NHK「ばけばけ」では、ヘブン(トミー・バストウ)とトキ(髙石あかり)たちの熊本生活が描かれている。モデルとなった小泉八雲は、熊本でどのように過ごしていたのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に史実に迫る――。
■熊本は“新しいものばかり”の新興都市
NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」は熊本編。しかも、熊本に移って、早くも3カ月からのスタートだった。トキ(髙石あかり)とヘブン(トミー・バストウ)の熊本での新生活は穏やかとはほど遠い。なにせ、いきなり学校が閉校危機を迎えるし。どうもドラマは、これを契機として、トキをアシスタントにヘブンが執筆に励む姿が描かれるようだ。
史実、熊本での八雲は陰鬱としていた。そして、重苦しい空気から逃れるように最初の日本滞在記録『日本の面影(Glimpses of Unfamiliar Japan 忘れえぬ/知られぬ日本の面影、とも)』を書き上げている。
とにかく熊本は八雲を失望させた土地だった。
松江というのは、太平洋戦争でも空襲を受けなかったこともあり現代でも、独特の情緒が残っている。一方の熊本は、西南戦争で丸焼けになった後にできた、明治の新興都市である。古くからの寺社仏閣によって神秘性のある松江に比べて、どれも新しいものばかり(確かに古い寺社仏閣はあるが、松江に比べて少ない)。

おそらくは九州と聞いて「おお、チェンバレン教授が研究している『古事記』の本場‼」なんて期待していた八雲は愕然としたはずだ。
それにも輪を掛けて八雲を陰鬱な気分にさせたのが、人間関係である。
まず、地域の人の八雲に対する期待が違う。松江にいた時は街の人は「なんか県が月に100円も払って、アメリカのすごい偉い作家を中学校の先生に招いたそうだ」と大歓迎だった。ところが、熊本はといえば「はあ、外国人の先生が来たのか」程度である。
■「熊本の新聞」にはほとんど登場しない
思い出してほしい。「ばけばけ」で昨年、ヘブンが松江にやってきた放送回を。本当に、あそこまで盛り上がっていたかどうかはわからないが、とにかくヘブンが来ただけで「こりゃあ、見に行かなきゃ」とばかりに松江の人はお祭り騒ぎ。
対して、熊本ではほとんど無視である。
例えば新聞が、そうだ。ドラマでは騒動の発端になったが、史実の『山陰新聞』も、八雲が松江に到着した日から、去る日までとにかく事細かに、プライバシーにも踏み込むような記事を繰り返して書いている。
ところが、熊本はどうか。
当時の熊本の有力紙である『九州日日新聞』(現在の熊本日日新聞)には、ほとんど八雲が登場しない。
この新聞での八雲の最初の登場は1892年1月5日付の紙面。これは前日に開かれた偕行社(陸軍の親睦組織)での宴会を報じるもの。ここでは、常に日本服を身にまとう日本びいき外国人である八雲に皆の注目が集まっていたことが書かれている。
到着したのは11月なのに、報じられたのは1月になってから、ここに松江と熊本との温度差は明らかだ。以降も、3年間の滞在中に八雲が『九州日日新聞』に登場することは極めて少ない。
■“外国人”に向けられた冷たい視線
紙面を精査した八雲研究者の広瀬朝光は、こう記している。
当時の『九州日日新聞』を読むと、宣教師が教会を建てるために土地を購入するのを著しく非難攻撃し、土地を売ろうとする日本人を売国奴呼ばわりし、宣教師を即スパイと決めつけている。外国人が日本人妻を娶り街を散歩する様子を見て、日本人女性を姦淫し風紀を乱す毛唐連は、速やかに放逐すべしと新聞に論ずる時代でもあり、この風潮は熊本高等中学校の御雇外国人である、ヘルンにも、その矛先が何時向けられるのかわからない情勢であった。
ようは八雲が「『古事記』に描かれた日本神話の神秘が残る土地かあ」と期待して来てみれば、熊本は多くの人々が「この毛唐が、日本の女ば取りやがって、叩き出せ」とヘイトを向けてくるとんでもない魔境だったわけである。
……これは、熊本到着3カ月後からソフトランディングさせないと、朝の連続テレビ小説に似合わない。
そんな八雲の更なる不幸は、西田千太郎がいなかったことに尽きる。

松江での西田は、八雲にとって単なる通訳ではなかった。自らも英語を学び、八雲の学識を尊敬し、怪談採集にも民俗調査にも献身的に協力した。研究助手であり、理解者であり、友人だった。
■「英語教師・佐久間信恭」を最初は絶賛したが…
ところが、熊本で八雲が出会ったのは、西田とは正反対の、腸(はらわた)が煮えくり返るような人物ばかりだった。
中でも、八雲の心情をもっとも害したのが「ばけばけ」に登場する作山(橋本淳)のモデルとされる、英語教師の佐久間信恭という人物であった。
この人物、長男・小泉一雄が『父小泉八雲』(小山書店1950年)の中で「但し、佐久間氏とは後に大喧嘩した」と記しているくらいだから、相当八雲をいらだたせた人物である。
ところがこの人、別に悪人ではない。むしろ、21世紀の日本顔負けの外国人ヘイトに満ちた当時の熊本の中では、極めて先進的な人物である。もともとは、横浜で英語を学んだ後に新渡戸稲造や内村鑑三らと共に札幌農学校に進学。同志社(現在の同志社大学)などで教鞭を執った後に、熊本高等中学校に赴任している。内村鑑三をキリスト教に導いたのは、この佐久間だとされている。
八雲としても第一印象は悪くなかった。
赴任直後には西田に宛てて「知識も豊かで、読書を好む親切な人物」と絶賛する手紙まで送っている。
