リニア静岡工区の2026年内着工に向け、静岡県とJR東海の対話が驚くべきスピードで進んでいる。ジャーナリストの小林一哉さんは「なぜこれをもっと早くできなかったのか。
世間に浸透した『静岡悪者論』が悔やまれる」という――。
■リニアの準備工事を静岡県が認めた
8.9キロにも及ぶリニア中央新幹線南アルプストンネル静岡工区の早期着工に向けてまた一つ話が進んだ。
静岡県は2月13日、トンネル本体工事の準備段階とするヤード(工事の作業基地)用地の拡張、造成などの準備工事を認める決定をした。平木省・副知事がJR東海の水野孝則・副社長に「自然環境保全協定書」を手渡した。
準備工事を静岡県が認めたことで、JR東海にとっては2026年内の静岡工区着工のさらなる弾みとなった。
この準備工事を巡っては、6年前の2020年6月26日、当時の川勝平太知事がJR東海の金子慎社長の要請を却下し、大騒ぎとなった経緯がある。
両者の初会談で、金子社長から「トンネル本体工事以外のヤードの準備工事を認めてほしい」などと要請を受けた川勝知事は、一度は要請を受け入れる姿勢を示したが、一変して却下したのだ。
翌日の新聞各紙は1面トップ記事で、「リニア27年開業延期へ 静岡県知事、着工認めず『JR東海の環境対策不十分』」(読売)、「知事ヤード整備認めず、JRリニア延期表明へ」(中日)などトップ会談が物別れに終わったことで、「2027年開業延期」が決定的となったことを一斉に報道した。
■「一方的な行政判断」でJR東海の要請を却下
この報道などがきっかけで「静岡県はごねている」「静岡県のせいでリニア開業が遅れる」などの批判が噴出し、リニア早期開業を望む人たちを中心に「静岡悪者論」がSNSなどで盛り上がった。
川勝知事は会談後の囲み取材で、5ヘクタール以上の開発行為には県と事業者の間で協定を締結することを定めた県の自然環境保全条例を挙げ「自然環境保全条例は5ヘクタール以上の開発であれば協定を結ぶ。県の権限はそれだけである。条例に基づいて協定を結べばよい。
活動拠点を整備するならばそれでよいと思う」などと述べ、いったんはヤードの準備工事を認めていた。
ところが、1時間以上もたってから再び囲み取材を行い、「自然環境保全条例に基づいて準備工事を認めない」と前言を翻してしまった。
理由として、JR東海が準備工事に斜坑、導水路、工事用道路の坑口整備(樹木伐採や斜面補強)、濁水処理等設備の設置といった本工事の内容を含めていたことを問題にした。
静岡県は、坑口整備や斜面補強などをトンネル本体工事の一部とみなして、準備工事を認めないとする一方的な行政判断を行ったのだ。
■「静岡悪者論」が横行する結果に
県の判断に納得できないJR東海は「条例の目的に照らして(静岡県の行政判断は)正当なものではなく、これまで担当課から説明を受けて準備を進めていたこととは違う」と、あえて事務レベル段階の交渉内容を明かした。「変更した経緯と理由を明らかにしてほしい」とする書面を送るなど、水面下で大いにもめたが、静岡県の行政判断を覆すことはできなかった。
この結果、静岡県が準備工事を認めなかったことが、「2027年開業延期」につながったという誤解をほとんどの人が信じ込んで、「静岡悪者論」が横行してしまった。
だが実際は、川勝知事が2020年6月の段階で準備工事を認めたとしても、2027年開業などできるはずもなかった。
トンネル本体工事に入るためには、河川法の占用許可などの手続きが行われなければならない。当時は水資源への影響について議論が行われている最中であり、下流域の市町、利水団体などの理解や同意が全く得られていなかった。
水を巡る問題はことし1月になってようやく、トンネル工事後の水資源に影響があった場合の補償の確認書を静岡県とJR東海の間で締結し、流域市町や利水団体などが了解したばかりである(「『川勝知事不在ではもう戦えない』手放しに2026年着工を喜べない、静岡リニア問題の『悲しすぎる政治的決着』」を参照)。
川勝知事の準備工事却下を伝えたマスメディアは、ヤードの準備工事とトンネル本体工事の違いを理解できていなかったのである。

■そもそも2027年開業は「夢のまた夢」だった
そうでなくても「2027年リニア開業」は夢のまた夢でしかなかった。
そもそも静岡工区のトンネル工事は掘削距離が長く、極めて難易度が高い。JR東海は本体工事着手から完成まで「最低でも10年間」を要すると予測していたのだ。
だから、2020年6月の段階で、トンネル本体工事の前段階でしかない準備工事に入っても、2027年までに静岡工区の工事が完了するはずもなかった。仮に2020年6月にトンネル本体工事に入っていたとしても、工事完了は2030年以降になっていた。
それなのに、「準備工事を却下した川勝知事が2027年開業を遅らせた“ただ1人の犯人”」が定説となり、「静岡悪者論」が独り歩きしてしまった。
なぜ、当時、川勝知事自身までが勘違いしてしまうほどのムリな行政判断を行ったのだろうか?
■自然環境保全条例はそれほど高いハードルではなかった
県とJR東海のトップ会談の10日前、大井川流域の首長と川勝知事の意見交換会が行われた。そこで、地元の首長らから「準備工事を認めれば、なし崩しに本体工事につながる可能性がある」「2027年開業にこだわるヤード整備は住民の不信感を増す」などと意見が出たことで、川勝知事としては何としても、準備工事を認めるわけにはいかなかったのだろう。
金子社長は「トンネル本体工事以外のヤードの準備工事ならば認めてもらえる」と確信していたのかもしれないが、当時、大井川流域全体にJR東海への不信感が渦巻いていたことを静岡県は重く見たとみられる。
そもそも、自然環境保全条例はそれほどの強い権限を有するものではないことはJR東海だけでなく関係者すべてが承知していた。
自然環境保全条例は、自然環境保全法に基づいて環境省が全国に指定する「原生自然環境保全地域」「自然環境保全地域」に準ずる地域を指定するために、各都道府県が制定している。条例は地域内の特に貴重な動植物の保全などを求めているが、開発を禁止しているわけではない。

