お市の方は、兄・織田信長と夫・浅井長政が敵対したことで板挟みの状況となった。歴史学者の黒田基樹さんは「小説やドラマでは、長政との愛情や信頼関係を理由に離婚しなかったかのように描かれることが多いが、それは近代的な夫婦関係をもとにした幻想にすぎない」という――。

※本稿は、黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■「信長の妹」との結婚で友好関係を築く
長政は、永禄10年(1567)に織田信長と同盟を結び、お市の方と結婚した。それは、朝倉家に従属する関係にあったなかでのことであった。にもかかわらず、信長と同盟を結んだのは、隣国の美濃が信長の領国となり、しかも信長が同国に本拠を移してきたことで、信長が隣接する政治勢力として登場することになり、六角家への対抗のため、いちはやく信長に接近し、友好関係の形成をはかったのだろう、と思われる。
そういえば長政とお市の方の結婚が成立した直後の時期に、六角家は信長との友好関係の構築をはかってもいた。ということは、長政と六角家はともに、新たに美濃を領国とした信長に接近をはかっていたことになる。
そこでは長政がいちはやく信長との友好関係の構築に成功したといえよう。しかもお市の方との結婚までも成立させることになり、その関係を確固たるものにしたのであった。
■戦国大名としては対等ではなかった
それでは長政と信長の同盟関係はどのような性格のものとみることができるであろうか。長政の立場は、越前朝倉家に従属する国衆というものであった。他方の信長の立場は、美濃・尾張・伊勢北部という複数の国を領国とした戦国大名というものであった。
戦国大名としての規模でいえば、相模北条家・甲斐武田家・越後上杉家や安芸毛利家と比べれば、はるかに小規模であったものの、近江周辺では随一の領国規模にあった。
長政の周辺地域では、最大規模の戦国大名であった。このことからすると、たとえ婚姻関係を成立させたとはいえ、長政と信長が全く対等の関係であったとは思われない。それは信長を上位にした関係であったと考えられる。
ただそれが、長政が信長に従属する関係であったのかは、わからない。長政が信長本拠の岐阜城に出仕したり、信長に人質を出していれば、そのように認識できるが、その事実は確認されない。
とはいえ両者の関係は、翌永禄11年に、信長が足利義昭を擁して上洛を遂げたことで、決定的に変化する。
■将軍の後見役として勢力を広げる信長
足利義昭は室町幕府将軍に就任し、信長はその後見役になった。実質的な政治的地位は、将軍を補佐する管領(かんれい)に匹敵するものであった。
その上洛戦にも、長政は軍事動員をうけ、足利義昭に供奉している。これは名目的には、足利義昭に供奉したものであったが、実際の軍事行動は信長によって指揮されていたので、実質的には信長の軍事指揮下におかれたのと同意であった。しかもこの時、信長は六角家を滅亡させて、その領国を併合した。それにより長政は、領国を信長の領国に挟まれるかたちにおかれたのである。

