豊臣秀吉と徳川家康、2人の天下人にはどんな違いがあったのか。皇室史学者の倉山満さんは「天皇に対する姿勢が大きく異なる。
秀吉は天皇を利用し尽くしたが、家康は天皇に法令で義務を課した前代未聞の支配者だった」という――。(第2回)
※本稿は、倉山満『嘘だらけの日本近世史―皇室から見た江戸時代―』(扶桑社)の一部を再編集したものです。
■天皇に「ぜひ中国の皇帝に」と進言
天下人の豊臣秀吉、明に攻め入ると言い出します。いわゆる朝鮮出兵(1592~98年)です。
秀吉、「今の天皇には中華皇帝になってもらい、日本の天皇には八条宮か若宮を」などと言い出します。八条宮は天皇の弟、若宮は良仁(かたひと)親王で天皇の皇子です。仕方がないので、天皇は連れて行く公家の人選を始めます(跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇』戎光祥出版、2016年、133~137頁)。
秀吉の朝鮮出兵、長らく言われてきた誇大妄想ではなく、今では大航海時代に対応した現実的な政策だったのでは? と評価されています。すなわち、日本は喰わねば喰われる戦国時代だけど、世界全体も喰わねば喰われるのには変わりなく、だから先手を打って領土を広げねばならないのだとの感覚で出兵したのだと。ただ秀吉の考えがそうだとしても説明がまったくないので、当時の日本人には誰にも分りません。
出兵の見送りには後陽成天皇も正親町上皇も駆り出されていますが、二人とも秀吉自ら渡海しようとしたのに反対しています。
後陽成天皇は御宸翰(ごしんかん)(天皇直筆の手紙)を送って、止めます。
中野等「太閤秀吉の『唐入り』構想と朝廷」は、後陽成天皇が秀吉の渡海を止めたと評しています(橋本政宣編『後陽成 天皇秀吉と対峙しつつ宮廷文化・文芸を復興させた聖王』宮帯出版社、2024年)。
周囲の必死の引き留めもあって秀吉渡海による本格進攻は止まりましたが、遠い異国のチャイナで「皇帝になってください」と進言された(事実上の強制)天皇、どんな心地だったか想像に難くありません。皆さんも「火星に一万坪の土地をあげます」と言われても、「そこまで言うなら銀座に十坪ください」と返すのではないでしょうか。
■秀吉の死が政界に不穏を招いた
1598(慶長3)年8月、秀吉が死去します。秀吉の死は公式には隠されていましたが、すぐに公然の秘密、つまりバレバレになりました。
なんだかんだの蜜月関係を築いていた秀吉の死と前後して、天皇も体調を崩していました。天皇、譲位をしたいと言い出します。なら、仕方ない。ただ、弟の「八条宮に譲りたい」と言い出したのには、みんな「なんで?」と困惑。既述の通り、八条宮(智仁親王)は、秀吉の養子になったこともあります。つまり臣下になる予定だった皇族。息子の良仁親王がいるのに?
しかし、後陽成天皇は良仁親王を「若宮」と呼ばず、異母弟を「若宮」と呼ぶようになっていました。
この時代、立太子の儀式が絶えていて、時の天皇が「若宮」とか「一宮」 と呼ぶと、周囲が「ああ、この子が次の天皇になるんだな」と認識する運用でした。正式な皇太子はいなくても、儲君(ちょくん)はいました。
要するに、天皇の心変わりです。
それにしても絶対権力者である豊臣秀吉の死は、政界に不穏を招いています。おそらく息子の良仁親王に譲ると言えば何の問題も無かったでしょうが、秀吉死後に儲君交代での譲位を言い出す。さすがに政治センスが無さ過ぎです。
結果的に、譲位は沙汰やみとなりました。
ところで、中世史家の多くは「歴代武家政権は、朝廷を滅ぼすとかえって不都合なので滅ぼさなかっただけ」などと考える人が多いのですが、秀吉には当てはまらないことが多いのです。だから皇室史学者として『秀吉再考』を書いたのですが。
ただ家康の場合には、大いに当てはまります。
■なんとか和平したかった天皇
後陽成天皇の踏んだり蹴ったり人生、ここからが本番です。
秀吉死後の覇権争いは、徳川家康の勝利に終わったのは、日本人なら誰でも知っています。
石田三成が結集した西軍を徳川家康率いる東軍が、関ケ原の戦いで鎧袖一触(がいしゅういっしょく)。豊臣家を守ろうとした三成の努力はあえなく粉砕され、徳川の天下となりました。
天皇、局地戦の田辺城の戦いでは、活躍しています。立てこもるのは文武両道に優れた細川幽斎。お公家さんにも歌道を教える第一級の文化人で、『古今和歌集』の秘伝の解釈である「古今伝授」も受け継いでいます。天皇は「幽斎が死んだら古今伝授が絶えてしまう!」と、幽斎の歌の弟子でもある八条宮らを勅使として派遣、勅命和議による平和裏の開城に漕ぎつけました。
これを「後陽成天皇、最後の輝き」と言ったら怒られるのでしょうが。ちなみに天皇、確かに多くの学芸に秀でた方だったので、和平に熱心でした。
天皇は、第一皇子の良仁親王を出家させます。そして、関ケ原の戦いから三カ月後の1600(慶長5)年12月、後に後水尾天皇となる、第三皇子の若宮に親王宣下します。政仁(ことひと)親王です。そして儲君とします。

