愛知県西尾市にある団子屋の「盛華堂」。その店頭に70年以上立ち続けるのが牧敏子さん97歳だ。
今も週5日、朝から晩まで働き、家族で新しい商品開発に取り組んでいる。苦労を重ねてきた牧さんが今、ノートに刻む言葉がある――。
■97歳の看板娘
三河湾に面し、抹茶の産地として有名な愛知県西尾市。小さな駅を降りて、人通りの少ない静かな住宅街を歩いて5分もすると、一般住宅に紛れて団子屋の「盛華堂(せいかどう)」が見えてきた。
そこに店があると知らなければ、きっと通り過ぎてしまうだろう地味な外観。にもかかわらず、一歩中に入ると次々とお客さんがやって来ては、みな同じものを注文していった。
「みたらし6本と五平餅2本」「みたらし5本とぜんざい2つ」「みたらし10本」
さらに、次々と電話がかかってくる。
「みたらし25本、10分後にお越しですね」
こんな調子でお客さんは引きも切らず、取材した日は最大5組待ちの状態だった。近所に住む常連で何十年も通っている人もいれば、テレビ番組で知り、今回で2回目という人もいた。
盛華堂の看板は2つある。1つは名物のみたらし団子。そして、もう1つは97歳の看板娘「敏子おばあちゃん」こと牧敏子さんだ。