足利義昭によって再興された室町幕府において、長政がおかれていた地位については、元亀元年(1570)正月に知ることができる。信長は、幕府配下の大名・国衆に、禁裏御所(きんりごしょ)の修造と将軍への奉公のために上洛を命じるが、そこで長政については、「京極殿(高吉)〈同浅井備前(長政)〉」と記されている(『増訂織田信長文書の研究上巻』210号)。
幕府配下の大名として、長政の旧主である京極高吉があげられていて、長政はその補佐役としての位置付けにあった。しかもそれに続いて「同尼子・同七佐々木・同木村源五父子・同江州南諸侍衆」と記されている。
■朝倉家にも信長にも従属する立場に
これらは永禄11年以降に、長政が経略もしくは盟約関係を形成した地域の国衆であった。広義でみれば長政の領国とみることもできるといえるが、それらも含めて、名目的には京極家が近江国主の地位におかれ、その領国と位置付けられていたことを示している。
そして信長自身は、長政について「彼等(長政)の儀、近年別して家来せしむ」(同前245号)と評し、その敵対についても「浅井備前守別心し色を易(か)うる」(同前)、「手の反覆の体」(同243号)というように、自身に従っていた存在であった、という認識を示している。
幕府の政治秩序のうえでは、近江国主は京極家で、長政はその補佐役であったが、京極家の領国と認識されていたものは、事実上は長政の領国であり、その長政は信長の従属下にあった、という認識であったと考えられる。
この意味において長政は、信長に従属する国衆の立場にあった、とみなされる。実際にもその軍事指揮下で行動していたのであるから、長政自身も、実質的にはそのような認識にあったことであろう。
このことから長政は、足利義昭の上洛戦に供奉して以降は、信長にも従属する立場にあったとみなされる。長政はもともと、朝倉家に従属する立場にあったが、以後は、信長にも従属する関係になったといえ、すなわち両者に両属する立場にあった、とみなされる。

■両属条件は「大名家同士の仲が良い」こと
ところで、そのように二つの大名家に両属することができるのか疑問にもたれるかもしれない。しかし戦国大名領国の境目地域に存在する国衆には、そのような事例は珍しいことではない。
ただしその状態が可能なのは、上位に位置した二つの戦国大名家が友好関係にあったことが前提になる。例えば、東美濃国衆の岩村遠山家や苗木遠山家は、信長と甲斐武田信玄との両属下にあったし、上野国衆(こうづけくにしゅう)の国峰小幡家は相模北条家と武田信玄との両属下にあった、という具合である。
この長政の場合も、朝倉義景は、将軍足利義昭配下の大名として位置していたので、それに問題はなかった。ただし朝倉家と信長に直接に友好関係は成立してはおらず、あくまでも足利義昭を通じての関係でしかなかったが、それでも両者が敵対関係にあったわけではなかったから、両者への両属関係は問題なく成立しえたのであった。
■長政は迷わず「朝倉義景の支援」を選んだ
しかしその状態は長くは続かなかった。信長は元亀元年正月に、足利義昭への奉公を名目に、朝倉義景に上洛を命じたらしい。それは事実上、朝倉家が信長に従属するかどうかを意味した。
この時期、若狭武田家は朝倉家の庇護下におかれていて、若狭は事実上、朝倉家の領国に編成されるような状態にあった。そのなかで武田家の重臣に、朝倉家による支配を受け容れず、抵抗する存在があり、それが将軍足利義昭に庇護を求めていた。
足利義昭は、これを受け容れ、その反対勢力で朝倉家に従っていた敦賀武藤家の討伐をはかり、それを信長に命じた。
そして信長は同年4月に、越前に向けて進軍した。それに対して朝倉家は、領国防衛のためそれに敵対したのである(柴裕之『織田信長』)。
こうして信長と朝倉義景は、敵対関係になった。ここでいずれに味方するかという進退を迫られることになったのが、長政であった。どのような経緯があったのか、当時の史料には全くみえていないが、長政はすぐさま、足利義昭・織田信長から離叛し、朝倉義景を支援する立場をとった。
信長が越前に侵攻し、朝倉家の属城の手筒山(てづつやま)・金崎(かねがさき)両城(敦賀市)を攻略したことをうけて、長政は信長から離叛し、朝倉家支援のため、越前に向けて進軍するのであった。
■信長「まさか長政に裏切られるとは…」
このことを知った信長は、
然(しか)れども、浅井(長政)は歴然御縁者たるの上、剰(あまつさ)え江北一円に仰せ付けらるるの間、不足これあるべからざるの条、虚説たるべき、
と、にわかに信じることができなかったことが伝えられている(『信長公記』前掲刊本107頁)。
これによれば信長は、長政は妹のお市の方と結婚しており、親密な婚姻関係にあったうえ、近江北部一帯を領国として与えていたから、長政に信長に対して不満があるはずはない、という認識にあったことが知られる。
しかし信長は、長政が朝倉家に従属する存在であったことを、忘却していたとしかいいようがない。長政にとっては、朝倉家への従属関係は、信長との友好関係よりも10年近くもさかのぼるものであった。長政はその関係を尊重したのであった。
■平穏な結婚生活は2年半で終わった
ちなみに江戸時代成立の軍記史料では、長政が信長と同盟を結ぶ際に、朝倉家との関係維持を条件に、敵対の場合にはあらかじめ通知することを要求し、信長はそれを承認したにもかかわらず、そのことなしに朝倉家攻めをおこなったため、信長から離叛した、という展開が記されている。

