2022年7月に起きた安倍晋三元首相銃撃事件の現場では何が起きていたのか。居合わせていたベテラン記者のICレコーダーには「なんや?」とつぶやく自分の声が入っていたという。
読売新聞大阪本社のルポをお届けしよう――。
※本稿は、読売新聞大阪本社取材班『絶望の凶弾 安倍元首相銃撃事件 山上被告を追った1294日』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
■前日に決まった応援演説
背筋が凍る光景を目にすることになるとは、誰も想像さえしなかっただろう。
2022年7月8日、奈良市の近鉄大和西大寺駅北口のロータリー。空は雲で覆われ、気温は30度に満たず、屋外で立ち続けても暑さは苦にならない。夏場の選挙遊説にしては上々の天気に後押しされた面はあるが、金曜日の昼前に多くの人が集まったのはやはり、元首相の安倍晋三(67)がこの地に来るからだ。
岸田政権下で迎えた第26回参院選の投開票まで、あと2日。ここ奈良選挙区では日本維新の会の新人候補が勢いを増し、元総務官僚で自民党の現職候補、佐藤啓(43)を追い上げていた。そんな情勢が報じられ、自民党陣営は引き締めを図っていた。
安倍が佐藤の応援演説に立つことは前日に急きょ決まった。この選挙期間中に奈良入りするのは二度目だ。安倍が会長を務める自民党最大派閥「清和政策研究会」に佐藤が所属しているとはいえ、再訪には陣営内でも驚きがあったという。

■360度どこからでも姿を眺められる状況
大和西大寺駅は、古都・奈良の玄関口と言っていい。
駅名の由来となった西大寺は、奈良時代に建立された古刹(こさつ)。当時は近くの平城宮を挟んで東にある東大寺と、その名の通り並び称される存在だったとされている。駅の誕生も1914年(大正3年)で、歴史は古い。
近鉄京都線・橿原(かしはら)線と奈良線が十字に交差する奈良最大級の駅で、大阪の難波や京都まで30分。駅の北口には複数の商業施設が立ち並ぶ。通勤・通学の駅利用者に限らず、家族連れの買い物客もこのエリアに足を運ぶ。
大物政治家を迎えた街頭演説の地として、大和西大寺駅北口は以前からよく使われてきた。ただ、今回は交差する車道の真ん中、ガードレールに四方を囲まれた「中州」のような場所で街頭演説会が行われることになっていた。
360度、どこからでも姿を眺めることができる。そんな機会は珍しかった。
ぎゅっと握った拳で安倍が候補者の佐藤とグータッチし、いよいよ「中州」に置かれた小さな赤い箱形の演台に上ったのは、午前11時28分のことだ。

「皆さんこんにちは。安倍晋三でございます」
右、左、そして左の上へと安倍は順に顔を向けた。足を運んでくれた市民らにお礼を述べ、深くお辞儀をしてから、演説を始めた。
安倍から見て左右の歩道上を中心に集った聴衆は、警護にあたる奈良県警の想定を50人上回る約300人に増えていた。左手の方向にそびえ立つ商業施設「サンワシティ西大寺」でも、ガラス張りの通路から見下ろす人たちの姿が各階に並んだ。
■大きな破裂音がした
この時、安倍の後方にあたる南側の歩道では、眼鏡にマスク姿の男が聴衆に紛れて立っていた。演台上の安倍に控えめな拍手を送り、静かに辺りを見回していた。
「佐藤啓候補から、本当に、魂を込めた、訴えがありました。若々しい、頼もしいですね。佐藤さんは、総務省出身。でもただの、官僚ではありません。スーパー官僚だったんです」
右手でマイクを握りしめ、左の拳を訴えに合わせて振る。
推す声は徐々に力強くなった。目尻を下げた柔和な表情から一変し、眉間にしわを寄せ、視線も鋭さを増した。緩急、強弱を織り交ぜる安倍ならではのスピーチ術なのだろう。聴衆は熱のこもった演説に目を凝らし、安倍の後方を気にする者はいなかった。
ちょうど11時30分。「すごいではありませんか」と、安倍が佐藤の業績をたたえて拍手が湧き起こったところで、そっと後方の男が歩みを始めた。
警戒する警察官や聴衆の誰からも制止されないまま66秒が経過し、安倍がこう一段と声を張り上げた時だった。
「彼は、出来ない理由を考えるのではなく――」
背後の道路で大きな破裂音がした。
分厚くて重い、しかし角張って鋭い、複層的な響き。パーン、という拳銃のような乾いた音ではなく、バーン、でもない。現場の人たちが後に口にした擬音語は、ドーン、が多かった。受けた衝撃の大きさも影響したのだろう。