数年前、この敏子おばあちゃんがバズった。影響力のあるインフルエンサーがSNSに投稿した動画は4000万回再生を超え、それをきっかけに地元テレビ局が次々と取り上げ、一躍注目の人となったのだ。
1日50本ほどだったみたらし団子の販売数は、現在1日500本になり、さらに遠方から来るお客さんも増えた。県外や東京から、そして海外からインバウンド客も訪れるという。
■敏子おばあちゃん特製のみたらし団子
盛華堂の名物であるみたらし団子は、販売当時から、注文を受けてからつくることにこだわっている。両面を焼いて、一つずつ丁寧にタレをからめて提供される。
店内には座って食べられるスペースがあり、注文するとお茶と一緒に出してくれる。できたての温かい団子を口にいれると、もっちりとしながらもふわっと消えてしまう不思議な食感に驚いた。タレは甘さよりも醤油のしょっぱさがやや強めで、しっかりした焦げ目もいいアクセントだ。
実は、筆者はみたらし団子が苦手だった。甘ったるいタレがのどにしつこく絡むような感覚が、ずっと好きになれなかったのだ。そのため、盛華堂のみたらしがおいしいとは聞いていたものの、恐る恐る口に入れた。
しかし、一口食べて、「こんなにおいしいみたらしがあったのか」と私の中でこれまでの概念がひっくり返ってしまった。
この味を知って、多くの人が盛華堂のみたらし団子を求めに来るのも頷けた。「私は店をやってて、家族と従業員のおやつにね」と10本以上購入していたお客さんもいた。
97歳にして今も元気に働く敏子さんだが、その長い人生は決して平坦なものではなかった。
■戦争、地震、台風に続く困難
敏子さんは1929年、名古屋市で生まれ、戦時中に家族で約50キロ離れた西尾市に疎開してきた。敏子さんが結婚した夫の父親が創業した店が、現在約100年の歴史を持つ盛華堂だ。
海から徒歩15分ほどの盛華堂が位置する地域は、かつては海苔の養殖や塩の生産が盛んな場所だった。芸者町でもあり、周囲にある多くの旅館から芸妓たちが奏でる三味線の音色が聞こえてきたという。
「今でこそさびれちゃったけどね、昔はすごい賑わってたんだよ。有名な旅館があって、映画俳優やお相撲さんなんかも来たもんだよ」
20代の頃に嫁いだ敏子さんは、義父の営む店を手伝うようになった。当時、よく売れたのはまんじゅうや草餅、蒸しカステラなど。みたらし団子は昭和の中頃から、メイン商品の合間に少量をつくるスタイルで始めた。
夫は会社員だったため、敏子さんは義父から菓子づくりの技術を学び、2人が主となって店を切り盛りした。
しかし、敏子さんが西尾に来てからは、困難の連続だった。空襲から逃れて疎開してきたことに加え、1945年に発生した震度6の三河地震では、死者が2000人近くに及んだ。盛華堂は無事だったものの、近所には倒壊した家があったという。さらに、1959年には伊勢湾台風が襲った。盛華堂も腰の上まで浸水し、砂糖などほとんどの材料がダメになってしまった。
そして、もっともつらかった出来事は、夫が37歳のときに病気で他界したことだ。当時、敏子さんの一人息子はまだ小学校3年生だった。続いて、その3年後に一緒に店を営んできた義父が交通事故で亡くなった。義父は壊れた道具を直すような、手先の器用な人だったそうだ。お菓子作りを教えてくれただけではなく、細かいところに気がつくやさしい人だった。
敏子さんは夫と義父を立て続けに亡くし、店を守りながら幼い息子を育てなければならなかった。
仕事と家事、育児もするには義母の力を借りたのだろうと想像したが、そうではなかった。
■朝3時に起きて、夜11時まで働く生活
地主の娘で明治生まれの義母は、香水をつけて出歩くようなおしゃれな人だった。しかし、敏子さんには「贅沢するな」と言っておきながら自分は美容院に行くなど、敏子さんにつらく当たることもあったそうだ。
「私は15歳のときに母親を亡くして、父親も早くに亡くしてね。実家なんてありゃせんしね、行くところがない。すごく苦労したよ。ようトイレで泣いたね」
敏子さんは店のことに加えて、家事、育児と、忙しく動き続けた。朝3時に起きてまんじゅうをつくり、店を開け、あんこを炊くなど翌日の仕込みをして、子どもの面倒も見て、就寝するのは夜の11時頃。当時はまだ冷蔵庫が普及しておらず、つくり置きができなかったため、その日に売る分は当日につくるしかなかった。接客は義母やスタッフが担当したものの、商品は敏子さんが一人でつくり続けた。
「寝たかどうかわからせん」ような生活を、敏子さんは少なくとも20年以上は続けた。
義母の晩年は、介護もした。
デイサービスのような施設がまだ整っていなかった時代、敏子さんは店を開けながら、自宅で義母の暮らしを支えた。糖尿病を患っていた義母は食事に制限があったが、好き嫌いが激しく、要望を聞くのも大変だった。
義母が85歳で亡くなるまで、敏子さんは家族として寄り添い続けたのだ。
■家族で力を合わせて
戦争、災害、夫と義父の死、義母の介護など多くの苦労を乗り越え、70年以上店を守ってきた敏子さん。現在は息子の妻、昭美さんと孫の由香里さんとともに盛華堂を運営している。
冒頭で紹介したように、盛華堂はSNSで注目されて以来、お客さんの数が一気に増えた。以前は敏子さん一人でのんびりと営業していたが、みたらし団子の販売数が10倍になり、一人では手が回らなくなった。そこで、2~3年前に昭美さんと由香里さんが仕事を辞めて、店の運営に入った。取材時も、昭美さんがみたらし団子を焼き、忙しそうにキビキビと動き回っていた。
一方、孫の由香里さんは若い感性を活かした新商品をつくり、SNSを使って宣伝、広報に力を注いでいる。盛華堂のInstagramには「クリスマスあん団子」や「ハロウィンあん団子」など、カラフルでかわいらしい商品が載っており、これらは由香里さんのアイデアだ。敏子さんは、由香里さんのことを「素質がある」と期待を込めて話す。