この時、立太子の礼を復活させようとしたようですが、断念しました。後陽成天皇は色々と朝儀を復活させるのですが、すぐに途絶してしまいます(藤田覚『江戸時代の天皇』講談社、2018年、108頁)。
■「ときどき迷惑」な秀吉、「嫌な奴」だった家康
1603年、後陽成天皇は徳川家康を征夷大将軍に任じます。名実ともに、江戸幕府による、江戸時代の開始です。
家康は2年後、息子の秀忠に将軍職を譲ります。ただし、「大御所」として実権は握り続けます。「天下は徳川のもの(で世襲)だ。(豊臣には返さない)」との宣言に他なりません。その後、ジリジリと追い詰められた豊臣氏が、大阪の陣(1614~15年)で滅ぼされるのは、教科書で習う通り。
さて家康・秀忠親子、豊臣つぶしの傍らで、朝廷いびりもやっているのです。
朝廷から見て秀吉は「ありがたいけど、ときどき迷惑」でしたが、家康秀忠親子は「ハッキリ嫌な奴」です。
秀吉と違って、家康には必要以上に朝廷をありがたがる理由は、ありません。
「俺は力で勝った。全員が従え」で終了です。朝廷の権威が必要だとしても、最低限で良いのです。もちろん、自分が天皇になろうとでもしたら、「なんでお前が」となって面倒臭いから、それはやらないのですが。
将軍となった秀忠は、譲位に備えて仙洞御所を用意し始めます。天皇が譲位の意向を最初に示してから、7年。しかし、あれやこれやと理由をつけて、家康と秀忠は譲位させません。
そんな1609年、猪熊事件が発生します。
■天皇をコケにする家康
当時は「傾奇者」と称するファッション&素行の不良が流行していました。下っ端の公家である猪熊教利も、その一人でした。顔だけはイケメンだったようですが。その猪熊らと官女の密通(要するに不良仲間で色んな女とヤリまくりの乱交)が発覚。

