戦国武将には男色が多かったのは本当か。歴史作家の河合敦さんは「日本では古代から男性同士の恋愛は珍しくなかった。
とくに戦国時代は男性と恋愛をする武将がおり、歴史資料として恋文が残っている」という――。
※本稿は、河合敦『戦国武将は戦がないとき、何をしていたのか』(ポプラ新書)の一部を再編集したものです。
■織田信長と森蘭丸の恋愛関係はデマ
現在、性の多様性が盛んに言われるようになっているが、日本では古代から同性間(主に男性間)での恋愛は珍しいものではなかった。とくに戦国時代は、武将と年下の者との恋愛関係は“一般的”だといえた。
そう聞いて、一番に思い浮かぶのは、織田信長と小姓の森蘭丸の関係だろう。だが、意外にも二人が性愛関係にあったというのは、一次史料(当時の手紙や日記、公文書など)では一切確認できないのだ。
それどころか、比較的信憑性の高い二次史料(後世の編纂物)である太田牛一の『信長公記』にも記されていない。つまり、デマなのだ。
■上杉謙信が同性愛者である根拠
生涯独身を通した上杉謙信は、本当は女性だったとか、同性愛者であったとかいわれる。さすがに女性というのは無理があるが、同性愛者の根拠とされるのは、関白の近衛前久が知人の僧侶に宛てた手紙だ。
そこには、謙信が上洛したとき、「彼が華奢な若衆をたくさん集めて夜更けまで大酒を飲んで楽しんでおり、たびたび夜を明かすこともあった。謙信は大の若衆好きだという」と記されているからだ。
若衆とは、男色の相手役となる少年のこと。
ただ、歴史学者の山田邦明氏は、この説を明確に否定している。手紙の文中で若衆を集めて「夜通し酒を飲んだのは義輝と前嗣で、景虎の動きをこの書状から直接うかがうことはできない」(『人物叢書 新装版 上杉謙信』吉川弘文館)というのだ。
■謙信が生涯不犯を通したワケ
義輝とは将軍・足利義輝のこと。前嗣とは近衛前久、また景虎は謙信のこと。
確かに文中には「少弼(景虎)は若もじ(若衆)数寄の由、承り及び候」とあるが、これは「謙信も若衆が好きだと聞いていますよ」という噂を書きとめたにすぎない、と山田氏は同書で述べている。
おそらく謙信が生涯不犯を通したのは、仏教(ことに毘沙門天)に帰依していたからだろう。
幼い頃、名僧・天室光育の薫陶を受けて深く仏教を崇敬し、京都大徳寺に参禅したり、二度も高野山へ参詣しており、45歳のときには剃髪している。
■武田信玄が16歳の少年に宛てた恋文
一方で、しっかり一次史料に同性愛指向が残る武将がいる。それが上杉謙信のライバルである甲斐の武田信玄だ。
信玄が20代のときに6歳年下の春日源助(源五郎)に与えた恋文が東京大学史料編纂所に残っている。
恋文というより、ちょっと驚くが、ほかの男性との浮気を源助に弁解する手紙である。
その内容を簡単に紹介しよう。
「確かに私は、弥七郎にたびたび言い寄ったが、彼は腹痛だといって、ついに私は思いを遂げることはできなかった。これはウソではない。これまでも弥七郎に夜伽(よとぎ)をさせたことはただの一度もない。
とくに今日は、庚申の日(庚申待。神仏を祀り、皆で徹夜をする習俗)なので、彼に伽をさせることはできるはずもない。どうか、私のことを疑わないでほしい。神仏に誓うよ。もしこの話が偽りなら、私は神仏の罰を受けてもかまわない」
■信玄の地位を不動にした元カレ
こう記し、最後のほうに大明神や八幡大菩薩、諏訪上下大明神などの名がずらずらと書かれている。おそらく恋人の源助が、いきなり信玄の浮気を疑って事実かどうかを迫ったので、慌てて書いたのだろう。
本来なら起請文なので牛王宝印という専用紙の裏に記すのだが、その暇もなかったようだし、文章も言い訳を重ねて見苦しい。
このとき信玄は22歳の青年。
源助は16歳の少年で、のちに彼は武田氏の重臣となり、高坂弾正虎綱と名乗る。武田信玄の事蹟を称えた軍学書『甲陽軍鑑』は、この高坂が大部分を執筆したといわれている。
つまり、名将としての信玄の地位を不動にしたのは、かつての恋人だったわけだ。なんとも面白い。
■伊達政宗が男性に送ったラブレター
あの「独眼竜」と呼ばれた伊達政宗にも男性の恋人がいた。相手の只野作十郎に宛てた書簡が仙台市博物館に残っている。こちらも浮気に関連する揉め事の手紙だ。
政宗は作十郎と恋愛関係にあったが、あるとき政宗は作十郎がほかの男と浮気をしたと疑い、酒の席でひどく罵った。これにショックを受けた作十郎は、自分の腕を脇差で傷つけ、身の潔白を誓う起請文に血判を押して政宗に送りつけてきたのである。
これに対する政宗の返信が現存している。意訳して紹介しよう。
■どうしてもお前を諦めることができない
「すまん。
酒の席でお前に何を言ったのか、まったく覚えていない。でも、どうしてもお前のことを諦めることができない。なぜ腕を傷つけて血判など押したのか。もし私がその場にいたら、抱きとめてもやめさせたものを。
お前の真摯な気持ちに対し、私も股や腕を傷つけなくてはならないと思っている。けれど私は孫を持つ身。そんなことをすれば、『いい年をして』と陰口を叩かれ、子や孫の恥になる。だからグッと我慢している。
私も部下が見ているところで起請文を書いて血判を押したので、どうかこれで赦してほしい」
戦国武将の衆道(男色。若衆道の略)は一般的だとは知ってはいても、孫を持つ政宗が、こういった手紙を男性の恋人に認めていたというのは興味深い。

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河合 敦(かわい・あつし)

歴史作家

1965年生まれ。東京都出身。
青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史作家 河合 敦)
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