豊臣秀吉には、正妻・寧々のほかに複数の別妻がいた。歴史学者の黒田基樹さんは「秀吉の嫡男を産んだのは、別妻の茶々だった。
それは、彼女が信長の妹・お市の方の娘だったからだ」という――。
※本稿は、黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
■「信長の姪」浅井3姉妹の嫁ぎ先
茶々の動向としては、天正11年(1583)8月に、姫路城に居住していた以降は、よくわかっていないが、その後に大坂城に移ったとみて間違いないであろう。
そして次に動向が確認されるのは、それから3年後となる同14年10月1日に、「茶々の御方」が、秀吉母の「大政所(おおまんどころ)」(天瑞院殿)を訪問していることである。これは藤田恒春氏(「大政所の居所と行動」藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』所収)によって指摘されたもので、その後、福田千鶴氏(『江の生涯』)もその指摘を採用している。
ここにみえる「茶々の御方」は、それらが指摘するように、茶々のこととみてよいであろう。そしてそのうえで福田氏が指摘しているように、「御方」と敬称が付されているので、この時には茶々は、秀吉の別妻になっていたと考えられるであろう。すなわち茶々は、この天正14年10月までに、秀吉と結婚したと考えられる。
「渓心院文」では、茶々は、秀吉の求婚に対し、妹の結婚を差配してくれたら結婚する、と答えていた。天正12年に長妹の初が京極高次と結婚し、同13年10月に次妹の江が羽柴秀勝と結婚した。そうすると茶々は、それらをうけて、秀吉と結婚した、と考えられるであろう。
■正妻・別妻がいる中で、茶々と結婚
秀吉の正妻は、木下寧々(高台院(こうだいいん))であった。
福田氏は秀吉の別妻には、茶々・松の丸殿・三の丸殿(織田信長娘、?~1603か)・加賀殿(前田利家娘、1572~1603)の、少なくとも4人がいたことを指摘している(『淀殿』)。
茶々以外の人物で、秀吉の別妻となっていたことが確認できる時期は、松の丸殿が天正18年3月、加賀殿が同年7月、という具合であり(桑田忠親前掲書)、史料の残存状況により、必ずしも早い時期から確認されているわけではない。
ただし松の丸殿については、天正12年に兄高次が秀吉の直臣に取り立てられたのは、松の丸殿が秀吉の別妻になっていたことにともなう、と考えられている。この推測は妥当性が高いとみなされるので、その頃には秀吉の別妻になっていたとみてよいであろう。
また加賀殿については、同14年5月に初めて上洛していることが確認されており、秀吉の別妻になったのはその直後のこととみなされる。
そうすると、茶々が秀吉と結婚した時期には、すでに松の丸殿が、あるいは加賀殿も、秀吉の別妻として存在していた可能性が高くなる。
■妊娠を機に、聚楽第から茨木城へ
もっとも秀吉が茶々に求婚したのは、それらよりも早く、北庄城から退去したのち、おそらく茶々が秀吉に同行して姫路城に移る頃のことであったと思われる。しかし茶々は、妹たちの結婚の取り計らいを要請し、それを優先させており、それが遂げられたうえで秀吉と結婚したのであった。そのため松の丸殿たちよりも、秀吉との結婚時期が遅くなってしまったのであった。
しかし茶々の存在は、その他の別妻とは異なり、格別なものであったとみなされる。それがすなわち、妊娠である。茶々は、天正16年10月には妊娠しており、それにともなって秀吉の差配によって、摂津茨木城(茨木市)に移っている。