官女は天皇に仕える女性で、時に天皇の妻となる可能性もあります。要するに今風の感覚で言えば、天皇が部下に女を寝取られたのです。当然、メンツをつぶされた天皇は激怒。厳罰を宣言します。
しかし、家康と秀忠は「まあまあ、事件の真相をよく調べてからにしましょう」などと、言葉の表面だけの正論を主張。結果的に、首謀者の猪熊ともう一人だけは死刑ですが、他の男は島流しで許してあげる。女も5人だけを島流しにして終わり。
朝廷の多数も幕府の処分をやむなしとし、孤立した天皇も屈服。
翌1610年、家康も譲位を了承します。しかし、「娘が亡くなったんで、ウチの葬式をしなきゃいけないんで、譲位は延期ね」とかふざけた態度。これも天皇は呑まされます。
ようやく1611年、譲位ができました。家康秀忠親子は、徹底的に後陽成天皇をコケにして、ギリギリまでいびった上で「譲位をさせてやろう」とばかりの態度で、認めました。
こんな調子で、院政ができるはずもありません。憤懣やるかたない後陽成上皇、息子の新帝にも嫌がらせを始める始末。引継ぎもマトモにしないとか。それ会社でやったら、怒られるぞレベル。当然、当たられた後水尾帝は、父を憎むようになります。
ただ、徳川の圧迫はこんなものではなく、さらに調子に乗ります。
しかし、英主の後水尾天皇は、黙ってやられてばかりではありません。
■「武力を持たぬ天皇」は圧倒的に不利
家康が豊臣家を滅ぼした大坂の陣は、1614(慶長19)年の冬の陣と、翌年の夏の陣の2回行われています。真田幸村の活躍が語り継がれ、何か豊臣方にも勝機があったかのように思われがちですが、善戦は局地戦だけで、大局的に見ればワンサイドゲームです。
この冬の陣に後水尾天皇は介入しようとして、あっさり勅命和議を拒否されます。まだ天皇、即位3年目の18歳。百戦錬磨の天下人である家康(当時73歳)と張り合うには若すぎました。ちなみに正親町天皇は信長より18歳年上。武力を持たぬ天皇が最高権力者と対峙するには、年齢とそれに伴う経験が必要なのです。
家康からしたら、「天皇に頼らずとも豊臣など滅ぼされるのに、余計な借りは作りたくない」です。
1614年4月、秀忠は娘の和子を天皇に入内させると決めています。いずれ和子が産んだ子、つまり孫を天皇にする気、満々です。家康・秀忠親子は、皇室を徳川の支配下に置きたいのに、格下と思っている婿殿の恩を受ける気などありません。
それどころか、前代未聞の法令を押し付けました。禁中並公家中諸法度です。ちなみに「公家諸法度」でも間違いではないですが、「公家中諸法度」が広く使われたようです。
■法律で天皇を支配した
何が前代未聞か。天皇を成文法で規定したところです。
公家の憲法とも言うべき律令には、天皇の規定などありません。天皇は存在するのが前提であり、法の上にある支配者だからです。もっとも、これは建前で、実際は万能の権力者でも何でもないですが。
ところが家康は、その建前をぶち壊し、天皇に法令で義務を課しました。義務を課すとは、支配することと同じです。
第一条に「一 天子諸芸能之事、第一御学問也。(中略)所載禁秘抄御習学専要候事。」とあります。訳すと「天皇はまず学芸を身に着けろ、(中国の古典にも書いてあるし、宇多天皇もそう言ってるし、和歌とかつまんないけど伝統なんだから続けるべきだし、順徳天皇も)『禁秘抄』で書いている」です。
要するに、「天皇は勉強しっかりやれ」って、教育パパゴンのお説教。天皇からしたら、余計なお世話です。

----------

倉山 満(くらやま・みつる)

皇室史学者、憲政史研究者

1973年、香川県生まれ。96年中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程を修了。救国シンクタンク理事長兼所長。現在は「倉山塾」を開講、ネット放送局「チャンネルクララ」を開局し、大日本帝国憲法、日本近現代史、政治外交について言論活動を展開。著書に『嘘だらけの日米近現代史』をはじめとする「嘘だらけ」シリーズ(いずれも扶桑社)のほか、『13歳からの「くにまもり」』(扶桑社新書)などがある。

----------

(皇室史学者、憲政史研究者 倉山 満)
編集部おすすめ