※本稿は、黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■織田勢力を二分する戦いの始まり
勝家と秀吉の対決は、勝家方の先制攻撃ではじまった。天正11年(1583)正月、信孝・勝家に味方していた滝川一益が挙兵した。滝川は、北伊勢を領国としていて、柴田・羽柴・惟住(丹羽)らに匹敵する有力な織田家の家老であった。
しかし「清須会議」後の織田体制では、政権中枢から排除されていた状態にあった。そのため滝川は、信孝・勝家と秀吉の対立にあたって、信孝・勝家に味方する立場をとっていた。滝川はここで、領国周辺の攻略を開始したのである。そのため秀吉は、2月10日に、滝川攻撃のため、北伊勢に侵攻した。
これをうけてであろう、勝家も2月28日に、味方勢力支援のために、まだ雪深いなか、先陣を近江北部に出陣させた。自らも3月に入ってから近江北部に進軍し、柳ヶ瀬(長浜市)に着陣した。これをうけて秀吉は、北伊勢の攻略を信雄に委ねて、自身は近江北部に転進し、柳ヶ瀬の柴田軍に対峙する。
■「秀吉vs勝家」の決着はあっという間
4月に入ると、今度は岐阜の信孝が挙兵した。
合戦に敗北した柴田軍は壊滅状態になって敗走し、勝家もまた本拠の北庄城まで敗走した。秀吉軍はこれを追撃しつつ進軍してきて、秀吉は22日に越前府中城(越前市)に着陣した。ここで勝家の与力武将であった前田利家らが秀吉に降伏している。
そして23日に北庄城に攻め寄せてきて、北庄城は秀吉軍に攻囲された。賤ヶ岳合戦の敗北からわずか2日後のことにすぎなかった。合戦での敗北で、柴田軍はほとんど壊滅状態におちいっていたことがうかがわれる。
■最後の宴を楽しんだ後、夫婦の語らい
秀吉軍は北庄城を攻囲すると、時間をおかずに攻め立ててきた。「柴田合戦記」によれば、総構はすぐに破られ、城壁から十間・十五間の距離で布陣してきた。
勝家は防戦することができず、ついに天守に引き上げた。そして信頼ある家臣80人を呼び集めて、「勝家の運命は明日ときまった。今夜は夜明けまで酒宴・遊興し、名残を惜しもう」と言って、酒宴に騒いだという。しかし夜更けになって、家臣らは酒を飲むのを止めて、退去していったという。
そしてお市の方と勝家も寝室に戻り、最後の語らいをしている。そこで勝家はお市の方に、こう語ったという。
小谷の御方(お市の方)は、勝家妻女たりと雖も、将軍(織田信長)の御一類にして、所縁多し、殊更秀吉は相公(信長)の后孫に至るまで、憐憫(れんびん)相親しからざる者なし、明朝敵陣へ案内し、落ち給わんに、何の妨げかあらんや、その儀に同じ給わば、慥(たし)かに送り届くべき由、
(現代語訳)
小谷の御方は、勝家の妻ではあるが、信長の親類なので、所縁のものが多い。とりわけ秀吉は、信長の子孫に対して憐憫し親切にしないわけがない。明朝、敵陣に案内するので、退去することに何の妨げもないだろう。
■お市の方「黄泉までも一緒にと誓った」
ここで勝家は、お市の方に対し、信長の一族であるため所縁のものが多くいるうえ、秀吉は信長の子孫を決して蔑ろにしないはずだからとして、北庄城からの退去を勧めている。そしてお市の方が承知すれば、その手筈をととのえ、確実に秀吉のもとに送り届けることを述べている。これに対してお市の方は、次のように語ったという。
小谷の御方聞き敢(あ)えず、泣きくどき、一樹の陰、一河の流れも他生の縁に依る、況(いわ)んやわれ多年の契りをや、冥途黄泉までも誓いし末(すえ)、たとい女人たりと雖も、意(こころ)は男子に劣るべからず、諸共に自害して、同じ蓮台に相対せん事、希(ねが)うところなり、
(現代語訳)
小谷の御方は聞き入れず、泣きながら語り、「一樹の陰に宿り、一河の流れを汲む事も、皆これ他生の縁ぞかし」(謡曲『小督(こごう)』の一節で、ある木陰に宿ったり、ある川の水を汲むことも、すべて前世からの因縁による、という意味)という、まして私は、多年の契りを結んで、黄泉までも一緒にと誓った、たとえ女性だからといって、意は男性に劣ることはない、一緒に自害して、同じ蓮台の上に座して向き合うのが願いである。
■「婚家と生死をともにする」という結婚観
お市の方は勝家の勧めを敢然と拒否した。謡曲「小督」の一節を引用し、何事も前世からの因縁であるとし、勝家と結婚したからには、勝家とともに死ぬのが筋であり、私は女性ではあるが、その考えは男性に劣ることはないので、一緒に自害することを主張している。
ここからお市の方に、結婚したからには、婚家が滅亡する際にはそれに殉じる考えがあったことがわかる。
本書で、浅井家滅亡の際に小谷城から退去したことについて、お市の方は「くやしい」という思いを持っていたことに触れたが、それはこの考えから出ていたものであった、と理解できるように思う。
お市の方は、結婚した以上は婚家と生死をともにすべきものであり、それゆえに婚家滅亡の際に実家に戻るのは、自身の意志に反するものであったため、「くやしい」と認識していたのであった。
ちなみにこうした考えについて、現代のドラマや小説では、夫との愛情を持ってくるところであろうが、いうまでもなく戦国時代にそのような考えは存在しない。夫婦の愛情などという観念は、近代社会の産物だからである。
■1人目の夫・浅井長政の死で残る後悔
ここでお市の方が拘(こだわ)っているのは、戦国大名家・国衆家における結婚であり、それは国家と国家の外交関係にあたった。お市の方は、婚家と生死をともにすることが結婚したものの責任と認識していたのであろう。
