤原に改姓させ、従一位関白にしました。
この時点で既に秀吉に対抗できる実力者はおらず、信長死後3年にして、絶頂期の信長を超える実力と地位を手にしました。島津、北条、伊達など、秀吉に従わないローカル勢力もいましたが、一方的に掃討。教科書では「1590年に天下統一」とされます。「トーゴク丸めて天下統一」と覚えさせられた方も多いでしょう。しかし、1585(天正13)年の時点で大勢は決しているのです。だから家康も頭を下げざるを得ないのです。
■戦国時代を終わらせた「秀吉の偉業」
秀吉は同じ1585年、九州に向けて「惣無事令」を出します。関東に向けては1587年。惣無事令とは「私闘の禁止」です。戦国時代とは「自分の生命と財産は自分で守る」「殺されたくなかったら他国を奪う」の時代です。秀吉はそれをやめよと命令したのです。天皇の名前で。島津も北条も惣無事令違反で討伐されました。伊達は北条攻めの最中に降伏。
秀吉に臣従したくない大名は「なんでお前如きの言うことを聞かねばならないんだ?」と思ってるのですが、それに対して秀吉は「天皇陛下の第一の臣下である俺様の言うことが聞けないのか」との論理で対抗しているのです。その代わり、臣従したら徳川や上杉のような大名はもちろん、小早川隆景のような毛利の家臣筋の人間にも官位をバラまきます。
秀吉は従った大名たちを朝廷の官位の秩序の中に組み込んで、支配したのです。
1586(天正14)年11月、正親町天皇が譲位します。応仁の乱の前の1464(寛正5)年の後花園天皇以来、実に122年ぶりの出来事です。皇室にとって戦国時代とは、言ってしまえば「譲位ができない時代」ですから、戦国の終わりを象徴する出来事です(小著『国民が知らない上皇の日本史』祥伝社、2018年)。これも秀吉の偉業です。
■官位バラまきで「豊臣家康」の時代も
本当は皇太子の誠仁(さねひと)親王が登極の予定だったのが、直前で急死。誠仁親王の息子(つまり正親町天皇の孫)の周仁(かたひと)親王が践祚しました。後陽成天皇です。朝廷では秀吉の関白就任はワンポイントリリーフと考えられていたようですが、秀吉にそんな気はありませんでした。
12月、新帝の下で太政大臣に。もはや信長を超えるどころか、平清盛や足利義満と並びます。そして新たに豊臣の姓を賜ります。ここで、藤原良房以来約700年の摂関独占が崩れます。一時的に「六摂家」になっていました。
ついでに家臣となった大名たちに豊臣の姓も押し付け――じゃなかった、与えています。例えば徳川家康の本姓は源氏なので「源家康」ですが、短い期間は「豊臣家康」です。後に、そんな歴史的事実は無かったかのうように、「源家康」に戻していますが。
■天皇を利用し尽くした
1588年、秀吉は後陽成天皇を聚楽第に招きます。むしろ行幸(天皇の移動のこと)の為に、聚楽第を建てました。
この際、天皇の弟の六宮(後の智仁(としひと)親王)を養子とすることを許してもらい、将来は関白を譲るとまで言い出します。しかし、1589年に実子の鶴松が生まれると、智仁親王が邪魔になり、八条宮家を創設してそちらへ。あのなあ。
悪いことはできないもので、鶴松が夭逝してしまいます。それでもメゲてもいられない秀吉は、1591年に甥の秀次に関白を譲ります。豊臣家による世襲の宣言です。もっとも、その秀次を後に殺してしまうのですから、錯乱してます。
このように、秀吉と正親町天皇、後陽成天皇の関係は、一応は良好です。秀吉は晩年の信長と違って、朝廷を大事にする以外の選択肢がありませんから。秀吉は出自の問題(ハンディ)が大きすぎます。
ただ、本気で尊崇しているのではなく、利用しているだけ。秀吉は「実は天皇の御落胤」とかトンデモないデマを流していますが、勝手に父親にされた正親町天皇からしたら「お前の母親が自分の女中として仕えて、お前をはらんで農民になったのか」です。バカにしてんのか?
秀吉が関白として権力を振るっている以上、院政を行う余地はなく、70歳で譲位した正親町上皇は、平穏な余生を過ごしたようです。それでも出陣の際の見送りには駆り出され、朝鮮出兵で秀吉が京都を離れる時は見送りをしています(藤井譲治『天皇と天下人』講談社、2011年)。ちなみに秀吉の渡航を全力で止めるのは、後陽成天皇の仕事。
正親町上皇、1593年に崩御します。贈り名は「正親町に住んでたんだから、正親町院でいんじゃね?」と軽く決定。
原文は、「院の北の御門正親町通ナル故」です(『正親町天皇実録』第二巻。歴代天皇実録はすべて、ゆまに書房で発行年省略)。
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倉山 満(くらやま・みつる)
皇室史学者、憲政史研究者
1973年、香川県生まれ。96年中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程を修了。救国シンクタンク理事長兼所長。現在は「倉山塾」を開講、ネット放送局「チャンネルクララ」を開局し、大日本帝国憲法、日本近現代史、政治外交について言論活動を展開。著書に『嘘だらけの日米近現代史』をはじめとする「嘘だらけ」シリーズ(いずれも扶桑社)のほか、『13歳からの「くにまもり」』(扶桑社新書)などがある。
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(皇室史学者、憲政史研究者 倉山 満)

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