さもありうるようにも思えるが、当時の状況にてらしてみるとありえないであろう。長政と信長が同盟を結んだ時に、信長と朝倉家は敵対関係にあったわけではなく、むしろ足利義昭を擁立するという点で、協力関係にあったとみなされるからである。先の話は、長政が朝倉家支援のために信長から離叛したという結果をもとに、後世の人々が想像したものというべきであろう。
ここに長政は、信長と敵対関係となった。その後、信長との間で熾烈な攻防を展開していくのであった。それは3年後の天正元年(1573)9月に、長政が信長により滅亡させられるまで続いた。そしてこれによってお市の方は、実家とは敵対関係におかれることになった。長政と結婚してから、わずか2年半後のことであった。
■「愛していたから離婚しなかった」は幻想
これに関してはよく、なぜお市の方は離婚しなかったのか、という疑問があげられる。しかしこの当時、実家と婚家が敵対関係になったからといって、離婚することはほとんどみられない。むしろ離婚した事例のほうが、極めて珍しいのである。しかも戦国大名家レベルにおいては、離婚の事例はみられていない。

このことからすれば、この時にお市の方が離婚していないのは、至極当たり前の事態であった。小説やドラマでは、離婚しなかったことをもとに、長政との愛情や信頼関係が想像されることが多いが、それは近代的な夫婦関係をもとにした幻想にすぎない。
戦国大名家・国衆家同士の婚姻関係は、いわば国家と国家の外交関係にあたった。敵対関係になったからといって離婚したのでは、両国の外交ルートは全く存在しなくなってしまう。むしろ敵対関係になったからこそ、当主・家臣による表向きの外交ルートは断絶しても、婚姻関係による内向きの外交ルートとして機能することができるのである。
■戦国時代の女性は「切り札」だった
駿河今川家と相模北条家が敵対関係にあったなか、今川家「家」妻の寿桂尼(じゅけいに)は、娘(瑞渓院殿(ずいけいいんでん))が北条氏康の妻であり、北条家とは「骨肉」関係にあることをもとに、両家の和睦を工作した(拙著『今川のおんな家長 寿桂尼』)。
奥羽伊達政宗の母保春院(ほしゅんいん)は、伊達家と実家の出羽最上家の抗争に際して、最上義光(よしあ)ときょうだいであることをもとに、両家の和睦の調停に乗り出していた(遠藤ゆり子『戦国時代の南奥羽社会』)。
婚姻関係の継続は、こうした親子・きょうだいの関係をもとに、外交関係を打開する根拠になっていたのであった。お市の方の場合も、同様に考えられるであろう。お市の方も長政も、離婚することなどは全く考慮することはなかったであろう。婚姻関係を継続していれば、将来における情勢の変化に対応しうる有効な権能となる、と考えていたに違いなかったであろう。

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黒田 基樹(くろだ・もとき)

歴史学者、駿河台大学教授

1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。著書に『下剋上』(講談社現代新書)、『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国北条五代』(星海社新書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』(以上、平凡社新書)、『お市の方の生涯』(朝日新書)など多数。近刊に『家康の天下支配戦略 羽柴から松平へ』(角川選書)がある。

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(歴史学者、駿河台大学教授 黒田 基樹)
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