それまで茶々は、秀吉の京都での本拠・聚楽第(じゅらくてい)が完成すると、正妻の木下寧々らとともに、同所に移住していた。それが妊娠にともなって、茨木城に移ったのである。それは茶々の出産を、淀城でおこなうことが予定されていて、同城の拡張工事が翌年初めから開始されるが、その工事完了までの措置としてであった。
■なぜ茶々の妊娠・出産だけOKしたのか
しかも秀吉は、茶々を茨木城に移すことについて、正妻の木下寧々に差配を命じている。これは極めて重要な事実を示している。これにより茶々の妊娠は、寧々の承認のうえでのことであったこと、さらにはその子どもの出産についても、寧々の承認のうえでのことであった、ということが認識されるのである。
正妻は、別妻や妾の承認、さらにはその子どもの出生について承認する権限を有していたと考えられる(拙著『武田信玄の妻、三条殿』『家康の正妻 築山殿』)。このことを踏まえれば、茶々が秀吉の別妻になること、そして秀吉の子を妊娠すること、さらにその子どもを出産すること、すべて寧々の承認があったからこそ実現された、と考えられるのである。
そしてここで考えるべきことは、秀吉は数多くの別妻と妾をもっていたにもかかわらず、なぜ茶々だけが子どもを産んでいるのか、ということである。
それは寧々に視点を据えて考えてみると、寧々は、茶々にだけ子どもを産むことを承認した、と考えることができる。
■「秀吉の実子論争」には盲点があった
これまで茶々しか秀吉の子どもを産んでいないことから、秀吉には子どもをつくる能力が乏しいと考えられてきた。それゆえに茶々だけが子どもを産んでいることについて、本当に秀吉の子どもかどうか、という疑惑の目を向けることもみられていた。
しかしそれらの考えは、正妻の承認権を見過ごしたものになる。
徳川家康の次男秀康や、徳川秀忠の四男保科正之が、当初、子どもとして認知されていなかったが、それは正妻の承認をえての誕生ではなかったことによる。それだけ正妻の承認権は強かったとみなされる。茶々の場合についていえば、寧々は茶々にのみ、秀吉の子どもを産むことを認めた、と考えるべきなのである。
ではなぜ、茶々だけが秀吉の子どもを産むことを認められたのか。それは茶々が、織田家一族の立場にあったことによると考えられる。
■「織田家の血筋」が後継者になる条件
秀吉の養嗣子は、信長実子の次秀勝であった。そのことは羽柴家の後継者は、織田家の血筋を引く必要があることを示していた。しかし次秀勝は、同13年12月に病死してしまった。秀吉はその前年に、寧々の甥にあたる秀俊を養子に迎えていて、秀勝死去後は、秀吉後継者の立場に擬せられていた。そうしたなかで寧々は、茶々の妊娠を承認したことになる。
それは羽柴政権が、織田政権を組み替えて成立したものであり、政権を構成する有力大名は、織田家一族とその旧臣によって占められていたことが関係しよう。
彼等への優位性を確保するには、羽柴家の後継者は、織田家の血筋を引くことが必要と認識されていたのであろう。
茶々が秀吉の別妻になった時点で、すでに松の丸殿、さらには加賀殿が別妻になっていたことが想定された。しかし寧々は、彼女たちには秀吉の子どもを産むことを承認しなかったことになる。
秀吉の嫡男の母方の実家となれば、政権内で大きな影響力を持つことになろう。京極家や前田家をその立場におくことは、それらが他の大名家と同格でしかなかったから、適切ではないと考えられたのであろう。やはりそれは、織田家しか考えられなかったことであろう。それゆえに茶々にのみ、秀吉の子どもを産むことが認められたのだろうと考えられる。
■茶々だけが「秀吉嫡男の母親」になれた
茶々は、天正17年5月27日に、秀吉の長男鶴松を産んだ。これにより茶々は、秀吉嫡男の生母として、「御袋様」と尊称されることになり、正妻の寧々に次ぐ地位を確立させる。鶴松は残念ながら、同19年8月5日にわずか3歳で病死してしまうが、茶々の地位が変わることはなかった。
そしてそれから2年後の文禄2年(1593)8月3日に、茶々は秀吉次男の秀頼を産んだ。ここからも寧々が、秀吉の子どもを産むことを茶々だけに認めていたことが認識されよう。
そしてこの秀頼が、その後は秀吉の後継者として存在していき、秀吉の死後にその家督を継ぐことになる。こうして茶々は、秀吉嫡男の生母としての地位を、再び確立させるのであった。

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黒田 基樹(くろだ・もとき)

歴史学者、駿河台大学教授

1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。著書に『下剋上』(講談社現代新書)、『戦国大名の危機管理』(角川ソフィア文庫)、『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書)、『戦国北条五代』(星海社新書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、『戦国大名』『戦国北条家の判子行政』『国衆』(以上、平凡社新書)、『お市の方の生涯』(朝日新書)など多数。近刊に『家康の天下支配戦略 羽柴から松平へ』(角川選書)がある。

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(歴史学者、駿河台大学教授 黒田 基樹)
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