ところが、間もなく二人の仲は険悪になっていく。
八雲がいらだったのは、佐久間のキャラ設定である。佐久間は札幌農学校卒。西田と同じく大学は出ていないが、苦労を重ねて今の地位にたどり着いた人物だ。
だが、その泥臭い経歴を微塵も感じさせない男だった。
■「文明人を演じている」かのようだった
宗教はプロテスタント(資料によってはピューリタンと記されることもあるが、佐久間が教えを受けたのはオランダ改革派の牧師である)で酒も煙草もやらない。英語が得意で、服装もオシャレ。つまり、信仰すらも「イケてるアイテム」として身につけていたことだ。
明治のこの時期、プロテスタント(特にアメリカ系)信仰は、一種のステータスシンボルだった。仏教? 神道? ダサい。カトリック? 古臭い。
これからの時代はアメリカ直輸入の最新キリスト教!!(舶来志向でも真面目な人はイギリス伝来の救世軍などへ)そんな空気があった。
佐久間は、その「文明開化コンプリートセット」を完璧に揃えた男だった。まるで「苦労人の過去など無かったことにして、生まれついての文明人を演じている」かのようだった。想像するに、こんなセリフを吐いていたのだろう。
「いやあ、古いですね。もうね、これからの時代はこうザンスよ~」
口を開けば欧米かぶれ(生徒の人気は悪かった)、いわば『ドラえもん』のスネ夫と『おそ松くん』のイヤミが合体したような明治の陽キャである。
基本が陰キャな八雲が、こんなヤツとうまくやれるはずないだろう‼
八雲からしてみれば、苦労人だったくせに過去を消してキザな紳士みたいに振る舞っている。それだけでも十分ウザいのに、佐久間の「信仰=俺、イケてる」感は吐き気すら催すものだった(なお、後年になって佐久間はキリスト教徒であることを否定している。八雲の見立ては正しかったのかもしれない)。
■八雲は“ブチ切れ続けた”
八雲にとってキリスト教は、母を奪った宗教だった。ギリシャ生まれの母は異教徒として責められ離縁され、八雲は二度と会うことができなかった。八雲自身も叔母によってカトリック学校の寄宿舎に送られた。
加えて16歳の時の事故で左目の視力を失い、生涯コンプレックスを抱えた。
おそらくは、そんな八雲の前で、佐久間は「アメリカ発のプロテスタントに改宗した自分」を、まるで最新ファッションのように語る鼻持ちならない人物だったのだろう。
きっと、八雲はこんな風に思っていただろう。
「お前が信じてる神のせいで(註:宗旨は違う)、俺の母も、俺自身もひどい目に遭ったんだよ。しかも、お前みたいに、信仰をファッションにしてる奴が一番許せない。勝手に目覚めてろ!!」
これでは、いくら佐久間が学識豊かであっても噛み合うはずがない。
そして、時間が経つほど、八雲の佐久間への憎悪は増していった。
こうして熊本に滞在した3年間、八雲は佐久間にブチ切れ続けることになる。しかも、当時、財政難だった日本政府では学校の予算の削減、外国人教師の給与削減やリストラを進めるようになっていた。つまり、八雲自身も「いつクビにされるのか」不安が尽きなかったのである。そうした不安の怒りの矛先も、佐久間に向けられている。
■八雲の“佐久間攻撃”は苛烈だった
例えば、当時チェンバレンに送った手紙では佐久間は英語の理解に乏しく、ろくでもない教材を使って授業をしているひどいヤツだとまで書いている。赴任直後には「学識豊か」と絶賛していた同じ人物を、である。
さらには、西田には佐久間は、生徒たちを焚きつけて自分の授業をボイコットさせて、追い出そうとしているなんてことも伝えている。
とにかく、熊本滞在時期の八雲の手紙で、佐久間に触れたものは、読むに堪えない内容の連続だ。八雲研究者である速川和男の『小泉八雲の世界』(笠間書院、1978年)では「後に日本版の全集をまとめた弟子達は佐久間攻撃の書簡の処置に困ったのではなかろうか」と記し、初期の小泉八雲全集には収録されていないものもあるとしている。弟子たちが師の名誉のために封印せざるを得なかったほど、八雲の佐久間攻撃は苛烈だったのだ。
おそらくは八雲を好きで研究している研究者をして呆れさせるのだから、相当のものである。
■セツがいたから、文豪・小泉八雲が生まれた
そんな大魔境・熊本で八雲が正気を保っていられたのは、セツの存在、そして怪談である。
セツは後年、熊本時代のこんな思い出を語っている。八雲が「面白いところを見つけた」といいだして、二人で夜の散歩に出た時のことである。
宅を二人で出まして、寂しい路を歩きまして、山の麓に参りますと、この上だというのです。草の茫々生えた小笹などの足にさわる小径を上りますと、墓場でした。
八雲が「面白いところ」として妻を連れ出した先が墓場……普通の夫婦なら絶対にありえない話だが、これこそが八雲とセツの関係を象徴している。
熊本時代の八雲は、完全に二つの世界に引き裂かれていた。
一つは、近代化された学校という「地獄」。もう一つは、古い日本が残る墓場や寺社という「聖域」。
そして、その両方の世界で八雲を支えたのが、セツだった。学校の愚痴を聞き、夜の墓場散歩に付き合う。この妻がいなければ、八雲はとうに壊れていただろう。やはり、文豪・小泉八雲はセツがいなければ生まれなかったのだなと、しみじみ思う。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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