敏子さんは現在週5日、午前9時から午後9時まで働いている。朝、店を開けてお客さんの対応をし、夕方以降にみたらし団子の仕込みをする毎日だ。
■SNSでバズった、昔ながらのつくり方
盛華堂のみたらし団子の材料は米粉と水のみ。機械で材料を混ぜ合わせた後、敏子さんと昭美さんの2人で、ギュッギュッと力を込めて押していく。手でこねることで、より弾力が出るのだという。
米粉をこねた後は細長いロープ状にして、縦に線が入った木の道具に乗せていく。道具は上下でセットになっており、原料を挟んで数回コロコロと転がすと、あっという間に丸い形になって出てきた。
「今みんな機械でやるから、こんなの使っとる人いないでしょう」と言う敏子さん。確かに、道具は見るからに年季が入っているし、古風なやり方なのだろう。しかし、注目されたSNSの動画にも、この昔ながらの方法で団子を形成する様子が映されていた。古くて珍しいからこそ、多くの日本人、さらには海外の人を惹きつけたのかもしれない。
この団子をつくる道具「球断器(きゅうだんき)」は、敏子さんの夫が通勤途中に百貨店で購入してきたことをきっかけに使い始めた。以前はすべて手作業だったが、球断器でつるくようになってから一気に楽になった思い入れのある品だ。
丸くなった原料は一つずつ串に刺し、手で少しつぶして平らにしていく。この後は蒸しておき、注文が入ってから焼いて、タレをつけて提供する。
「米粉は、たとえば新米と古米とでは状態が違うんです。米粉によって水分量を変えたり、季節によっても調整したりしています。主に、私と夫で考えて試しながらやっています」(昭美さん)
テキパキと仕事をこなしているように見える昭美さんだが、「まだまだ手探りなことが多い」という。
昭美さんの夫、つまり敏子さんの息子の靖彦さんは現在、会社員をしながら休日に店を手伝っている。敏子さんは「継がなくていい」と言っていたが、靖彦さんは「この味と店を守りたい」と、店を継ぐつもりでいるそうだ。
みたらし団子は義父から基礎を学び、敏子さんが何度も改良しながらつくり上げてきた。焼きたてはもちろん、冷めても固くならないのも特徴だ。筆者も翌日に食べてみたところ、ややずっしりとしたもちもち感に変わっていて、焼きたてとは違う食感を2度楽しめた。
義父、敏子さん、息子夫婦、そして孫まで、4世代でつないできた盛華堂の味だ。
■90歳まで車を運転
盛華堂は40年ほど前から、子どもたちのおやつとして月に1回、近隣の保育園にみたらし団子を届けている。近所の人が「おいしいから」と、保育園との間を取り持ってくれたことがきっかけで始まった。届け先は5軒から4軒になったものの、今も続いている。近隣の人々にとって、幼い頃から慣れ親しんだ盛華堂のみたらし団子が「懐かしの地元の味」になっているようだ。
しかも、敏子さんは90歳まで車を運転し、自ら配達していたというから驚く。
「もっと乗りたかったけど、テレビ見とると、(高齢者が)ブレーキとアクセル間違えたりするでね。それに、白内障になってきて、もうダメかなと思って諦めた」
免許更新のタイミングで返納したが、本当は「バイクに乗りたかった」と笑いながら話す。バイクは諦めて、しばらく自転車に乗っていたが、ヒザの軟骨がすり減ってきたため、今では自転車もやめた。それにしても、90歳まで運転し、最近まで自転車に乗っていたという敏子さんの活発さにはただただ感心させられる。
■「仕事が生きがい」
これまで70年以上働いてきた敏子さん。食事の好き嫌いはなく、3食しっかり食べ、今も週5日元気に働く。その原動力は、店に来てくれるお客さんたちだという。
「私は仕事が趣味だね。お客さんが『パワーもらいに来た』と言ってくれるもんだで、その言葉でまた元気が出ますね。仕事が生きがいだよ」
取材時も、「おばあちゃんいる?」「元気にしとる?」と話しかけるお客さんたちがいた。少し丸まった背中で、ゆっくりと動く敏子さんを、お客さんたちは温かいまなざしで見守っているように思えた。
現在97歳の敏子さんは健康面に問題はないものの、「最近耳が遠くなった」と話す。
「電話でもね、みたらし2本って言ってるのを、20本? と聞いちゃったりね。特に右耳が聞こえん。(お客さんが)マスクしてるとまた大変だね。迷惑かけちゃってないかねぇ」
敏子さんは「お待たせして申し訳ない」と言うが、ここに来るお客さんはきっとそれも承知で気長に待っているのだろう。それよりも、今も現役で働く敏子さんの姿に励まされているのではないだろうか。
敏子さんは、あるノートを見せてくれた。思いついたときに言葉を書き留めているそうだ。そこにはこう書いてある。
「不足を数えず 感謝に生きる」
おいしさの秘訣を聞くと、「愛情を込めてるから」といたずらっぽく笑った敏子さん。盛華堂のみたらし団子には、苦労を乗り越えてきた敏子さんの愛と感謝が詰まっている。

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中谷 秋絵(なかたに・あきえ)

インタビューライター

名古屋市在住。インドでの就業や事務職などを経て、2021年よりライターとして活動。経営者インタビューや地方創生、地域企業の挑戦をテーマに取材を重ねている。熱意を持って行動する人々の物語を発信し、社会をよりよくするヒントを届けることを目指す。インドダンスのパフォーマーとしても活動中。

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(インタビューライター 中谷 秋絵)
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