東京・港区にある赤坂氷川神社には、かつて境内から古剣や須恵器などが出土したという言い伝えがある。ノンフィクションライターの本田不二雄さんは「古代この地に古墳が築かれ、長い歴史の空白ののち、赤坂の総鎮守を祀る場所としてふたたび選ばれたのだろう」という――。

※本稿は本田不二雄『東京異界めぐり』(駒草出版)の一部を再編集したものです。
■紀州徳川家屋敷が発展の礎に
「赤坂」とは、もとは現在の赤坂見附から四谷方面に上る外堀通りの坂の古称。その上り口ふきんに建てられた江戸城の門に赤坂の名が冠され(赤坂御門/赤坂見附)、やがてこの一帯の地名になったといわれています。)
江戸時代の古地図(現在の東京メトロ「赤坂見附」周辺)を見ると、「赤坂御門」のほか、「赤坂表傳馬丁」、「赤坂田町」、「元赤坂町」、「一ツ木田丁(町)」などの文字が見えます。
ちなみに、かつての「赤坂」は現在「紀伊国坂」と呼ばれています。それは、隣接する赤坂御用地が江戸時代に紀州(紀伊国)徳川家の屋敷だったことによるもので、結果、この紀州徳川家の存在が赤坂というまちの発展の礎になったと考えられています。
さて、今回はまず、東京メトロ「赤坂」駅から徒歩8分の赤坂氷川神社を目指します。
アクセスの目印は「勝海舟邸跡」。そこから南につづく急な坂(本氷川坂)を上ると、やがて鬱蒼とした杜があらわれ、脇門から境内に入ると、趣ある築地塀に囲まれた神域が目に入ってきます。先ほどの赤坂の雑踏とはまるで異なる空気感。駅から徒歩7、8分で出会う江戸の風情がここにあります。
御祭神は、素盞嗚尊(すさのおのみこと)と奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)および、その子孫とされる大己貴命(おおむなぢのみこと)(大国主命)。
御神徳は厄除けと縁結び、家内安全、商売繁昌ほか。
■古剣、須恵器、管玉が出土したという証言
社伝によれば、平安時代に東国を遊行していた僧が赤坂一ツ木村で祭神のお告げによりお社を祀ったのがはじまりで、干ばつの折に祈ったところ、たちまち雨が降ったという霊験が伝えられています。
のち江戸時代の中期、紀州徳川家の吉宗公が8代将軍となったことで、屋敷のある赤坂一ツ木の地主神・氷川明神への崇敬が高まり、しかるべき場所に新たな社殿を造営すべく、現在地に遷されました。享保15年(1730)のことです。
社地に選ばれたこの地は、西北―北東に崖をなす高台で、外濠(堀)や溜池(ためいけ)を見下ろす場所にあります。さらにさかのぼれば、江戸湾の入り江だったとも考えられます。
そういう場所であれば、もしや……。
想像どおり、ここは東京に残る古墳参考地のひとつでした。『赤坂区史』(1941)には、当時の宮司のこんな談話が載っています。
「明治11年頃、『前方土塀の西角』のあたりで大杉の根株を除くために掘り下げたところ、地下約1.2~1.5メートルで『古剣』を発見。また鍬の先が大きな『石板』に当たり、慌てて埋め戻した」
また、明治の考古学者・野中完一氏は、社殿裏手で管玉(くだたま)や須恵器(すえき)片を発見し、「当地に古墳の存せしも破壊撹乱されたる結果ならん」と考察しています。
この境内地には何かが眠っているようです。

当社が江戸中期に遷座する以前の情報は皆無ですが、ともあれ古代この地に古墳が築かれ、長い歴史の空白ののち、赤坂の総鎮守を祀る場所としてふたたび選ばれたわけですね。
■マニアも絶賛する7対もの狛犬
ほかにも注目のポイントがあります。
狛犬マニアいわく、「東京で狛犬を観るなら赤坂氷川神社」。
なかでも楼門前の1対に注目です。延宝3年(1675)の銘があり、聞くところでは東京で2番目に古い石造狛犬とのこと。ずんぐりしたシルエット、頭頂部が凹んだ古風なスタイルが、マニアを萌えさせてやみません(筆者もですが)。
また特筆すべきは、異なる特徴をもつ狛犬像が7対も揃っていること。上記の江戸前期のものから、江戸後期、明治、大正、昭和と、各時代のデザインを1カ所で見られる(保存状態も良好)のがポイント高しとのこと。
■東京大空襲から社殿を護った大イチョウ
もうひとつ注目したいのが大イチョウ。社殿正面の参道脇に一本、その奥にさらに巨大な一本がそびえ立っています。神社HPによれば、幹回り7.5メートル、推定樹齢は400年で、神社が遷座する以前からこの地にあったとのこと。いわば赤坂のヌシですね。

