「豊臣兄弟!」(NHK)では秀吉(池松壮亮)が出世し、家臣になる存在も登場してくる。系図研究者の菊地浩之さんは「秀吉は農民出身なので、もともとの家臣がいなかった。
与力として有名な蜂須賀正勝は、主君の信長が秀吉の下に付けたのではないか」という――。
■秀吉が最も頼りにした蜂須賀小六
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)第7回に木下藤吉郎秀吉(池松壮亮)の股肱(ここう)の臣・蜂須賀小六正勝(はちすかころくまさかつ)(高橋努)が登場する。今回は正勝だけではなく、その同輩というか仲間というか、前野長康(渋谷謙人)、稲田植元(たねもと)(沼口拓樹)も登場する。信長についた前野長康を介して、蜂須賀正勝を仲間に引き入れたという構図だ。
しかし、この3人はもともと岩倉織田家の旧臣なので、岩倉織田家が滅んだ後に信長に降って、秀吉の与力に付けられたというのが実際のところではないか。
与力というのは何かといえば、軍事指揮下における部下のことである。たとえば、課長や係長の給料は、その上司の部長がポケットマネーで支払っているわけではない。ただし、職場では部長の命令下で働く。同様に、蜂須賀小六は秀吉が個人的に俸禄を与えていたわけではなかったが、あたかも秀吉の家臣のごとく働いていたのだ(のちに家臣となる)。
信長の家臣には、佐久間信盛のように鎌倉時代の地頭の子孫で自前の家臣を持っていた者がいる一方、藤吉郎のように実力はあってもロクに部下を持っていない者がいた。そこで、征服地の岩倉織田家の旧臣を、藤吉郎のような人材の与力とした可能性が高い。
そうなると、藤吉郎や丹羽長秀(池田鉄洋)なんかは出世する一方、岩倉織田家の旧臣はその指揮下で出世するにとどまったという構図が見えてくる。
だから、信長時代に岩倉織田家の旧臣で大名クラスに出世した者は一人もいない。
当然、今回取り上げる蜂須賀正勝、前野長康、稲田植元、そして2006年大河ドラマ「功名が辻」(NHK)で有名な山内一豊は、いずれも信長時代にはそんなにエラくなっていない。
■岩倉織田家の家臣は出世できず
蜂須賀正勝、前野長康、稲田植元の3人はもともと岩倉織田家の家臣で、仲も良かったらしい。
『寛永諸家系図伝』の蜂須賀正勝の項に面白い話が載っている。
永禄13(1570)年、金ケ崎(かねがさき)の退き口の際に、秀吉が信長に殿軍(しんがり)を申し出ると、「信長其儀(そのぎ)に同(どう)じたまひ(い)、(蜂須賀)正勝ならびに木村常陸介・生駒甚介(親正)・前野将右衛門(長康)・加藤作内(光泰)右(みぎ)五人をのこ(残)しを(お)かれて、異儀なく人数(にんじゅ)(=兵)を引(ひき)とらる。又秀吉退陣の時ハ、正勝しつはらひ(い)(尻払=最後)たり。此後(こののち)所々数度の戦場に秀吉にくミして旗下となる」。
つまり、金ケ崎の退き口の際に、信長が蜂須賀、前野、生駒、木村、加藤を秀吉に附け、これを機にかれらが秀吉の与力になったのだという。実際には、それ以前から蜂須賀らが秀吉の与力になっていたと考えられるが、初期の秀吉を支えていた5人がセットになっているのは興味深い。そして、蜂須賀、前野、生駒の三人は親戚でもあった。
生駒親正の従兄弟(生駒家長(いえなが))の娘が、蜂須賀正勝の嫡子(蜂須賀家政)、前野長康の甥(坪内家定)にそれぞれ嫁いでいるのだ。そして、一説によると、稲田植元の妻が前野長康の妹であるらしい。