浅井家滅亡の際には、それを果たすことができず、その後は「くやしく」思うことになったので、今回は必ず自分の意志を貫きたい、と考えていたのであった。
このお市の方にみられた結婚観は、当時の戦国大名家・国衆家において、一般的なものであったのかどうか、現在の私に答える準備はない。今後、他の事例に接していくことで、見極めていくことにしたい。しかしそれでも、このお市の方の場合によって、当時、そのような観念が存在していたことを認識できる。
いまだ私がこれまで確認できた事例からの経験的な感覚でしかないが、戦国大名家・国衆家の結婚において、離婚の事例をほとんどみることはできないので、この観念は当時において一般的なものであった可能性は高いように思われる。
しかしその一方で、離婚の事例もないわけではない。そうするとそれはどのような事情が作用したものであったのか、追究の必要性が認識される。そこでの違いは、時代的な変化によるのか、家の階層的な違いによるのか。そうした観点からの追究が必要となるであろう。
■戦国大名家に生まれた女性のプライド
またこれは、結婚を契約と認識するものといえるが、それはいわゆる近代の家族制度における結婚観につながるものといってよい。
さらにはお市の方はそこで、女性ではあるが、男性と同様に契約を守ることを主張している、と読み取ることができる。そこには、男性は契約を守るが、女性はその必要はない、とでもするようなジェンダー観の存在をうかがうことができる。これについてもどのような経緯で成立してきたのか、追究していく必要があろう。
それはともかくとして、ここにみえるお市の方の姿から、お市の方は自分の意志を強く持っていた人物であった、ということがわかる。そしてそれは、家父長制社会のなかにあっても、自らが男性に負けるものではないと自負する、気概を認識させる。
戦国大名家・国衆家を担った女性たちには、このような意志の強さ、気概が必要であったのだろうし、それなくしては戦国大名家・国衆家の存続は果たされなかった、と認識することができるように思う。
■300人が立て籠もる北庄城に攻撃開始
4月24日の午前3時頃から、秀吉による攻撃が再開された。「柴田合戦記」が記す、そこから勝家の最期までの様子をみていくことにしよう。
秀吉軍に、すぐに城中に攻め入られ、「乙の丸」(二の丸にあたるか)で激しい攻防が展開されたらしい。そして「甲の丸」(本丸にあたろう)にまで攻め寄せてきた。
秀吉軍は天守によじ登ろうとしても、城兵から弓・鉄炮によって攻撃された。そのため秀吉は、足軽を後退させ、重武装した勇士数百人を選抜し、鑓(やり)と打物だけで天守に突入させてきた。
■勝家がお市の方に残した最期の言葉
これをうけて勝家は、天守の最上階に後退し、敵勢に向かって言葉戦いし、「勝家は只今、切腹するので、敵勢にも心ある者は、前後を鎮めて見物し、私の名を永遠に語り伝えよ」と大声で名乗った、という。
その後、お市の方に語って、「頼りない約束(結婚のこと)のために、夫の手にかかって死去させてしまうことは、とても痛ましく、とても嘆かわしい。これもまた前世の業(ごう)による因果でなくてなんであろうか。けれども自害は武家の習いであり、生者必滅(しょうじゃひつめつ)、会者定離(えしゃじょうり)、誰がこれを免れることができようか」と語ったという。
これをうけてお市の方、それに勝家の妾12人、30人余りの女房衆たちは、最期にあたって念仏を唱えはじめた。その光景は、柳の枝が風に揺れるように、桃の花に露がついているようなものであったという。
これにはどれほど邪見(因果の道理を無視する考え)の人であっても、剣をとって殺しにくることはないだろうとして、勝家は一人一人を刺し殺し、そのうえで切腹の様子を見ろ、として、まず左脇に刀を刺して、右の背骨まで切りつけ、返す刀で胸の下から臍(へそ)の下まで切って、内臓を搔きだした。
そして近臣の中村文荷斎(ぶんかさい)に、首を打つよう命じ、文荷斎によって介錯されたという。そして文荷斎も、切腹し、信頼ある家臣80人余も、互いに刺し違えたり、自害したりして、ついに柴田家は滅亡したのであった。
こうしてお市の方は、最後は勝家に刺し殺されるかたちで、その生涯を終えた。34歳くらいであったとみなされる。
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黒田 基樹(くろだ・もとき)
歴史学者、駿河台大学教授
1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。著書に『下剋上』(講談社現代新書)、『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国北条五代』(星海社新書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』(以上、平凡社新書)、『お市の方の生涯』(朝日新書)など多数。近刊に『家康の天下支配戦略 羽柴から松平へ』(角川選書)がある。
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(歴史学者、駿河台大学教授 黒田 基樹)

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