ところが、木の背後に回ってみるとはっと声を失います。
幹(木芯部)のほとんどが焼けて失われているのです。1945年の東京大空襲で被災、焼損した跡だといい、だとすれば、この木はみずから盾となり、身を焼かれながらも、今も建立当時の姿を保つ氷川神社の社殿を護ってきたのでしょう。
■社の真下にぽっこり空いた謎の穴
では、境内の東側、二の鳥居からつづく参道の石段を下ってみましょう。
ここでまた風景が一変。より鬱蒼とした木々が日陰をなす一画となります。
左(北)に見えるお社は、近郷の稲荷4社を合祀したことから「四合(しあわせ)稲荷」(ご近所だった勝海舟の命名)と呼ばれていますが、問題はその隣、崖沿いに建つ「西行稲荷」の一画です。
そのお社は崖の中腹にあるのですが、注目は、お社の真下にぼっこりと開いた「穴」。
筆者が“穴場”に異常な関心を示す質であることは自覚していますが、これは何でしょう。穴の入口がアーチ状の石組みで補強され、その奥はフェンスで見えなくなっていますが、供物が置かれ、今も祈りの場になっているのがわかります。
穴がこの上に祀られている西行稲荷と一体のものだったかといえばそうでもないようで(西行稲荷は「火伏の稲荷」として信仰されていますが、もとは別の場所に祀られていたらしい)、神社の方に聞いても「昔からあったのか、防空壕などに使われていたのかは不明」とのご回答。
少なくとも、人が入るような大きさではないようです。
おそらく、東京の稲荷社でしばしば見られる「狐穴」(神使キツネが出入りしたとされる穴)なのでしょう。上野の「穴稲荷」しかり、小石川・澤蔵主(たくぞうす)稲荷の「霊窟」や台東区・根津神社の「乙女稲荷」、品川区・品川神社の「阿那稲荷」もしかり。
崖下にぽっかり開いた穴の多くは、稲荷社が祀られ、秘めやかな祈りの場になっています。過去、実際にキツネが出入りしていたこともあったのでしょう。しかしその姿が見られなくなっても、長い間、令和の現在においてもなお祈りの場は維持されてきました。
民間(民俗)の信仰といってしまえばそれまでですが、日本人は「穴」(とその奥に潜む何者か)に惹かれる感性をずっと保ってきました。それは、どこまでさかのぼれるかわからないほど古くからのものだったと思われ、このようなプリミティブな信仰の場が今もそこにあるのは感動的です。
それにしても、穴に寄り添い呵呵大笑(かかたいしょう)する布袋さんの石像はどういうことでしょう。禅問答を仕掛けられたような思いがし、ますます気になります。
■江戸裏鬼門を守る日枝神社は「比叡山」由来
では次。赤坂氷川神社から徒歩12分の日枝(ひえ)神社に向かいます。
正確にはここは赤坂ではなく千代田区永田町なのですが、よく「赤坂の日枝神社」と呼ばれるほど、このまちと一体化したスポットです。

目印は、「山王下(日枝神社入口)」交差点から見える白い山型の山王鳥居。エスカレーター付きの参道が現代的です。
日枝神社の主祭神といえば、大山咋神(おおやまくいのかみ)。
もとは京都府と滋賀県の境に位置する比叡山の神で、その別称が「山王」。「ひえ」の読みは比叡の転訛(てんか)です。
つまり、山王を祀る比叡山由来の神社が日枝神社なのです。
■日枝神社の愛されキャラは神の使いの猿
山王神は古来、平安京の鬼門守護として崇められ、のちに各地に分霊されますが、将軍徳川家もまた江戸城の鎮守としてこの神を重んじ、江戸城の改築による遷座を経て、現在地に鎮座されました。万治2年(1659)のことです。
こうして江戸時代、日枝神社は江戸城鬼門(北東)の神田明神とならぶ裏鬼門(南西)の守護神として崇敬され、明治維新ののちは皇城鎮護の神社として引きつづき尊崇されてきました。
そんなわけで、権威と格式の高さを誇る日枝神社ですが、とりあえずは、この神社ならではのキャラクターに注目してみましょう。
その名も「神猿(まさる)」。大山咋神の神使(眷属(けんぞく))、いわば山神の使いのサルです。
そのお姿は、神門の中および拝殿の手前に一対拝することができます。
面白いのは、「まさる」の語呂が「魔が去る」「勝る」に通じることから、魔除け、厄災除け、勝運、立身出世のご利益があるとされ、猿が「えん」と呼ばれることから、良縁をもたらすといわれていることです。
せっかくの機会、お参りの証として神猿の各種お守りをいただくのもありでしょう。

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本田 不二雄(ほんだ・ふじお)

ノンフィクションライター、編集者

1963年熊本県生まれ。学研発行の一般向け宗教概説書の編集・制作に長く関わり、仏像や神社、神仏信仰をテーマに執筆制作した書籍(雑誌、ムック含む)は多数にのぼる。単著では『弘法大師空海読本』(原書房)、『ミステリーな仏像』『神木探偵』『異界神社』(いずれも駒草出版)、『日本の凄い神木』(学研・地球の歩き方)、『神社ご利益大全』(KADOKAWA)ほか。

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(ノンフィクションライター、編集者 本田 不二雄)
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