秀吉の出世を語るとき、必ず挙げられるのが「墨俣一夜城」だ。だが『武功夜話』をめぐる偽書論争もあり、「後世の創作」とする見方は根強い。
本当にそうなのか。蜂須賀正勝が率いたという川並衆の水運技術に目を向けると、“一夜”伝説の裏にあった合理性が浮かび上がる。江戸文化風俗研究家・小林明さんが迫る――。
■眠っていた古文書が「創作説」を揺るがす
豊臣秀吉の功績として有名な「墨俣一夜城」は、寛政9(1797)年~享和2(1802)年に成立した『絵本太閤記』に登場する逸話だ。秀吉の伝記『甫庵太閤記』にも「信長が洲俣(墨俣)に築いた」という記述はあるが、それが秀吉によって、わずか数日で築かれたというエピソードとして描かれるのは、『絵本太閤記』が初出だった。
『絵本太閤記』には蜂須賀正勝や竹中半兵衛といった、のちに秀吉を支える人々との出会いも劇的に描かれ、私たちが現在知る秀吉像の根本を形作っている。だが、「しょせんは絵本(物語)じゃないか」と捉える人も多く、墨俣一夜城も秀吉の出世話を彩る創作と見られていた。
ところが昭和52(1977)年、愛知県江南市の旧家の蔵から古文書が発見され、そこに墨俣一夜城に関する詳細な記載があることがわかった。
この旧家の先祖に織田信長や秀吉と関係深い前野将右衛門(まえのしょうえもん)(長康(ながやす))がいたことから、古文書は総称して『前野家文書』と呼ばれ、文書の代表的な箇所を『武功夜話(ぶこうやわ)』というようになった。そして『武功夜話』によると、将右衛門と蜂須賀正勝は共に一夜城の築城に参加していた。
■造ったのは城ではなく“砦”
ただし『武功夜話』は偽書、つまり捏造された文書だという見解を示す歴史研究者は多い(服部英雄・藤本正行)。その理由は、例えば明治や昭和の町政施行や合併によって初めて誕生した地名が載っているなど、辻褄の合わない記述があるためだ。

一方で、所蔵する旧家の立ち会いのもとで原本の調査を行った研究者が「偽書ではない」とし(小和田哲男)、また元の史料に誰かが手を加えた不正確なものであるにせよ、「他の史料にない史実を記載している」(谷口克広)という意見もある。
このような意見は、地名の齟齬など後から書き加えた要素があったにせよ、それをもって全体を否定することもないのではないかという、提言だと思う。
平成3(1991)年には、岐阜県大垣市に墨俣一夜城が再建された。この城は大垣市墨俣歴史資料館と呼ばれ、城郭に模擬天守を持ち、館内には『前野家文書』に基づいて構成した、一夜城の築城経緯などを展示している。市の重要な観光資源である。
そしてNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも、墨俣一夜城は登場した。今も歴史ファンの好奇心をとらえてやまない。
だが、一夜城の「城」の字から、近世城郭と誤解している人もいるようだ。
実際、大垣市の長良川沿いに立つ墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)は、前述のように天守を持っている。これは、そもそも天守のなかった場所に観光用に建てた模擬天守、つまり“天守風”の建築物で、こうした建物を造れば見物客の増加が見込めるからに過ぎない。
日本人にとって人気のお城とは、“=天守”だから、観光政策上はやむを得なかったともいえるだろう。
■秀吉は砦を使い捨てた
だが、秀吉が永禄9(1566)年に築いた墨俣一夜城は、城郭ではなく砦(とりで)だったはずだ。
砦とは急ごしらえの臨時軍事拠点で、竹や木で作った柵や、土塁・空堀などを中心とした簡易なものだ。
『時代劇の「嘘」と「演出」』(洋泉社)に、面白い話が載っている。
平成8(1996)年、竹中直人主演の『秀吉』第6回のタイトルは、そのものずばり「墨俣一夜城」だった。同作の時代考証を担当していたのは、前述の小和田哲男。小和田は制作スタッフに、撮影セットはくれぐれも城郭ではなく砦としてほしいと念を押したという。セットに城が出現するのは認め難かったのだろう。
秀吉は“砦マニア”といえるほど、各地に砦を築いている。例えば天正9(1581)年、鳥取城攻めの際に本陣山の山頂に築いた陣城(前線基地)である太閤ヶ平(たいこうがなる)を中心に、大規模な連砦(れんとりで)の遺構が残っている。
また天正12(1584)年、徳川家康・織田信雄と激突した小牧・長久手の戦いでも、敵方の倍近くの数の砦を築いた。現在は石碑が立っている。
秀吉は必要に応じて砦を急増・量産し、戦いが終われば廃棄した。「もったいない」などという考えは、一切なかったろう。
一度拠点として築いたものは後々まで守るという、武士的な発想がなかったからかもしれない。
そして、全国に残る砦の跡を見た人は後世、「秀吉なら墨俣に築いても不思議ではない」と考えたのではないだろうか。
■陰の立役者“川並衆”の正体
砦は戦略的な要衝に築くことが多い。墨俣も美濃(岐阜県)と尾張(愛知県)の国境に位置し、長良川沿いにあって水運の利便性に長けていた。
秀吉は美濃の水運業者・川並衆(かわなみしゅう)に協力を依頼し、美濃勢に気づかれぬよう、川を使って竹や木材を墨俣に運び込むことに成功したとある。
『武功夜話』によると、この川並衆が蜂須賀正勝、前野将右衛門といった土豪だ。実は川並衆とは『武功夜話』にだけ見える呼称で、そうした呼び名が実在したかは不明だというが、彼らがそもそも木曽川や長良川の流域に勢力を持った一族だった可能性は高い。
また『武功夜話』には、川並衆が出入りしていた有力者・生駒氏の屋敷に娘がおり、彼女が信長のお手付きとなって嫡男・信忠、次男・信雄、そして徳川家康の嫡男・信康と結婚した五徳(ごとく)を産んだという話を所収している。
上記の信長の3人の子は、母親が誰だったかがはっきりとわからないが、母を生駒氏の娘とするのは『寛政重修諸家譜』(寛政年間に江戸幕府が編纂した大名・旗本の家譜集)の系譜図と一致している。
さらに将右衛門と正勝は桶狭間の戦いでも信長のもとに馳せ参じていたものの、十分な恩賞にあずかれず不満を抱えていた。そこに秀吉が協力を依頼してきたため、今度こそ実力を認めさせてやるとばかりに、水運と土木作業に邁進。墨俣一夜城を瞬く間に完成させたとある。