また条例は強制力を持たず、開発業者が協定締結を怠った場合、業者名を公表する程度の罰則規定しかない。自然環境保全条例の規制は緩く、協定締結のハードルは非常に低い。
■条例を拡大解釈した県の「ストーリー」
川勝知事は「5ヘクタール以上の開発であれば条例に基づき協定を結ぶ。県の権限はそれだけである」と述べたのも条例の規制が非常に緩いことを承知していたからである。だから、金子社長も大いに期待してしまった。
ただ川勝知事も「準備工事を認める」とはっきりと言わなかったため、事務方と協議した結果、1時間以上もたってから2度目の囲み取材を行い、川勝知事は「自然環境保全条例に基づいて、JR東海の要請却下」を宣言したのである。
静岡県は南アルプスのリニアの準備工事に限って、自然環境保全条例の解釈、運用を拡大して、樹木伐採や斜面補強、濁水処理等の設置などをトンネル本体工事の一部とみなして、準備工事を認めないという「ストーリー」を組み立ててしまった。それだけ注目度が高く、また静岡県との厳しいやり取りの中で、JR東海も何らかの打開策を求めていた。
■「6年前の判断」を誤りと認めない県の顔をJRが立てた
今回の自然環境保全協定書で準備工事を認めたことで、「静岡悪者論」は払拭されるのだろうか?
JR東海は昨年8月、準備工事を認めてもらうための要望書を静岡県に提出している。
要望書の中には、準備工事はヤード用地の拡張にとどめ、「(準備工事には)坑口整備や濁水処理等設備の設置などの本体工事(トンネル工事)については含まない」と約6年前に静岡県が下した行政判断を尊重する断り書きを入れた。
実際には、坑口整備(樹木伐採や斜面補強)、濁水処理等の設置などを行ってもトンネル掘削ができるわけではない。だから、金子社長は当時トンネル本体工事以外の準備工事を要請したのだ。

JR東海は、いまだに静岡県が坑口整備、濁水処理等の設置などをトンネル本体工事の一部とみなしていることを事前に事務方から説明を受けたのだろう。だからJR東海は準備工事を認めてもらうためにご丁寧にも断り書きを入れたに違いない。
つまり、静岡県は「坑口整備や濁水処理などの準備工事はトンネル本体工事の一部である」とした6年前の行政判断が正しかったことにしたいのであり、事業者のJR東海も静岡県の指導に従ったことになる。
しかし、もし、そうであるならば、それこそ6年前に静岡県は、今回同様に坑口整備、濁水処理等の設置などを除いた準備工事にするよう、川勝、金子のトップ会談前にJR東海を指導すれば、当時のような大騒ぎにはならなかったはずである。
いまとなっては、すべてが遠い昔のことに思えるが、過去の事実をちゃんと踏まえて説明していかなければ、多くの人が抱いてしまった「静岡悪者論」を消し去ることはできない。
■県は「静岡悪者論」を払拭するよう行動で示せ
ことしに入ってから立て続けに、静岡工区着工に向けて驚くべき進展を見せている。
ヒ素など自然由来の重金属を含む要対策土の処理について、JR東海は2月4日の県専門部会でオンサイト処理(磁力選別による浄化処理)することを明らかにして、これまでの方針を180度変える方針を示した。これで川勝知事時代の懸案だった問題がすんなりと解決した(静岡リニアの「最後の障壁」をついに突破し「26年内着工」が内定…JR東海が放った1.2兆円の”ウルトラC”)。
なぜ、2027年開業が遅れてしまったのか?
JR東海の計画がずさんで見通しが甘かったことにも原因はあるが、反リニアに徹しているように見えた静岡県の対応に問題があったことも確かである。
「静岡悪者論」の払拭のためにも、静岡県は年内早期の静岡工区着工に踏み切らなければ、「リニア」は遠い未来の夢になってしまうかもしれない。

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小林 一哉(こばやし・かずや)

ジャーナリスト

ウェブ静岡経済新聞、雑誌静岡人編集長。リニアなど主に静岡県の問題を追っている。
著書に『食考 浜名湖の恵み』『静岡県で大往生しよう』『ふじの国の修行僧』(いずれも静岡新聞社)、『世界でいちばん良い医者で出会う「患者学」』(河出書房新社)、『家康、真骨頂 狸おやじのすすめ』(平凡社)、『知事失格 リニアを遅らせた川勝平太「命の水」の嘘』(飛鳥新社)などがある。

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(ジャーナリスト 小林 一哉)
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