■主君を3度変え、秀吉の与力に
蜂須賀正勝は通称を小六、彦右衛門といい、海東郡蜂須賀村(愛知県あま市蜂須賀)の土豪で、はじめ犬山城主・織田信清(のぶきよ)、次いで岩倉城主・織田信賢、斎藤道三に仕え、永禄3(1560)年に信長に転じて桶狭間の合戦で軍功を挙げ、永禄13年(1570)の金ケ崎の退き口で秀吉とともに活躍し、それを機に秀吉の与力になったという(『寛政重修諸家譜』)。
蜂須賀家は尾張守護・斯波家の末裔(まつえい)を自称している。ただし、蜂須賀小六正勝といえば、『太閤記』で野盗の頭目として描かれているぐらいなので、そんな高貴な出自とは思えない。全くの嘘っぱちのように聞こえる。しかし、意外にもその可能性があるらしい。
『太閤記』では、秀吉と正勝が出会ったのは三河国岡崎の矢作(やはぎ)橋ということになっている。夜盗の頭領であった正勝が家来たちを連れて橋に通りかかり、そこで寝ていた秀吉(日吉丸)の頭を蹴ったまま行き過ぎる。目を覚ました秀吉が抗議し、正勝はこの若者の気概に感じ入って無礼を謝り、彼を客分として屋敷に招いたという。
という「矢作川の出会い」はウソだとしても、もっと早くから秀吉に仕えていたと思うのは筆者だけではないだろう。『織田信長家臣人名辞典』では、『太閤記』で永禄9(1566)年9月に秀吉の仲介で信長に仕えた説を紹介しているが、「豊臣兄弟!」でもそれくらいの時期に正勝が登場してくる。
天正元(1573)年に信長が北近江の浅井長政(中島歩)を滅ぼし、秀吉が近江長浜城主となると、正勝は秀吉から長浜に領地をあてがわれる。ここで秀吉と正勝の間に主従関係が成立するのである。
「豊臣兄弟!」では、秀吉が墨俣城を築くため、正勝に協力してくれたら後に城を授けると口説くが、それはこの展開の伏線であろう。
■実は信長に直接仕えていた?
天正7(1579)年の三木城攻めでは武功をあげた際には、信長から尾張海東郡のうちで加増されており、両属みたいな感じになっている。まぁ、当時は主従関係が江戸時代ほど厳格じゃなかったのだろう。
谷口克広氏が蜂須賀正勝について興味深い指摘をしている。すなわち、「三木攻略後は長秀(秀長)に従って山陰で働くことが多いが、戦闘に関しては子家政に任せがちになる。それよりも同九年頃、山陰での戦いについていちいち信長に注進して、信長の指示を受けており、秀吉に密着した立場にありながらも、目付役を務めていたのではないかとも思われる」(『織田信長家臣人名辞典』)。
秀吉は山陽方面に軍を進め、山陰方面を秀長分隊に任せた。秀長がいくら優秀であっても、戦の駆け引きには経験豊富な人材が必要なので、50代になった正勝が参謀役として秀長に附けられたのだろう。その一方、正勝の子・蜂須賀家政が20代になったことから、蜂須賀家の軍事指揮を委ね、世代交代を図ったものと思われる。
天正11(1584)年の賤ヶ岳の合戦後の領地配分で、蜂須賀正勝は播磨竜野城主となった(一説に天正9年)。天正13(1585)年に子・家政とともに四国征伐の主力を成し、合戦後には家政が阿波徳島を賜った。翌天正14年に死去した。

■嫡男の家政は阿波徳島の大名に
正勝の嫡男・蜂須賀家政は、天正3(1575)年から秀吉に仕え、長篠の合戦、伯耆攻略、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦などで武功をあげた。天正13年に父・正勝とともに四国征伐の主力を成し、合戦後に阿波徳島17万3000石を賜った。秀吉は正勝に阿波を与えようとしたが、自身は側近く仕えることを望み、家政に譲ったともいう。
家政の嫡男・蜂須賀至鎮は慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で、若干15歳にして細川忠興・加藤清正らと結び、徳川方についた。五奉行の増田長盛(ましたながもり)から「蜂須賀家は秀吉恩顧の大名なのに、なぜ家康につくのか」と書状で叱責されると、「豊臣家に叛(そむ)くわけではない。汝(なんじ)らと組むのが嫌なだけだ」と返答したという。父・家政は大坂城にとどまり、行きがかり上、毛利・石田方につく形になってしまったが、至鎮が家康方についたため、致仕するのみで赦された。至鎮は大坂夏の陣でも武功を上げ、元和元(1615)年に淡路を加えられ、25万7000石に加増された。
■淡路島が兵庫県に入った理由
稲田植元は一説に前野長康の義弟なのだが、蜂須賀正勝とも兄弟の契りを結んでいたといわれ、蜂須賀家の筆頭家老として淡路を領した。明治維新後、稲田家は独立運動を起こして、蜂須賀家徳島藩と対立。本藩の家臣が淡路洲本の稲田家を襲撃する事件が起きた(庚午(こうご)事変)。
そのため、淡路島は徳島県から分離され、距離としてはより遠い兵庫県に編入された。
一方、稲田の家臣たちは明治政府から北海道移住を命ぜられた。その北海道移住の苛烈さは、吉永小百合主演映画『北の零年』として2005年に公開された。
■前野長康とは義兄弟の契りを
前野長康は岩倉織田家の三奉行・前野小次郎宗康の次男である(『寛政重修諸家譜』では坪内勝定の長男と記されているが、年齢的に難しく、女婿の誤りだと思われる)。
蜂須賀正勝と兄弟の契りを結んでいたといわれ、同時期に秀吉の与力とされたようだ(『織田信長家臣人名辞典』)。天正11年の賤ヶ岳の合戦の功績で、播磨三木城主となり、四国征伐の後、天正13年に但馬出石(いずし)5万7000石を賜った。九州征伐、小田原征伐にも参陣。文禄の役では民政担当として石田三成ら奉行衆とともに渡海。帰朝後は豊臣秀次の後見役となった。文禄4(1595)年に秀次が切腹すると、長康および嫡男・前野景定は連座の対象となり、父子ともに切腹させられた。
女婿・前野兵庫忠康は俗に「舞兵庫(まいひょうご)」と呼ばれ、秀次および前野父子の切腹後に石田三成に転仕し、関ヶ原の合戦で討ち死にした。
長康の兄は母方の伯父・小坂(おざか)孫九郎政吉の養子となり、小坂孫九郎雄吉(およし)と名乗った。『寛政重修諸家譜』には「織田信雄(のぶお)につかへ」とあり、信雄の偏諱(へんき)を受けたのだろう。
武功夜話』を著した吉田孫四郎雄翟(かつかね)(1597~1658)は雄吉の孫とされている。

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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)

経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)
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