蜂須賀、前野は、こののち秀吉に仕える。こうした点を見ても、『武功夜話』はところどころ、のちの系図や史実とシンクロしている。
■“一夜”伝説を可能にした運材技術
もう1つ、美濃の水運について重要なことに触れたい。
美濃・尾張にまたがる濃尾平野を流れる木曽川・長良川・揖斐川の3つは、総称して「木曽三川」という。この中でも、木曽川の運材は江戸時代以前から盛んだった。
斎藤道三が美濃を手中にしていた16世紀半ば、すでに木曽川上流の兼山(かねやま)(岐阜県可児市)に物資運搬用の川湊(かわみなと)(港湾拠点)が整備されていた。また永禄11(1568)年、信長が足利義昭を奉じて京へ上洛した際には、山中から切り出した京都御所修築用の木材が、兼山を中継して運ばれたという(可児市HP)。
道三や信長の頃に、どのような木材運搬方法があったか、具体例はわからない。だが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いから同20(1615)年、いわゆる「慶長の築城ラッシュ」の時期、城の建設に必要な木材の運搬に、木曽三川を使った特殊な技術が発達していたことはわかっている。
この方法を「木曽式運材法」といった。
特徴は、山中で伐採した木材を渓流まで運び、次に川に1本ずつ流し、下流に頑丈な綱を張ってせき留める。その後、木材で筏(いかだ)を組み、さらに下流へ向かう。
下流に行くにつれ複数の筏を連結する。
どこかで聞いたような話だ。
そう、墨俣一夜城を築くにあたって、切り出した竹や木材をあらかじめ組み立てておき、川に流して墨俣まで流す――一夜城の伝説の手法と似ているのだ。
この運材法が信長の時代にあったとは断言できない。しかし信長の頃は未完成でも慶長年間には発案され、それを秀吉のアイデアとして『武功夜話』『絵本太閤記』の著者が転用したと見るのが、自然ではないだろうか。
■“木曽式”が築城ラッシュに寄与
史学者で織豊期研究会会長の藤田達生は『武功夜話』を指して、たとえ偽書であっても作成の背景や意図を知れば、偽文書として切り捨てる時代ではないと説いており、筆者はその考えに同調する。歴史の「創作」「偽書」も、元ネタがあればまったく架空とはいえないと思うのだ。
木曽式運材法によって運ばれた木材の終着地は、伊勢湾の桑名や尾張の熱田で、巨大な貯木場があり、藩の管理下にあった。同藩は江戸時代を通じ木曽・美濃・尾張に及ぶ広域の経済圏を形成し、これが藩財政に寄与した。
また、桑名・熱田に到着した檜・欅・杉・松などの資材は、江戸城・駿府城・名古屋城の用材として活用されたという。木曽式運材法が築城や近世城郭の興隆に果たした役割は決して小さくない。
墨俣一夜城の伝説は、そうした城の建設のスピンオフといって良い。
そのように捉えると、この伝説がとても味わい深く思えてこないだろうか。

参考文献

・滝喜義『武功夜話のすべて』(新人物往来社、1992年)

・原田実『偽書が揺るがせた日本史』(山川出版社、2020年)

・藤本正行、鈴木眞哉『偽書「武功夜話」の研究』(洋泉社、2002年)

・谷口克広『歴史に学ぶ信長・秀吉と家臣たち』(NHK出版、 2000年)

・安田清人『時代劇の「嘘」と「演出」』(洋泉社、2017年)

・藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社、2007年)

・松田之利編『街道の日本史(29) 名古屋・岐阜と中山道』(吉川弘文館、2004年)

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小林 明(こばやし・あきら)

江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表

編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。江戸文化風俗研究家としてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。

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(江戸文化風俗研究家 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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