■すぐに状況をのみ込めなかった
驚きのあまり、倒れて地面で頭を打ってしまう人もいた。だが、特殊な音のせいもあって、聴衆はすぐに状況をのみ込めなかった。のちに警護状況を検証した警察庁の発表によれば、現場にいた警視庁と奈良県警の警護員ですら、「銃声だ」と瞬時に察知した者は一人もいなかった。この音を振り返って「打ち上げ花火のような音だった」と表現した警護担当者もいた。私たちの取材に対して「タイヤの破裂音」に例えた警察官もいた。
耳をつんざく発射音の残響とともに、白い煙が一気に広がった。
この瞬間、安倍の後方に並んだ自民党の参院議員や県連幹事長らは、背後で響いたあまりに大きな音と強烈な風圧で、一様に首をすくめてかがんだ。結果的に、あの男から見れば、安倍への視界が開かれる形となった。
安倍は発言を止めたが、身じろぎもしなかった。一呼吸置いてから、左肘を曲げて拳を握ったまま、ゆっくりと左回りに振り返ろうとした。
男はさらに接近し、背後5.3メートルの地点で、黒い粘着テープをぐるぐると巻いてパイプを束ねた物体を構えた。一度目の筒音から2.7秒後。
再び同じ音がした。
■粉々に砕かれた国会議員のバッジ
安倍は左脇を腕でぐっと締めつけながら演台を下り、膝を地についてうずくまった。弾丸が左の上腕から体内に入ったのだ。弾は一気に左右の鎖骨の下にある動脈を傷つけ、安倍は意識を失った。ジャケットの左胸に留めていた国会議員のバッジも、被弾して粉々に砕かれていた。
2発目から2秒後。「中州」のガードレールを乗り越えて決死の形相で駆け寄った警護員の一人が、男の右腕をつかんだ。その直前、男はもう用済みだというかのように、手にする黒い物体を路上に放り落とした。すぐに2人目も加勢し、滑り込むようにして脚をつかむ。倒され、抑え込まれた男は、無抵抗で無表情だった。
「え?」「何事?」。戸惑いの声が交錯する中、バタバタと大勢が駆け寄って安倍を囲うように人だかりができた。

「救急車!」「AED!」
陣営の関係者らが絶叫したことで、多数の聴衆は事態の深刻さに気づいた。
■現場に居合わせたベテラン記者
事件の取材が唐突に始まるのは、いつだって同じだ。しかし、今回の初動はいつもと大きく違っていた。読売新聞の記者が一人、現場に居合わせていた。
奈良支局員として奈良県政を担当する平野和彦(45)は、運動部で長年経験を積んだベテラン記者だ。この時、安倍から見て左側の歩道上で演説を見守っていた。
政界での影響力も知名度も抜群の安倍が奈良入りするとあって、コーン標識とバーで区切った取材用エリアが設けられ、報道各社の記者が集まっていた。安倍の二度目の来県が示すように、激しく競り合う選挙戦となっていることで記者の関心は高まっていた。しかし、公平な報道が求められる中で大きく紙面で扱う予定はなく、普段通りの心境で脚立に上ってカメラを構えていた。
突如として、空気が揺れた。まるで目の前で特大の和太鼓をたたかれ、衝撃波が体の前面に押し寄せたかのようだった。
■「なんや?」とつぶやく自分の声
何が起きたか、わからなかった。演説のために録音中だったICレコーダーを後で聞き返すと、「なんや?」とつぶやく自分の声が入っていた。それでも反射的に、その場で警護員になぎ倒される男へカメラのレンズを向け、連写した。
この時はまだ「いたずらか?」と思っていた。「写真は撮れたし、もし、このトラブルを記事にするにしても、何とかなるだろう」
ふと、演台を見返した。安倍の姿がない。「お医者さんはいませんか!」と悲鳴のような声が飛び交っている。そこで事の大きさに気づいた。
会社へ一報を入れなくては。スマホを取り出したが、何度もタッチミスをした。記者生活22年目。スポーツ記者として数々の大舞台に立ち会い、追い続けた陸上の桐生祥秀が2017年に日本人で初めて100メートルの「10秒の壁」を破った時には、この感慨をどう書けばいいかと頭が真っ白になる感覚も味わった。しかし、今回のような動揺は初めてだった。
奈良支局へ電話を入れた。相手は「デスク」と呼ばれ、記者の原稿を手直しする立場の上司。
「安倍さんが撃たれたかもしれない」

「え? え?」
すぐには話がかみ合わない。
とにかく、一人では手が足りない。記者の応援派遣を求めた。

(読売新聞大阪本社取材班)
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